【無名】東京の武将たち【知りたい】 [無断転載禁止]©2ch.net (786レス)
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627: 2021/10/27(水)18:46 ID:V5BO+mN3(3/12) AAS
さて94年の戦いの途中で定正が死去し一度両軍が和睦した中、反定正派も扇谷に帰参したみられる。(資康は江戸城に戻るとはいかず
おそらく武蔵千葉氏の元に身を寄せたと思われる。)またこの時先の大森氏は扇谷に戻らずに今川氏に付いたのではないだろうか、
そして95年以降今川の命によって早雲(今川)の与力になったのではないか。(小田原城に招く城主は大森氏)そして吉良成高だが史料にはないが
相模上田氏から神奈川港を取り戻したのではないだろうか。理由としては政盛がその後北条方として挙兵すること、1505年に山内が奪ったとあるが
詳細が不明な所で、相模真田城に移り早雲の与力になったことと見ることもできるだろう。そして扇谷の中ではこの頃より主家に領土の近い武蔵上田氏が
台頭し始めたのではと思う。また扇谷も今川によっていたのではと思う。構図としては幕府VS公方の形から今川扇谷VS山内古河公方に変わったのだと感じる。
公方は一応の所幕府から許された身であり、先に記述したように今川は上杉本家の力を抑えようと試みてるのであろう。そして96年に資康や大森氏の離反や
反定正派帰参を見た山内が相模真田城を攻める。(景春も反山内として参戦)だが景春の子景英と顕定勝利し、敗戦した今川勢と救援に来た扇谷勢は
小田原城に集まる。(伊勢弥二郎、大森藤頼、上田政忠/扇谷朝昌、三浦義同、太田六郎など)さらに今川扇谷勢は敗戦し、大森氏からは山内に
移った顕定と、おそらく真田城に逃げてその後早雲に組み込まれた定頼に分かれたようだ。小田原城はすぐ復帰したように思われる。
94〜97年頃の千葉勝胤及び下総中部はおそらく幕府直結たる東常和に支援された守胤や常和を庇護した時期を持つ義同や、先の戦いでつながりを持つ
真里谷氏によって荒らされた時期と見ている。また古河公方も関係上救援するわけにもいかなかったとみたい。そんな伝承も史料もないが佐倉城も
落ちたこともあったのではないだろうか。公津城に退いたり取り戻したりしてたのではないだろうか。そんな中時折常和を中心に戦場で敵味方相まって
和歌を親しんだのではないか。その中には衲叟もおり雲玉和歌集を作り始めたのではないか。常和、守胤、勝胤とこの時期の史料がないことが
逆にそれを表しているのではと考える。そして真里谷氏の時に書いたのだが、窮地の勝胤は南東に意識が伸び庁南武田氏に目を付けたのではないか。
ただし武蔵千葉氏は足利政氏と山内が手を取り合った為岩槻城を意識し始めた時期でもあるとする。それ故か原胤隆が浜野港に近い小弓に在してしまう。
97年は隠居していた成氏が死去し、今川は早雲を派遣させ伊豆を平定させた。武蔵千葉氏はいよいよ懇意にしていた葛西城の山内方の大石氏を殺害し
葛西城を奪う。もしかしたら勝胤と葛西大石氏が山内方として反撃にでたということもあったのかもしれない。
また吉良氏だがおそらく年代的に代替わりをしただろう。頼康の前に一人挟んでいる可能性もある。(上田政忠と同名がいることは意味があるだろうか)
武蔵吉良氏は名家でありながら生没年も定かではないのはこの地から離れていたからかもしれない。永正の乱までは少しあるが、
この時期から火種が存在したとする。扇谷朝良は元より憲房を擁し、また武蔵千葉氏、及び武蔵吉良氏はその為遠征していたのではと。
武蔵千葉氏はそこから憲房の憲の字を偏諱で憲胤につけ、吉良氏も可能性の一つとして旧所領としされる秋間(群馬)を持ち続けていて、
そこを守ろうとしたのではないか、と想像した。秋間にはこの年代で安中氏が入る。同時期八条上杉氏(埼玉八条の)が越後に渡っている。
(越後の内乱は1506年から)そしてこの97年98年に明応地震が起き、すべての事柄が一時頓挫し、1501年まで空白となってしまったのだろう。
まだまだ続きがかなりあって、国府台合戦まで続くが、お付き合いお願いしたい。申し訳ない。
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