【無名】東京の武将たち【知りたい】 [無断転載禁止]©2ch.net (806レス)
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555: 2021/06/30(水)21:48 ID:i8wKa9TX(5/6) AAS
申し訳ない、個人的には武蔵千葉氏の話で東京の武将の話を
書き込んでるつもりだったんだけれども……
三田綱秀の祖父三田氏宗も和歌に通じてる、こういう話も心が躍りますね
556
(1): 2021/06/30(水)22:54 ID:i8wKa9TX(6/6) AAS
2023年にハリポタランドが開園されたら豊島氏が少し注目されそうですね
557: 2021/07/01(木)00:44 ID:uro3c5rT(1) AAS
>>556
豊島園があっても注目されなかったからなあ…。

同じく豊島氏&道灌関連だがやや動いて石神井城址の話。
俺が餓鬼の時分は柵も何も無くて勝手に入り込めた。
三宝寺池でザリガニを釣るついでに落葉のたっぷり積もった堀跡を駆け下り駆け上るなどして散々遊んだものだった。
最近は立派な「史跡」として頑丈な柵が張り巡らされて普段は厳重に立入禁止、
餓鬼は勿論のこと新来の大人にとっても地元のものとして馴染むにはハードルが高かろう。
保存の為に致し方無しとは重々承知ながら、それで良いのかと些か悩む。
痛し痒し。
558: 2021/07/01(木)18:44 ID:4L0xBi1Y(1/2) AAS
豊島氏といえばその一族に赤塚、志村、宮城、滝野川、平塚氏がいて宗家は豊島園の地域を
その一族たちが豊島郡の東を治めていた。土地として平塚はその後後北条氏で足利義氏と太田康資の地に
なっており、滝野川は康資、その家臣板橋氏になっている。板橋氏(他の一族も)は
太田氏や武蔵千葉氏の家臣化され、渋谷の広尾まで飛び地で収めている(その後興津氏に渡る)
板橋氏は北条家の中で色々な活躍が見れる。また宮城氏は岩槻太田氏の家臣になり変動もあるようだ。

主家豊島氏で言えば道灌により攻められ足立郡に逃げ滅んだが、船橋夏見において
旦那 夏見豊嶋勘解由左衛門尉平朝臣胤定、彦三郎弟源五郎戒名道頓、子息彦三郎胤重とあり
この地に1536年以前から胤が付き主家と同じ勘解由を名乗る豊島氏と円城寺道頓と息子胤重がいたこと、
1517年頃から府川で豊島氏が出現していることはつながっていると思いたい、つまり主家に近いものが
勘解由を名乗り、婚姻があったか武蔵千葉氏から偏諱があったか家臣化されたものがこの地にいたと
省2
559: 2021/07/01(木)20:27 ID:4L0xBi1Y(2/2) AAS
また色々タレ流すがご了承を願いたい。
武蔵千葉氏勢力圏説の補完。
かぶったことを書くことがわりとあるのは申し訳ない。

雲玉和歌抄の大森慶蔵主だがおそらく道灌時代の連歌会で会ったのであろう大森寄栖庵氏頼であろう。
その後子孫か一族の子孫が北条氏での江戸衆の大森殿になっている。江戸歌壇におけるものと見える。

松月院の開基の自秀(自胤叔父)が千田千葉氏とあるのは書いたが、この自秀も1506年に亡くなっている。
通説は自胤=良胤=自秀とするが、別人で自秀も先に書いたように玄鼻での救援で亡くなったのかもしれない。
また松月院の梵鐘銘には春日氏の名が多く見え、これも武蔵千葉氏が岩槻辺りまで影響を持ってたと見える。
与力に板橋城の板橋氏と赤塚城の松戸氏がいるのも、補完材料になると思う。また逆に松戸の過去帳に滝野川氏が
見える。
省3
560: 2021/07/02(金)16:36 ID:Ik9ZHltc(1) AAS
続補完

所謂伝承、戦記物だが、高城氏が武石氏を攻める際に
中沢壱岐守の守る中沢城(鎌ケ谷)が落ちたという話。

同じ中沢氏かは不明だが1551年に岩槻の高曽根村常香寺を
行蓮社戒誉林公上人と檀那中沢舎人、栗原越中守などが中興開山しているようだ。
が、それにあたる寺は分からなった。
ただこの栗原は栗原郷を想起させるのでおそらく1551年には岩槻城あたりに
武蔵下総国境の中沢氏と栗原氏がいたようだ。
また行蓮社戒誉林公上人だが、
1453年(享徳の乱前)に善徳寺(現北区)を江戸に開山した
省9
561
(1): 2021/07/06(火)01:02 ID:aY8FehP8(1/2) AAS
調べれば調べるほど訳が解らなくなるわが地元の戦国武将(?)、
保谷出雲守直政。

仲間たちと共に上保谷村の開基となった−−保谷六苗−−と伝えるが、
その活躍年代さえ文献史料によって鎌倉末期から永禄年間までバラバラ。
鎌倉御家人だった、小田原北條の与力だった、いや実は僧侶だった、…。
本人の墓は確かに在るし保谷氏他六苗は今も地元の大姓だから全く虚構の人とも思われないが、
六苗伝説自体に早雲伝説の影が仄見えるような気もする。
実に得体が知れない。

なお実体系の同時代史料は、無い。
562
(1): 2021/07/06(火)07:35 ID:fxWB8p6P(1/3) AAS
>>561
保谷出雲守直政かは分からないけど、熊野那智大社米良文書に
天文22年(1553年)旦那願文、武州みたの住侶賀藤たくみ、同ほや源左衛門とあるらしい。
そこからか三田谷で三田氏家臣土豪衆保谷氏とあるが、「みた」だと荏原郡御田郷もあるような
気がするがよく分からなかった。ただ天文年間に武蔵国(おそらく現東京)に寺への
お布施が成せる身分の保谷氏(この頃は穂谷氏カ)がいたようだ。
あとは埼玉県川口市の長徳寺において寛永時に亡くなった保谷氏が代々長徳寺の旦那とされる。
また保谷出雲坊が元亀年間に保谷に土着し、その後保谷直政が前沢村浄牧院の隠居寺を
建立したという説がある。
もし全て同じ一族なら三田氏家臣(三田谷)→北条の令などで前沢村近くに移り→北条氏滅亡後川口に移る
省1
563: 2021/07/06(火)08:10 ID:fxWB8p6P(2/3) AAS
先に出た浄牧院だが1444年に北条安祝が開基とある。普通に考えれば、
この時代に北条氏が在していたと思えないので、大石氏とする説がある。
また氏照の妻がそこで自害したという伝承も残っている。(柏城大石氏の娘とも)
この安祝は八王子城主だとされるが……

八王子城主で謎な人物がもう一人上総国の堀江氏がいる。
中野区の堀江氏は越前から来たと言う、上総堀江氏が同族かは不明だが義明書状にでてくる
堀江氏、茨城県の若林郷の領主だった堀江氏、義明弟基頼が若林で死去(世田谷区にも若林あり)
義明や里見や北条氏に従った堀江氏がいるもよう。

武蔵千葉氏勢力続補完
雲玉和歌抄の作倉において先に江戸に桜田郷と書いたが近くには桜川(港区)が流れる。
省4
564
(1): 2021/07/06(火)10:19 ID:aY8FehP8(2/2) AAS
>>562
ありがとう。
この件は知らなかった。
三田の家中なら地理的にも自然な流れだな。
少し実体が感じられるようになってきた。
但し保谷に関して云うと、
上保谷は鎌倉末期の板碑が存在するし、
下保谷は「所領役帳」に親村の小榑と共に記載があって納税可能な村として既に成立していたことが窺われる。
天文年間の記事が事実なら出来事の時系列は更に錯綜してくるか。

浄牧院の件が大石氏だとすると、
省2
565
(4): 2021/07/06(火)19:15 ID:fxWB8p6P(3/3) AAS
>>564
米良文書の保谷氏とともに若林氏、石戸氏、浅羽氏。
この若林が入間郡発祥の中山氏(信吉)の家臣になってることからおそらく4氏を
三田谷に推定したと思われる、もしかしたら文書に三田氏家臣と書いてあるのかもしれないが
画像リンク[png]:i.imgur.com
ただ確かに荏原郡よりは三田谷の方が地理的に可能性がある気もする。
だけど目黒区三田(御田郷推定)と世田谷の若林も近い、関係はないのか……。
保谷政信家文書というものがあるが、おそらく永保と永禄を間違えていると思われる。
出てくる開発者の保谷氏とともに書かれる新倉の板倉氏だが明らかに渋川氏庶流、家臣で
渋川氏が蕨城を立てたのは1300年代〜で永保の頃は上野や足利に在していたと思われる。
省10
566
(1): 2021/07/07(水)00:42 ID:d26F34i2(1/2) AAS
>>1400年代の大石、三田、豊島などの関係性が気になる。

どうなんだろうね。大石氏は他の二つの氏より位は上だとは思う、上司の位置づけなんではないか。
豊島氏は持氏に加担してて、成氏時代に上杉方についた言わば上杉新参、ただ古代より血筋として名家で重要な国人。
三田氏は名は見えるけど氏宗以前は不明な感じで……ただ上総武田氏とつながりを持ってたするなら
武田信長時代に富を手に入れ且つ信長との関係も良好な位置で時代を過ごしたのかなと。
三田氏に関しては元々甲斐武田に近い家だったのではないかと想像する。
だから……大石氏が上杉氏を後ろにチラつけさせながら上手く両家を従わせてたんじゃないかな。どうだろうね。
567
(1): 2021/07/07(水)00:52 ID:MYL1d+B1(1/2) AAS
>>565
重ね重ね多謝。
上保谷については貴説で或る程度整合がつくように思われる。

謎は下保谷。
「所領役帳」には「小榑保屋」とあるんだがこれは間違いなく下保谷のこと。
下保谷は完全に小榑の分村で、実は明治になるまで上保谷とは隣接しながら殆ど交流が無かった、従って保谷氏とも関係性が無かったと云う。
実際、旧姓も信仰も文化も両者で全く異なる。
上保谷における六苗の活動が永禄初年で「氏→村」の順で村名が定まったとすると、役帳段階で関係の薄い隣村が既に「保谷(屋)」を共有していることの説明が付き難くなってしまう…。

余りにも微細過ぎる話題を振ってしまったのに御付合、御教示有り難うございました。
この件はひとまずここまでにして、残る謎は暇をみて突っついてみたいと思います。
568: 2021/07/07(水)01:08 ID:MYL1d+B1(2/2) AAS
>>566
房総の武田は成氏段階では忠実な公方方、三田は上杉方と認識してたんだが、間違ってるかな?
太田道灌が芝居掛かりの間を持たせた挙句に動いた辺りで三田が鞍替えしたとかかな。

名族豊島は長尾景春が謀叛に及ばなかったらどうしていたんだろうか。
扇谷(太田)との利害対立は解きようもないからやっぱり何れは戦争か。
569: 2021/07/07(水)01:19 ID:d26F34i2(2/2) AAS
>>567
いえ私見にも満たないものをタレ流しただけで申し訳ない。
またなにか情報があったら教えていただきたい。
こちらこそ感謝です。
570: 2021/07/07(水)23:52 ID:ivUZDg4j(1) AAS
謎の巨大城郭・篠本城
千葉勝胤が没した直後に所領宛行を行う椎崎勝信
15世紀に入部する武田・里見・土岐・酒井・井田・高城
千葉も謎が多い
571
(1): 2021/07/14(水)23:02 ID:44uSxSwc(1) AAS
綱重(つなしげ)
綱成(つななり)
康成(やすなり)→氏繁(うじしげ)
北条綱成ってつななりだったんだね
572: 2021/07/14(水)23:51 ID:DUZ1i0gL(1) AAS
>>571
人名の読みを確定するのは難しい。
古事記や日本書紀みたいに漢字で書いた後に音を註記するなんてことは戦国時代の文献には無いからなあ…。
573: 2021/07/17(土)23:04 ID:E07v8DaI(1) AAS
当て字も普通な時代だから
一族で読みが被るのは避けるんじゃないかと
綱重はつなしげとしか読めないから
綱成はつななり
574: 2021/07/18(日)00:12 ID:KdZLDSgX(1) AAS
ずっと「つなしげ」で覚えたのに違うのか?
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