【無名】東京の武将たち【知りたい】 [無断転載禁止]©2ch.net (786レス)
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608(1): 2021/10/07(木)09:38 ID:vxgC77lw(1) AAS
>>607
これは非常に面白い所だと思います。
実は自分ではなくてですね、今現状の通説が史料の少ない中で、
さらに少し後ろの時代に作られた混乱ある複数の系図と伝承を持って
今の専門の方々がある程度筋が通るように同一人物に仮定してるんですよね。
なので逆にいくつかは自分はそれを切り離してみました。
例えば自秀(叔父)ー自胤ー良胤(子)をおそらくなんらかの混乱あって
系図の中で違いが生じてる名前なんかを同一人物だろうという風にしております。
実際自秀なんかは墓もあるのですが、よくわからないという事で自胤の墓だろうという感じで
混乱を回避してるわけですね。また守胤と盛胤も基本は同一とされています。
省12
609: 2021/10/07(木)20:50 ID:vSG9Y0Lo(1/2) AAS
千葉そんな面白いことやろうとしてるんだ
県内旧家の古文書悉皆調査したらいいのに
610: 2021/10/07(木)21:15 ID:vSG9Y0Lo(2/2) AAS
>>608
人物比定もわかりました
611: 2021/10/09(土)16:14 ID:n2VxJd7D(1) AAS
画像リンク[png]:i.imgur.com
武蔵国造の乱
戦国には一切関係ないですが、土地と言う概念で考えるという事で
あとたまにはこういう无邪志国史観ということで、、、
緑色はおそらくの湿地帯でこう見ると秩々夫国と合わさる前の无邪志国を
少しイメージできますね、白い部分は重要な土地と見ることができるのではないでしょうか。
常陸国内部はすごい良さそうですね、でも无邪志国も悪くないですね。
ただ小杵は笠原使主に負けてしまいましたが。
612: 2021/10/12(火)02:37 ID:+VzMRicH(1/2) AAS
小弓城への雑な考察
まず注目されるのは原胤房の小弓館での討死に。これを自分は小弓館を原胤房の領地とせず
馬加氏の領地と見たい。東常縁の奮闘により一時古河公方に与した馬加氏原氏は途絶える。
つまりここで恐らく千葉地域に領主空白ができる、そこに浜春利(酒井氏?)、本庄海上氏、
入ったのではないだろうか。そして浜野港から少し南の上総村上に東氏浜氏同様縛の命によって
村上氏が入ったと見るのはどうであろうか。(また同時に同族か別か臼井の西に下総村上氏が)
1483年に関東の都鄙合体で和睦(1478年に原胤房の跡を継いだ養子胤隆は香取庄に文書を出している
ことからまだ小弓にいないとみえる)、86年に道灌最後の下総進軍が窺える死去の3か月前、
1か月前には詩歌会で戻っているので2か月間か。四面楚歌の下総千葉氏はまだまだ落ち着いていなかっただろう。
87年から両上杉氏の争いがはじまる。88年一時休戦90年以降に勝胤の市川での動向が見える。
省10
613: 2021/10/12(火)02:49 ID:+VzMRicH(2/2) AAS
追記
以前にも高城氏や原氏との争いが匂う所もあるが、
1506年、1517年には大きく玄鼻城(武蔵千葉氏側)に下総千葉氏側からの攻撃があったのではないだろうかと
考える。1506年には自秀、良胤、東胤重が死去。どちらも三上氏が救援に来ていたとみている。
そして17、18年以降は義明が胤隆を追い出し小弓公方としてその地を治める。
614(1): 2021/10/14(木)20:36 ID:j/EGO5u+(1) AAS
酒井ってなんで原の家臣みたくいわれてるんだろ
615: 2021/10/14(木)23:44 ID:bNJKnwER(1) AAS
>>614
千葉傳考記(おそらく享保の頃の作)からのものかなぁと。
「千葉は百騎、原は千騎」といへり。或は、「千葉に原、原に高城・兩酒井」などいひし……
おそらく本来は利胤の頃の下総千葉氏は主家として存在するが、実態は原高城両酒井の勢力の
の方が大きくなってしまっている。ということかと。
ここで陪臣とでてくるのだけれども、どうなんだろうか。原と共存する勢力にも感じる。そうでもないような
「俗にいう」は外せない気もしますね。
616: 2021/10/15(金)08:50 ID:mTmf7tGh(1) AAS
原氏への雑な考察
まず原氏は宗家から系図では争いに近い時代に分かれた千葉分家筋と
宗家にかなり近い家臣円城氏が八幡荘、千田荘の所領をめぐって争いが生じる。
研究では原氏は古河公方との独自のパイプがあったらしい。なんだけれども自分は
この原氏を一括りにしてしまうのには疑念を持っている。
中心に置かれる原胤房と他の原氏はまた違う見方をしたい。まずどの原氏が原氏主家
だったかはいったん保留にし、弥冨、小西、胤房筋の三流があるとし、胤房筋に近い所に
4つ目の光胤筋が見える。小西は胤隆に与し古河公方に敗した後武田で小西系原虎胤が見えるので
小西筋は胤房筋と歩んでいたとみる。が、弥冨、光胤筋はどうであろうか。
大野城との関連される光胤が死去したのが1466年吉川市にて、一度時を戻して
省27
617: 2021/10/16(土)06:36 ID:Rj/+N+F2(1) AAS
太田氏武蔵吉良氏武蔵千葉氏に共通する家臣の宇田川氏
元は太田道灌の家臣宇田川長清、太田道灌が品川から江戸に移った際に逆に品川に移住を
申し上げられ品川の守りを任せられる、商人とも
同じ商人として有名なのが鈴木道胤、こちらも品川の商人で道灌とは連歌仲間
道灌死後の品川の経済力はどこに所属したかは気になる所だと思う(武蔵吉良氏かな)
618(1): 2021/10/16(土)07:55 ID:WFzb4ZQR(1) AAS
六郷殿の妻が真里谷信応女はどこ情報ですか?
619(1): 2021/10/17(日)00:36 ID:P2LwP+1R(1) AAS
>>618
黒田基樹教授の著書に載っている上総武田氏系図です。
なにを参考にされたかは不明です、申し訳ないです。
分かる方いればお願いします。
ちなみに信応の養子に女(原胤栄室)、女(六郷殿室)、信政とあります。
ただ三浦義意の妻の件に関しましても疑念の声もありますので、まぁという
感じですね。ただ参考になっている何かはあるとは思いますが。
あと申し訳ない所でありますが、どこかで違う六郷殿を見たような気がしていまして
例えそうであっても、某六郷殿と同一かも希望的観測な所ではあります。
620: 2021/10/17(日)09:54 ID:aaWvzs1A(1) AAS
>>619
ありがとうございます
621(1): 2021/10/18(月)08:37 ID:42v9kVtC(1) AAS
一つの考えとして
暗殺される前の太田道灌は一つの道灌を中心とした扇谷上杉氏を脅かす
連盟勢力として見ることができるのではないだろうかと考える。
武蔵吉良氏ー三浦氏ー太田道灌ー武蔵千葉氏ー(真里谷氏)
また武蔵千葉氏一族は道灌吉良氏の所領の中に北の渋江氏、、南の行方氏などが
在地の者の中に入り込む形で命によって配置されたのではないだろうか。
他に市川の戦いで幕府側で亡くなった足立顕秀宍倉氏兄弟の宍倉氏が小宮山氏の家臣になっている。
またそれは先の時代の上杉氏もそうで八条氏や深井氏(上杉氏と土豪)と
新方氏(千葉氏系の土豪)や川口の中田氏や衰退した江戸氏なども新しく住んだ者と
既在の者と混在している。そうした中で渋江氏だが古河公方に属していた渋江氏は確かに存在し、
省12
622: 2021/10/20(水)02:43 ID:szzROUx+(1) AAS
>>621
太田道灌は享徳ノ乱から長尾景春鎮圧まで、扇谷勢は勿論のこと実質的に山内勢の軍事指揮権まで掌握しちゃって一種の私党を形成しかかってたからなあ。
江戸領では完全に領主として直轄統治に等しい行政をやってたようだし、事実上は独立の戦国大名と云って良いんじゃないか。
あの内容の「太田道灌状」を扇谷定正の承認も取らずにいきなり山内家重臣に直接叩き付けた辺り、本人もそのつもりだったように見える。
623: 2021/10/25(月)23:54 ID:sP28SGMQ(1) AAS
稲城市と川崎市に跨がる小沢城
実際には見張り台(砦)くらいのもんだろうけどロケーションいいね
城山に川が巻き付いて堀になっていて山上からの眺望も抜群
歩いていける距離に府中街道と多摩川の矢野口の渡し
624: 2021/10/26(火)20:06 ID:QKusGoE6(1) AAS
よみうりランド遊園地の近くね
あの辺りは確かに眺めが良いわ
625: 2021/10/27(水)18:45 ID:V5BO+mN3(1/12) AAS
道灌死後の考察
少し長くなってしまうけど荒らしではないのでご了承願いたい。根拠は乏しいが仮定論や物語に近いなにかを
垂れ流したい。少しでもおもしろいと思っていただければ幸いです。
まず注目するのは長徳寺の移転。(1488年道灌死後1年後に吉良成高(頼高?政忠?)により)
これは吉良成高が防衛上の観点からということで南に危機感を抱いたことからと見ることができる。
ひとつその前に私見としてなぜ吉良氏は経済的ゆとりがあるのかという点だ。それは世田谷と言う土地ではないだろうか。
多摩川を利用した流通、品川湊、そして神奈川港(鶴見湊か?)の3つを利用できたからではないか。一つ無理やりかも
しれないが、もしかしたら江戸氏が先の時代で大福長者と呼ばれた理由も一族の六郷氏からの恩恵を受けたからかもしれない。
また六郷殿(行方氏であれば)もそういう背景を持って他の者より位が高いのかもしれない。さて、南への危惧だが
この神奈川港を上田政忠(子に政盛?)が15世紀後半に支配下に置いた。道灌死後において扇谷への不信感があるなか、
省14
626: 2021/10/27(水)18:45 ID:V5BO+mN3(2/12) AAS
少し道灌の話に戻る。道灌は死去直前まで下総への遠征をしている。隅田川に長橋を三本もかけ、そこそこの大軍を下総に渡らしている。
これは自分が思うに渡ること自体には問題がなかった、つまりもっと奥地に向かうことを意識しているのではないかと思う。
つまりそこまでは安定していたと感じる。先の79年の戦いで落ちたとも言われる臼井城。(この時資康とも交流があった梅花無尽蔵の
万里集九は自胤に扇を献上している。)その79年では千田胤仲を城代に置いたとしたい、すぐに臼井俊胤が取り戻し胤仲は千葉まで後退したが、
83年の都鄙合体によって千葉盛胤が臼井氏を引き継いだ。つまり奥地とは佐倉やさらにその東総を想像している。道灌が安定して
侵攻したということにおいて、まず道灌は強い信念として下総を攻めきることにしているわけではない、それでも都鄙合体後に侵攻するのは
当然にできることだからではないだろうか。おそらく真里谷氏、海上氏、また上総東氏、それと扇谷上杉に与してるものが動くと
認識しているからではないだろうか。実際松戸本土寺過去帳から道灌が攻めているのにもかかわらず原氏などの討死が79年から1500年代まで
見えなくなる。これは下総の中部までは安定していたと見れるではないか。また円城寺道頓が30余年に過ぎて(1489〜93年頃)
下総に戻っていること、義明支配期の船橋市に銘が残っていることが継続して下総千葉氏に領土が渡っていないことを裏付けてるように見える。
省17
627: 2021/10/27(水)18:46 ID:V5BO+mN3(3/12) AAS
さて94年の戦いの途中で定正が死去し一度両軍が和睦した中、反定正派も扇谷に帰参したみられる。(資康は江戸城に戻るとはいかず
おそらく武蔵千葉氏の元に身を寄せたと思われる。)またこの時先の大森氏は扇谷に戻らずに今川氏に付いたのではないだろうか、
そして95年以降今川の命によって早雲(今川)の与力になったのではないか。(小田原城に招く城主は大森氏)そして吉良成高だが史料にはないが
相模上田氏から神奈川港を取り戻したのではないだろうか。理由としては政盛がその後北条方として挙兵すること、1505年に山内が奪ったとあるが
詳細が不明な所で、相模真田城に移り早雲の与力になったことと見ることもできるだろう。そして扇谷の中ではこの頃より主家に領土の近い武蔵上田氏が
台頭し始めたのではと思う。また扇谷も今川によっていたのではと思う。構図としては幕府VS公方の形から今川扇谷VS山内古河公方に変わったのだと感じる。
公方は一応の所幕府から許された身であり、先に記述したように今川は上杉本家の力を抑えようと試みてるのであろう。そして96年に資康や大森氏の離反や
反定正派帰参を見た山内が相模真田城を攻める。(景春も反山内として参戦)だが景春の子景英と顕定勝利し、敗戦した今川勢と救援に来た扇谷勢は
小田原城に集まる。(伊勢弥二郎、大森藤頼、上田政忠/扇谷朝昌、三浦義同、太田六郎など)さらに今川扇谷勢は敗戦し、大森氏からは山内に
移った顕定と、おそらく真田城に逃げてその後早雲に組み込まれた定頼に分かれたようだ。小田原城はすぐ復帰したように思われる。
省15
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