【無名】東京の武将たち【知りたい】 [無断転載禁止]©2ch.net (787レス)
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614(1): 2021/10/14(木)20:36 ID:j/EGO5u+(1) AAS
酒井ってなんで原の家臣みたくいわれてるんだろ
615: 2021/10/14(木)23:44 ID:bNJKnwER(1) AAS
>>614
千葉傳考記(おそらく享保の頃の作)からのものかなぁと。
「千葉は百騎、原は千騎」といへり。或は、「千葉に原、原に高城・兩酒井」などいひし……
おそらく本来は利胤の頃の下総千葉氏は主家として存在するが、実態は原高城両酒井の勢力の
の方が大きくなってしまっている。ということかと。
ここで陪臣とでてくるのだけれども、どうなんだろうか。原と共存する勢力にも感じる。そうでもないような
「俗にいう」は外せない気もしますね。
616: 2021/10/15(金)08:50 ID:mTmf7tGh(1) AAS
原氏への雑な考察
まず原氏は宗家から系図では争いに近い時代に分かれた千葉分家筋と
宗家にかなり近い家臣円城氏が八幡荘、千田荘の所領をめぐって争いが生じる。
研究では原氏は古河公方との独自のパイプがあったらしい。なんだけれども自分は
この原氏を一括りにしてしまうのには疑念を持っている。
中心に置かれる原胤房と他の原氏はまた違う見方をしたい。まずどの原氏が原氏主家
だったかはいったん保留にし、弥冨、小西、胤房筋の三流があるとし、胤房筋に近い所に
4つ目の光胤筋が見える。小西は胤隆に与し古河公方に敗した後武田で小西系原虎胤が見えるので
小西筋は胤房筋と歩んでいたとみる。が、弥冨、光胤筋はどうであろうか。
大野城との関連される光胤が死去したのが1466年吉川市にて、一度時を戻して
省27
617: 2021/10/16(土)06:36 ID:Rj/+N+F2(1) AAS
太田氏武蔵吉良氏武蔵千葉氏に共通する家臣の宇田川氏
元は太田道灌の家臣宇田川長清、太田道灌が品川から江戸に移った際に逆に品川に移住を
申し上げられ品川の守りを任せられる、商人とも
同じ商人として有名なのが鈴木道胤、こちらも品川の商人で道灌とは連歌仲間
道灌死後の品川の経済力はどこに所属したかは気になる所だと思う(武蔵吉良氏かな)
618(1): 2021/10/16(土)07:55 ID:WFzb4ZQR(1) AAS
六郷殿の妻が真里谷信応女はどこ情報ですか?
619(1): 2021/10/17(日)00:36 ID:P2LwP+1R(1) AAS
>>618
黒田基樹教授の著書に載っている上総武田氏系図です。
なにを参考にされたかは不明です、申し訳ないです。
分かる方いればお願いします。
ちなみに信応の養子に女(原胤栄室)、女(六郷殿室)、信政とあります。
ただ三浦義意の妻の件に関しましても疑念の声もありますので、まぁという
感じですね。ただ参考になっている何かはあるとは思いますが。
あと申し訳ない所でありますが、どこかで違う六郷殿を見たような気がしていまして
例えそうであっても、某六郷殿と同一かも希望的観測な所ではあります。
620: 2021/10/17(日)09:54 ID:aaWvzs1A(1) AAS
>>619
ありがとうございます
621(1): 2021/10/18(月)08:37 ID:42v9kVtC(1) AAS
一つの考えとして
暗殺される前の太田道灌は一つの道灌を中心とした扇谷上杉氏を脅かす
連盟勢力として見ることができるのではないだろうかと考える。
武蔵吉良氏ー三浦氏ー太田道灌ー武蔵千葉氏ー(真里谷氏)
また武蔵千葉氏一族は道灌吉良氏の所領の中に北の渋江氏、、南の行方氏などが
在地の者の中に入り込む形で命によって配置されたのではないだろうか。
他に市川の戦いで幕府側で亡くなった足立顕秀宍倉氏兄弟の宍倉氏が小宮山氏の家臣になっている。
またそれは先の時代の上杉氏もそうで八条氏や深井氏(上杉氏と土豪)と
新方氏(千葉氏系の土豪)や川口の中田氏や衰退した江戸氏なども新しく住んだ者と
既在の者と混在している。そうした中で渋江氏だが古河公方に属していた渋江氏は確かに存在し、
省12
622: 2021/10/20(水)02:43 ID:szzROUx+(1) AAS
>>621
太田道灌は享徳ノ乱から長尾景春鎮圧まで、扇谷勢は勿論のこと実質的に山内勢の軍事指揮権まで掌握しちゃって一種の私党を形成しかかってたからなあ。
江戸領では完全に領主として直轄統治に等しい行政をやってたようだし、事実上は独立の戦国大名と云って良いんじゃないか。
あの内容の「太田道灌状」を扇谷定正の承認も取らずにいきなり山内家重臣に直接叩き付けた辺り、本人もそのつもりだったように見える。
623: 2021/10/25(月)23:54 ID:sP28SGMQ(1) AAS
稲城市と川崎市に跨がる小沢城
実際には見張り台(砦)くらいのもんだろうけどロケーションいいね
城山に川が巻き付いて堀になっていて山上からの眺望も抜群
歩いていける距離に府中街道と多摩川の矢野口の渡し
624: 2021/10/26(火)20:06 ID:QKusGoE6(1) AAS
よみうりランド遊園地の近くね
あの辺りは確かに眺めが良いわ
625: 2021/10/27(水)18:45 ID:V5BO+mN3(1/12) AAS
道灌死後の考察
少し長くなってしまうけど荒らしではないのでご了承願いたい。根拠は乏しいが仮定論や物語に近いなにかを
垂れ流したい。少しでもおもしろいと思っていただければ幸いです。
まず注目するのは長徳寺の移転。(1488年道灌死後1年後に吉良成高(頼高?政忠?)により)
これは吉良成高が防衛上の観点からということで南に危機感を抱いたことからと見ることができる。
ひとつその前に私見としてなぜ吉良氏は経済的ゆとりがあるのかという点だ。それは世田谷と言う土地ではないだろうか。
多摩川を利用した流通、品川湊、そして神奈川港(鶴見湊か?)の3つを利用できたからではないか。一つ無理やりかも
しれないが、もしかしたら江戸氏が先の時代で大福長者と呼ばれた理由も一族の六郷氏からの恩恵を受けたからかもしれない。
また六郷殿(行方氏であれば)もそういう背景を持って他の者より位が高いのかもしれない。さて、南への危惧だが
この神奈川港を上田政忠(子に政盛?)が15世紀後半に支配下に置いた。道灌死後において扇谷への不信感があるなか、
省14
626: 2021/10/27(水)18:45 ID:V5BO+mN3(2/12) AAS
少し道灌の話に戻る。道灌は死去直前まで下総への遠征をしている。隅田川に長橋を三本もかけ、そこそこの大軍を下総に渡らしている。
これは自分が思うに渡ること自体には問題がなかった、つまりもっと奥地に向かうことを意識しているのではないかと思う。
つまりそこまでは安定していたと感じる。先の79年の戦いで落ちたとも言われる臼井城。(この時資康とも交流があった梅花無尽蔵の
万里集九は自胤に扇を献上している。)その79年では千田胤仲を城代に置いたとしたい、すぐに臼井俊胤が取り戻し胤仲は千葉まで後退したが、
83年の都鄙合体によって千葉盛胤が臼井氏を引き継いだ。つまり奥地とは佐倉やさらにその東総を想像している。道灌が安定して
侵攻したということにおいて、まず道灌は強い信念として下総を攻めきることにしているわけではない、それでも都鄙合体後に侵攻するのは
当然にできることだからではないだろうか。おそらく真里谷氏、海上氏、また上総東氏、それと扇谷上杉に与してるものが動くと
認識しているからではないだろうか。実際松戸本土寺過去帳から道灌が攻めているのにもかかわらず原氏などの討死が79年から1500年代まで
見えなくなる。これは下総の中部までは安定していたと見れるではないか。また円城寺道頓が30余年に過ぎて(1489〜93年頃)
下総に戻っていること、義明支配期の船橋市に銘が残っていることが継続して下総千葉氏に領土が渡っていないことを裏付けてるように見える。
省17
627: 2021/10/27(水)18:46 ID:V5BO+mN3(3/12) AAS
さて94年の戦いの途中で定正が死去し一度両軍が和睦した中、反定正派も扇谷に帰参したみられる。(資康は江戸城に戻るとはいかず
おそらく武蔵千葉氏の元に身を寄せたと思われる。)またこの時先の大森氏は扇谷に戻らずに今川氏に付いたのではないだろうか、
そして95年以降今川の命によって早雲(今川)の与力になったのではないか。(小田原城に招く城主は大森氏)そして吉良成高だが史料にはないが
相模上田氏から神奈川港を取り戻したのではないだろうか。理由としては政盛がその後北条方として挙兵すること、1505年に山内が奪ったとあるが
詳細が不明な所で、相模真田城に移り早雲の与力になったことと見ることもできるだろう。そして扇谷の中ではこの頃より主家に領土の近い武蔵上田氏が
台頭し始めたのではと思う。また扇谷も今川によっていたのではと思う。構図としては幕府VS公方の形から今川扇谷VS山内古河公方に変わったのだと感じる。
公方は一応の所幕府から許された身であり、先に記述したように今川は上杉本家の力を抑えようと試みてるのであろう。そして96年に資康や大森氏の離反や
反定正派帰参を見た山内が相模真田城を攻める。(景春も反山内として参戦)だが景春の子景英と顕定勝利し、敗戦した今川勢と救援に来た扇谷勢は
小田原城に集まる。(伊勢弥二郎、大森藤頼、上田政忠/扇谷朝昌、三浦義同、太田六郎など)さらに今川扇谷勢は敗戦し、大森氏からは山内に
移った顕定と、おそらく真田城に逃げてその後早雲に組み込まれた定頼に分かれたようだ。小田原城はすぐ復帰したように思われる。
省15
628: 2021/10/27(水)18:47 ID:V5BO+mN3(4/12) AAS
あー長さをやらかした……申し訳ない
629: 2021/10/27(水)19:54 ID:V5BO+mN3(5/12) AAS
各地回復が成された1501年の今川早雲は三河の方を注視している。1502年足利政氏は下総の争いに関与する為か
下総千葉氏を手中に置くためか佐倉市小篠塚に陣を張りここから3年間下総千葉氏と対立する。
この時期原胤隆と小見木内氏が扇谷に下っており、両家の和義後に原胤隆は下総千葉氏に帰参し木内胤治は上総で討たれた。
先の永正の乱の前にまず1504年立河原の戦いが起きる。山内顕定ははじめ川越城を攻める(勝胤も参戦)
その後、白子(和光)に陣を張り武蔵千葉氏を攻める。今川早雲軍が吉良氏と合流し川崎市に着陣、それに合わせて
山内政氏軍が立河原に構える(このことから現西東京都は山内側としていることが分かる)
この時顕定は甲斐武田に対して家臣大森顕定に書状をだしている。山内顕定政氏勝胤軍が大敗、各々領地へ引き上げるが
越後上杉勢が加勢をし、顕定は川越城を攻め、越後勢は八王子最南部で長井氏が守る椚田城、今川勢の上田政忠の真田城も落城、
武蔵国と相模国を分断した。その際杉並に中田加賀守が入ったと思われる。おそらくそれが由縁で中野で太田氏の家督を継いでいた
太田六郎が殺害される。戦いにおいては家宰の曾我佑重によって和睦の申し入れと共に成立した。
省19
630(2): 2021/10/27(水)19:54 ID:V5BO+mN3(6/12) AAS
1509年に早雲が江戸城を攻める。ここが起点で今川氏から早雲が離れたとすることが多いが、関係性が途切れていないことから
まだ今川氏に与してると存ずる、ではなぜ急に早雲は江戸城を攻めたのか。一つ提示したい仮定論は今川氏は永正の錯乱の後
義稙派に変わった、関東の支配に介入するため扇谷上杉の当主を朝良から建長寺の僧で庶兄東永、そして吉良頼貞(頼康)を
古河公方に挿げ替えようとしたんだと思っている。まず東永においてが1、早雲が相模において寺社勢力に対して懐柔行動を
とったのではないかとする点で建長寺の東永との接点を生んだ(そういう意味では義明とも面識があったのでは)
2、道灌家臣の宇田川長清の子宇田川清勝は資康に従ったか扇谷から離れ山内で戦死した。だが、その子勝元は氏綱の
江戸城修築に従事している。そしてその宇田川氏に仏僧の東永が養子いりしている。裏切った家臣筋に養子に入り、
その義兄弟が江戸城に関わると言うのはなにかしらあったと見れるんではないか。もし裏切った宇田川氏が江戸城に
戻っていたとすれば、それは今川氏の思惑で江戸への引き入れ役にされ、史実に残らなかったのは失敗し代わりに恩恵を多少受けて
歴史から消えたのではないか。3、結局同じ相模いた七沢朝昌の子朝寧の子朝興が詳細不明で当主に据えられている。
省20
631(1): 2021/10/27(水)20:14 ID:rkTKoAjK(1) AAS
>>630
今日の一連の貴レス群、
範疇といい時代といい俺の興味の対象ズバリなんでしっかり熟読してから何か書きたいと思う。
が、週末までは暇が無いんで今は些細などうでもいいことを一つだけ。
「早雲」はそろそろ止めた方が良いのではないか。
その名は既に虚構の彼岸へ葬送された。
せっかく実証的にきっちり書いている様子なのにそこだけが勿体ない。
632: 2021/10/27(水)20:23 ID:V5BO+mN3(7/12) AAS
>>631
そこは申し訳ない、宗瑞と書くか迷って、今はまだ早雲のイメージの付加価値を意識してしまっている。
この後の文章も出来上がっていてそちらも早雲になってはいるが、ものすごい拘りかと言われればそうでもないことは
ご理解お願いしたい。
633: 2021/10/27(水)20:31 ID:V5BO+mN3(8/12) AAS
足利氏の跡目争いとして4流挙げたい。まず政氏旧体制派、顕実(憲房に敗れ、死去)、顕実を介して関東安定を望ん総社長尾氏、
岩槻太田氏と支援する成田氏、高基から派兵要請に従ったか不明の勝胤、庁南武田氏、徐々に下総千葉氏に組み込まれた酒井氏、
高基新体制派、北東関東勢、吉良頼貞維新派、今川氏、早雲、行方氏、江戸氏など相模勢、そして4流目が旧体制派新体制派の両方との
関係を持ちながらまた両方から勢いを削ぎたい義明派、憲房、足利長尾氏、横瀬氏、三浦氏、千葉憲胤、渋江氏など西関東勢と
真里谷氏里見氏上総安房勢。いくつか理由を述べる。憲房は表立っては高基と連携を取っているが、次の当主の高基の子
憲寛(高基の子)時代には義明と手を結ぶ。これはおそらく家内に元々その傾向がないと成り立たないと見える。
憲寛は反旗を上げた叔父に味方し父とも戦わねばならないからだ。憲房からすれば実際は妻の兄弟の子たちの方に強いパイプが
あったのだろう。もしかしたら千葉憲胤の母は旧定正派時に憲房から守胤に嫁いだのかもしれない。そして扇谷おいても
朝興が同盟の声を上げれるのはその地盤があったからと見る。中でも真里谷氏は海を渡り相模や武蔵に往来していたという話がある。
そんな中で鶴岡八幡宮別当だった義明とつながりを持ったのかもしれない。ただ擁立という形ではなく政氏の後を継ぐように
省14
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