【無名】東京の武将たち【知りたい】 [無断転載禁止]©2ch.net (786レス)
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628: 2021/10/27(水)18:47 ID:V5BO+mN3(4/12) AAS
あー長さをやらかした……申し訳ない
629: 2021/10/27(水)19:54 ID:V5BO+mN3(5/12) AAS
各地回復が成された1501年の今川早雲は三河の方を注視している。1502年足利政氏は下総の争いに関与する為か
下総千葉氏を手中に置くためか佐倉市小篠塚に陣を張りここから3年間下総千葉氏と対立する。
この時期原胤隆と小見木内氏が扇谷に下っており、両家の和義後に原胤隆は下総千葉氏に帰参し木内胤治は上総で討たれた。
先の永正の乱の前にまず1504年立河原の戦いが起きる。山内顕定ははじめ川越城を攻める(勝胤も参戦)
その後、白子(和光)に陣を張り武蔵千葉氏を攻める。今川早雲軍が吉良氏と合流し川崎市に着陣、それに合わせて
山内政氏軍が立河原に構える(このことから現西東京都は山内側としていることが分かる)
この時顕定は甲斐武田に対して家臣大森顕定に書状をだしている。山内顕定政氏勝胤軍が大敗、各々領地へ引き上げるが
越後上杉勢が加勢をし、顕定は川越城を攻め、越後勢は八王子最南部で長井氏が守る椚田城、今川勢の上田政忠の真田城も落城、
武蔵国と相模国を分断した。その際杉並に中田加賀守が入ったと思われる。おそらくそれが由縁で中野で太田氏の家督を継いでいた
太田六郎が殺害される。戦いにおいては家宰の曾我佑重によって和睦の申し入れと共に成立した。
省19
630(2): 2021/10/27(水)19:54 ID:V5BO+mN3(6/12) AAS
1509年に早雲が江戸城を攻める。ここが起点で今川氏から早雲が離れたとすることが多いが、関係性が途切れていないことから
まだ今川氏に与してると存ずる、ではなぜ急に早雲は江戸城を攻めたのか。一つ提示したい仮定論は今川氏は永正の錯乱の後
義稙派に変わった、関東の支配に介入するため扇谷上杉の当主を朝良から建長寺の僧で庶兄東永、そして吉良頼貞(頼康)を
古河公方に挿げ替えようとしたんだと思っている。まず東永においてが1、早雲が相模において寺社勢力に対して懐柔行動を
とったのではないかとする点で建長寺の東永との接点を生んだ(そういう意味では義明とも面識があったのでは)
2、道灌家臣の宇田川長清の子宇田川清勝は資康に従ったか扇谷から離れ山内で戦死した。だが、その子勝元は氏綱の
江戸城修築に従事している。そしてその宇田川氏に仏僧の東永が養子いりしている。裏切った家臣筋に養子に入り、
その義兄弟が江戸城に関わると言うのはなにかしらあったと見れるんではないか。もし裏切った宇田川氏が江戸城に
戻っていたとすれば、それは今川氏の思惑で江戸への引き入れ役にされ、史実に残らなかったのは失敗し代わりに恩恵を多少受けて
歴史から消えたのではないか。3、結局同じ相模いた七沢朝昌の子朝寧の子朝興が詳細不明で当主に据えられている。
省20
631(1): 2021/10/27(水)20:14 ID:rkTKoAjK(1) AAS
>>630
今日の一連の貴レス群、
範疇といい時代といい俺の興味の対象ズバリなんでしっかり熟読してから何か書きたいと思う。
が、週末までは暇が無いんで今は些細などうでもいいことを一つだけ。
「早雲」はそろそろ止めた方が良いのではないか。
その名は既に虚構の彼岸へ葬送された。
せっかく実証的にきっちり書いている様子なのにそこだけが勿体ない。
632: 2021/10/27(水)20:23 ID:V5BO+mN3(7/12) AAS
>>631
そこは申し訳ない、宗瑞と書くか迷って、今はまだ早雲のイメージの付加価値を意識してしまっている。
この後の文章も出来上がっていてそちらも早雲になってはいるが、ものすごい拘りかと言われればそうでもないことは
ご理解お願いしたい。
633: 2021/10/27(水)20:31 ID:V5BO+mN3(8/12) AAS
足利氏の跡目争いとして4流挙げたい。まず政氏旧体制派、顕実(憲房に敗れ、死去)、顕実を介して関東安定を望ん総社長尾氏、
岩槻太田氏と支援する成田氏、高基から派兵要請に従ったか不明の勝胤、庁南武田氏、徐々に下総千葉氏に組み込まれた酒井氏、
高基新体制派、北東関東勢、吉良頼貞維新派、今川氏、早雲、行方氏、江戸氏など相模勢、そして4流目が旧体制派新体制派の両方との
関係を持ちながらまた両方から勢いを削ぎたい義明派、憲房、足利長尾氏、横瀬氏、三浦氏、千葉憲胤、渋江氏など西関東勢と
真里谷氏里見氏上総安房勢。いくつか理由を述べる。憲房は表立っては高基と連携を取っているが、次の当主の高基の子
憲寛(高基の子)時代には義明と手を結ぶ。これはおそらく家内に元々その傾向がないと成り立たないと見える。
憲寛は反旗を上げた叔父に味方し父とも戦わねばならないからだ。憲房からすれば実際は妻の兄弟の子たちの方に強いパイプが
あったのだろう。もしかしたら千葉憲胤の母は旧定正派時に憲房から守胤に嫁いだのかもしれない。そして扇谷おいても
朝興が同盟の声を上げれるのはその地盤があったからと見る。中でも真里谷氏は海を渡り相模や武蔵に往来していたという話がある。
そんな中で鶴岡八幡宮別当だった義明とつながりを持ったのかもしれない。ただ擁立という形ではなく政氏の後を継ぐように
省14
634(1): 2021/10/27(水)20:47 ID:V5BO+mN3(9/12) AAS
私は13年〜16年の間が伊勢氏(後北条氏)の独立期だと見たい。三浦氏は滅んでおらず、今川氏の目論見の関東平定にも
半端な時期ではあるが、吉良頼貞を掲げても関東への影響的入部が果たせないという事で新たな基軸を持つため独立を
意識したのではないか。または今川氏より格がある吉良氏との血縁関係を持てたことでか、主家の今川氏も三河吉良氏を
抑えるところまできて、新たに甲斐武田氏との争いも起りそうな混乱の中でタイミング、独立への風向きが良くそれを
果たすことができたのかもしれない。1536年には氏親の子が冷泉為和ともに早雲の子氏綱のもとへ赴いている。
その間はどういう関係か見えないが同盟関係だったと見る。ただし今川氏の方が赴くということで同盟再開の意図が
あったのかもしれない。
1516年数年間の抗争の末、三浦氏を滅ぼす。この際扇谷が救援に向かうが早雲軍は城攻めと迎撃に分かれ戦った。
三浦義同は辞世の句を詠み切腹したと伝わる。先の戦いには救援に向かったであろう真里谷氏はこの戦は参戦しなかったと
思われる。翌年までの間で早雲と共闘したとされるからだ。その理由としてこの時期真里谷氏は信勝から代替わりしている事に
省25
635: 2021/10/27(水)21:02 ID:V5BO+mN3(10/12) AAS
1519年氏綱は早雲の政策を継承し真里谷氏に手を貸し房総に渡る。これはおそらく高基が原胤隆の弟とされる朝胤に胤隆の病状を
聞いている書状があるので、戦局を伺ったものと見える。当主はおそらく原胤清で牛尾と関連のある庶子で名古谷庄にいた思われる。
通説で多いのは高城氏や仁戸名氏であるが高城氏もまだ台頭しておらず(滅亡とも記された)、仁戸名氏も別の一族でのちの時代に
胤清の一族に移ることから、この時点で西総であった可能性は低いと存ずる。この年高基が真里谷氏の椎津城を攻撃しているので、
ここでは下総相馬氏と原胤清朝胤が攻めてきたのに対して救援にでたとする。では義明と氏綱と扇谷関係はどうするか、すでに争いの
火種がありなぜこのような関係が成り立つか。すでに記したように跡継ぎに関して扇谷真里谷里見氏共々に北条氏からの介入がされ
はじめてると推測でき、朝興は代替わりとしての距離感、義明関しては真里谷氏、里見氏の親北条派によって成立してるのではないかと考える。
そしてこれから一定の期間北条氏は軍事行動に落ち着きを見せる。山内上杉氏にはいつの時期かは不明だが(1525年以前)に高基の子の憲寛が
養子に入る、それから岩槻城で過ごしていた政氏が再び公方方の久喜に戻る。このことから次に氏綱が動くまで関東は一時休戦だったと思われる。
さて義明と高基との争いの中で高基から下総千葉氏千葉介当てに書状がある。(いくたの争いの中で古河公方も敗戦を経験している。
省11
636: 2021/10/27(水)21:02 ID:V5BO+mN3(11/12) AAS
少しの間、関東の地は安息だったか少しの時間が空き1523年に氏綱は伊勢氏から北条氏に姓を変えた、後に幕府から左京大夫を授かる、
名実ともに後北条氏を確立させた。幕府とのつながりがあった氏族もたちも大いに驚愕したのではないだろうか。
1521年にまた幕府において将軍(義稙)が出奔しまた大きな争いを繰り広げているので、そこにもまたたくさんの思惑があったのかもしれない。
1524年早々1月に江戸太田氏の資高が氏綱に呼応してしまう。領土的な話で武蔵吉良氏まではこの仮定論では北条氏に属しているのは
既に記しているが、江戸から世田谷までの間はどうであっただろうか。品川は吉良氏に属していたのでないか、またこの時扇谷勢力が
すぐさまの飛び出て高輪原(港区)の戦いが起こる。この港区が吉良氏と太田氏の境だったのであったのであろうと思う。その高輪原の戦いで
扇谷を破るとそのまま江戸城を攻め落とした。またこの時板橋にて板橋氏が討ち取られたことから武蔵千葉氏の奮戦が窺える。
蕨城とその城主の渋川氏は氏綱に落ちてしまう、そこから近隣である赤塚城には言及はない、赤塚城はここでは落ちなかったとしたい。
朝興は川越城まで逃げ延びることになった。そして2月に今度は資家系太田氏の資頼が氏綱に通じてしまう。そして岩槻城を
攻め落とし城主の渋江右衛門大夫を討ち取る。ここで通説では解決できていない矛盾をこの仮定論では筋を通せる。
省20
637(1): 2021/10/27(水)21:12 ID:V5BO+mN3(12/12) AAS
先の戦いから山内扇谷連合は1526年の間でいくつかの武蔵国の城を取り戻す。この時先にも書いたが真里谷氏里見氏には
反北条派もおり、この時は連合に味方し蕨城や関戸城などを落とし、その勢いで鎌倉まで攻めて鶴岡八幡宮などを焼き討ちにするが、
北条の反撃の勝利で終わる。1527年には義明と親北条派が命を下したか真里谷氏里見氏と氏綱は停戦に入る。つまり義明の元、
武蔵千葉氏、真里谷氏、里見氏は情勢と政治によって北条との距離感を決定していることだと存ずる。
また原胤清に義明は忠誠を誓うように書状をだしていて胤清は従うと返事をしているが、高基とのつながりもあるため寝返りの動きも見せ、
それを密告され、対処しろという書状も残っている。これがこの時代の公方と武家たちの関係を如実に表しており、
1に公方は氏族たちに主家を挟まずやりとりをし全員が家臣という態度で接する、2に高基と義明の間で表向きは両人にいい顔するが
利と捉える方に時代時代で傾いていることが分かる。それが武蔵千葉氏が義明に下ったという根拠でもある。
1528年の上杉文書では高基と義明の対立の話がなされる、これもこの時代北条の躍進と公方の争いが主軸なのが表されている。
その中で1520年後半や30年代は高基の対立の義明派の真里谷氏里見氏の中で北条氏をどのように扱うかが主軸の年になっていて
省21
638(1): 2021/10/27(水)22:32 ID:CNHOg5yZ(1/3) AAS
一次史料にもある「伊勢早雲」が虚構だったなんて
639: 2021/10/27(水)22:52 ID:CNHOg5yZ(2/3) AAS
「箱根神社棟札」早雲寺殿
「北条家朱印状」早雲寺殿
「大道寺盛昌書状」早雲寺殿様
「為広駿州下向記」早雲
「大井宗菊書状」伊勢早雲庵
「福島範為書状」早雲庵
「王代記」伊勢早雲
「朝倉宗滴話記」伊勢早雲 (紫屋軒宗長からの聞き書き)
「小田原衆所領役帳」早雲寺殿
「相州日牌帳」早雲寺殿
640: 2021/10/27(水)23:26 ID:CNHOg5yZ(3/3) AAS
自署 宗瑞
「上杉可諄書状」伊勢宗瑞
「上杉憲房書状」伊勢新九郎入道宗瑞
「大蔵院宗好」宗瑞
「上杉憲政願文」平宗瑞
他称は北条・今川圈=早雲(庵、寺殿)、上杉=宗瑞
641: 2021/10/28(木)00:47 ID:tCbzQAl9(1/2) AAS
>>638
自署、特に公式発信文書が全てだろう。
他称など綽名の如きもので採るには値しない。
と同時に、
武田徳栄(徳栄軒信玄)
上杉不識(不識庵謙信)
などという表記があり得るかどうかを考えれば答えは自明。
何よりも、「北条早雲」なる表記は後世捏造された数々の虚構に塗れ過ぎた。
実事求是のスタンスに立つならば速やかに葬り去るべきものだ。
642: 2021/10/28(木)00:57 ID:tCbzQAl9(2/2) AAS
玄人、素人を問わず史学関係周辺の人々は表面的/些末的史料盲従主義(文系脳的思考停止)に陥りがちだと常々思っている。
技術屋の目から見ると「論理的正当性」以外に拠るべきものは何も無い。
出家者については法号が正当な呼称であって、庵号を持ち出すのはナンセンスとしか云いようが無い。
643: 2021/10/28(木)07:39 ID:3Zo35AgA(1) AAS
早雲と顔つき合わせてた者(冷泉為広、宗長、今川家臣)が「伊勢早雲/早雲」と呼んでるのに
自称理系脳がわけわからんこと言ってるな
644: 2021/10/29(金)16:27 ID:0cEF+2AZ(1) AAS
院号庵号法号または斎号かか、色々なケース想像するなぁじゃあ盛時かな
645: 2021/10/30(土)17:29 ID:ZTe5p2/j(1) AAS
関東の吉良氏や渋川氏なんてこの時代別に大そうな意味なんかはなかったのでは
646(1): 2021/10/30(土)18:12 ID:BM4eVsQy(1) AAS
>>630 >>634
伊勢宗瑞は相模國全域制圧直後に武蔵國へ再侵攻するかと思いきや、真里谷武田氏からの要請を容れて上総國に侵攻した。
伊豆衆・三崎衆と対岸の真里谷配下の海賊衆との連携による武総之海の水運掌握、以て扇谷上杉氏のインフラ侵蝕を図ったものと云う。
それ自体は真実だと思われる。
しかし相手方である武総之海の西岸から奥、即ち品川や江戸等の海民たちの動向が今一つ見えて来ない。
地域的には当然扇谷方に付いていたのだろうが、
彼等が担っていたであろうそれ以前の湾内水運の実態、武相(扇谷対伊勢)の相剋に当たって彼等が果たした役割、等々はどんなものだったのだろうか。
私見だが、宗瑞が性急な江戸再侵攻よりも「勝てる状況」の構築優先という一見迂遠な道を選んだについては一回目の侵攻失敗の経験知があったのではないか。
その経緯の中に湾奥部の海民たちの(当然、扇谷方としての)軍事・流通活動もあって宗瑞をしてその重要性を痛感せしめたものと見ているが、未だ具体的な根拠を見出せず妄想の域に止まる。
何か知見があれば御教示願う。
647(1): 2021/10/31(日)17:52 ID:Y80QSy3u(1) AAS
>>637
国府台合戦に際しての扇谷上杉及び配下の武蔵國衆の動きが腑に落ちない。
何故北條を背後から襲わなかったのか。
古河vs小弓の覇権争奪というこの合戦の基本構造の中で扇谷(一応山内と和睦中)は名目上古河方だったのかもしれないが、
江戸も葛西も奪って河越や岩附さえ脅かす不倶戴天の敵たる北條が氏綱ばかりか氏康まで出陣して江戸も小田原もガラ空きにしているというのに、
そして扇谷は必ずしも小弓と敵対してはいなかったのに指を咥えて北條を座視していたのがどうしても解らない。
北條の侵攻で逐われて憤懣やる方無い國衆も武蔵國内に少なからず残存していただろうに…。
そもそも古河が小弓を討つに当たって関東管領山内上杉を差し措いて新参者の(そして忠誠度に疑いのある)北條を使ったこと自体相当解らないものがある。
既に当時、國衆の潜在的動向も含めて両上杉は武蔵國内の政治基盤を喪失していたということなのだろうか。
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