【無名】東京の武将たち【知りたい】 [無断転載禁止]©2ch.net (787レス)
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594: 2021/09/09(木)01:22 ID:R1sDRh4p(1) AAS
マイナーじゃなければやはり一番は八王子城、
マイナーかは分からないけど檜原城跡+郷土資料館で当時の甲冑を見る
マイナー……高幡城、高安寺塁、天神山城とかかな
それからかなり大変だけど稲付城から志村城、志村城から赤塚城に歩くのもあり、
体力があれば岡城まで、当時の村の間隔とか歩いていて「おっ平山」みたいなのを
味わえる
595(3): 2021/09/11(土)12:51 ID:Af64Y6ga(1) AAS
>>565
この勢力図を日本史板の「北条早雲」スレッドに引用させて頂きたいと考えています。
許可を頂けますでしょうか?
労作を丸借りしてしまうのは恐縮ですが、宜しくお願いします。
596(1): 565 2021/09/12(日)01:10 ID:xM0UCS1O(1) AAS
>>595
垂れ流しの一部と了承していただければ問題ないですよ。
597: 595 2021/09/12(日)01:18 ID:TsSubV+V(1) AAS
>>596
ありがとうございます。
598: 2021/09/26(日)05:10 ID:LHSedbC3(1/3) AAS
また雑な垂れ流しを少々
・水無瀬親具と後北条家臣中条出羽守の娘
どのようにこの二人に関連が生まれたのか……
親具の方の記録が残っているが、そこからは中々関連性が見出せない……
あるとするならば親具が出家をしたことではないだろうか
ただし時期において無理は生じてはしまう……なので一つの可能性として
埼玉県川越市の西雲寺、般舟三昧院西雲法師よって開山された。
それで親具の法号が西雲であることから、この時に出会ったか。
が、その時期であるが出家の時期、京から離れた時期、子供誕生の時期とそれぞれ難しい。
また川越の西雲との同一性も正直薄い気もしている。
599: 2021/09/26(日)05:24 ID:LHSedbC3(2/3) AAS
あきるの市の後北条家臣中村但馬守の候補
中村胤連、中村宗晴
胤連は胤の字から下総中村氏、胤秀の一族か?
太田康資に近かった中村氏は一体どの中村であろうか。
元禄の頃に京に中村但馬守広重がいるが関連は無いだろう。
600: 2021/09/26(日)08:35 ID:LHSedbC3(3/3) AAS
武蔵千葉氏と臼井氏を結ぶ線
物井右馬助
千葉県四街道市物井に存在した古屋城にいた人物。
孝胤の次男で臼井氏に入った胤仲(持胤)の三男とされている。
臼井幸胤と同一人物とも。また千葉幸胤だとすれば石出吉胤(足立区関連武将)の父。
物井は佐倉からすると南で、東に円城寺氏と関連があると言われる城城がある。
臼井氏本流景胤は幸胤の死によって本家を継いだとされる、そして景胤は下総千葉氏、
古河公方との関係を反故にし足利義明に付く。景胤の子久胤は原氏によって追放される。
別の臼井氏としては臼井守胤の子胤知が横浜で存続した。
この物井右馬助も臼井持胤も妙に武蔵千葉氏との関連を匂わせている。
省2
601: 2021/09/30(木)01:31 ID:lIH3dC93(1) AAS
画像リンク[png]:i.imgur.com
垂れ流しの整合性をとって系図にして見た。
自秀、自胤、守胤を千田氏、中務丞になっている系図を参考にして
自秀ー胤仲ー盛胤は中務丞の結びついている。(大系図では胤仲と盛胤が中務丞)
自秀は胤が入ってないことが逆に胤幸の可能性もあるのではないかと考えた。
(千田氏は前の時代で敗れた宗家千葉宗胤の次男胤泰の家系。また千葉胤宣が原胤房に襲われた際
千葉城→千田荘→多古城→市川城と逃れる中、千田荘から実胤達に付き添い市川城まで来た。)
そして千葉某の子供の臼井持胤=千田胤仲とし、盛胤=景胤、盛胤≠守胤、また自胤≠良胤を採用した。
(書いてはいないが吉橋伝説の義胤=良胤としている。)持胤(胤仲)は自胤が臼井城を落とした際に城代に、
が、すぐ俊胤が取り戻す。実胤の子盛胤は父の失踪後自胤の子になり、その後和解の条件として
省4
602: 2021/10/01(金)08:16 ID:rmF/KYfT(1/2) AAS
画像リンク[png]:i.imgur.com
画像リンク[png]:i.imgur.com
小弓公方と武蔵千葉氏の関係はあったと思う。
真里谷氏、上総武田氏は自胤に降りたとある。その後関係が変わっても繋がりはあったと見る。
逆に小弓公方と古河公方(下総千葉氏)との争いになった時、面識のある武蔵千葉氏を意識しないというのは
考えにくいのではないだろうか。もし上の図のようで臼井氏までの勢力であるならばなおさらである。
第一次国府台合戦が起こる一つの要因として北条の北上で武蔵千葉氏の立場が変化した、また真里谷氏の跡目争いで
真里谷氏と武蔵千葉氏との関係が変化した、そして古河ー扇谷ー武蔵千葉氏ー真里谷ー小弓ー北条の均衡が崩れて
第一次国府台合戦へつながり、武蔵千葉氏は弱体、小弓公方は滅亡、下総では高城氏が南下、そして
手賀原氏と佐倉千葉氏が下総を安定化させたのではないだろうか。一つ筋が通るので考え方ではないだろうか。
603: 2021/10/01(金)09:01 ID:rmF/KYfT(2/2) AAS
書き忘れ……
1502年に誅殺された原胤宗と1526年に市川から本土寺に来て急死した原豊前は
図の弥冨大野原氏だが、この二人と飯野氏と中沢氏、鷺沼氏、吉岡氏、武石氏は
武蔵千葉氏に与してたのではないだろうか。下総村上氏は堀江氏他と国府台合戦で小弓公方に
与している。
604(1): 2021/10/03(日)07:43 ID:/Dxl7ge4(1/2) AAS
ツイッターでやればいいのに、こんな人もいないとこでやっても超マイナーな話なんて誰も見ないんだからさ
605: 2021/10/03(日)08:28 ID:/Dxl7ge4(2/2) AAS
まぁ俺はおもしろいと思うよ
606: 595 2021/10/04(月)03:05 ID:eNF8YjPI(1) AAS
>>604
だったらもっと良い話題をお前さんが提起するんだな。
文句を云うだけの輩よりも、自分で色々調べて考えて書いてくれる人の方が百倍上等だ。
607(1): 2021/10/06(水)20:08 ID:wA4xurIv(1) AAS
何でもかんでも同一人物にしてるけど何を根拠にいってるのかさっぱりわからんのよね
608(1): 2021/10/07(木)09:38 ID:vxgC77lw(1) AAS
>>607
これは非常に面白い所だと思います。
実は自分ではなくてですね、今現状の通説が史料の少ない中で、
さらに少し後ろの時代に作られた混乱ある複数の系図と伝承を持って
今の専門の方々がある程度筋が通るように同一人物に仮定してるんですよね。
なので逆にいくつかは自分はそれを切り離してみました。
例えば自秀(叔父)ー自胤ー良胤(子)をおそらくなんらかの混乱あって
系図の中で違いが生じてる名前なんかを同一人物だろうという風にしております。
実際自秀なんかは墓もあるのですが、よくわからないという事で自胤の墓だろうという感じで
混乱を回避してるわけですね。また守胤と盛胤も基本は同一とされています。
省12
609: 2021/10/07(木)20:50 ID:vSG9Y0Lo(1/2) AAS
千葉そんな面白いことやろうとしてるんだ
県内旧家の古文書悉皆調査したらいいのに
610: 2021/10/07(木)21:15 ID:vSG9Y0Lo(2/2) AAS
>>608
人物比定もわかりました
611: 2021/10/09(土)16:14 ID:n2VxJd7D(1) AAS
画像リンク[png]:i.imgur.com
武蔵国造の乱
戦国には一切関係ないですが、土地と言う概念で考えるという事で
あとたまにはこういう无邪志国史観ということで、、、
緑色はおそらくの湿地帯でこう見ると秩々夫国と合わさる前の无邪志国を
少しイメージできますね、白い部分は重要な土地と見ることができるのではないでしょうか。
常陸国内部はすごい良さそうですね、でも无邪志国も悪くないですね。
ただ小杵は笠原使主に負けてしまいましたが。
612: 2021/10/12(火)02:37 ID:+VzMRicH(1/2) AAS
小弓城への雑な考察
まず注目されるのは原胤房の小弓館での討死に。これを自分は小弓館を原胤房の領地とせず
馬加氏の領地と見たい。東常縁の奮闘により一時古河公方に与した馬加氏原氏は途絶える。
つまりここで恐らく千葉地域に領主空白ができる、そこに浜春利(酒井氏?)、本庄海上氏、
入ったのではないだろうか。そして浜野港から少し南の上総村上に東氏浜氏同様縛の命によって
村上氏が入ったと見るのはどうであろうか。(また同時に同族か別か臼井の西に下総村上氏が)
1483年に関東の都鄙合体で和睦(1478年に原胤房の跡を継いだ養子胤隆は香取庄に文書を出している
ことからまだ小弓にいないとみえる)、86年に道灌最後の下総進軍が窺える死去の3か月前、
1か月前には詩歌会で戻っているので2か月間か。四面楚歌の下総千葉氏はまだまだ落ち着いていなかっただろう。
87年から両上杉氏の争いがはじまる。88年一時休戦90年以降に勝胤の市川での動向が見える。
省10
613: 2021/10/12(火)02:49 ID:+VzMRicH(2/2) AAS
追記
以前にも高城氏や原氏との争いが匂う所もあるが、
1506年、1517年には大きく玄鼻城(武蔵千葉氏側)に下総千葉氏側からの攻撃があったのではないだろうかと
考える。1506年には自秀、良胤、東胤重が死去。どちらも三上氏が救援に来ていたとみている。
そして17、18年以降は義明が胤隆を追い出し小弓公方としてその地を治める。
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