【無名】東京の武将たち【知りたい】 [無断転載禁止]©2ch.net (806レス)
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517: 2021/05/22(土)02:55 ID:g8MUlCWB(1) AAS
??
避けて通れないなんて近隣の土地、影響を及ぼしてるものすべてだろ
わざわざ分けてるんだから戦国時代の南武蔵(東京)について主で話そうってことだろ
无邪志国造と知々夫国造と分かれてたんだし、江戸もそうだけど地域的にスレを東京に特化するに値するってこと
だから徳川ガーとか薩長ガー律令ガーを語りたいなら他でいい、向いてないと思うぞ、ここ
518: 2021/05/22(土)14:40 ID:NtqJH/rP(1) AAS
いつまでも神君江戸入府の呪縛に
囚われる謂れはないんじゃなかろうか
現在の都道府県地区町村の括りは
郷土史地域史は自治体や教育委員会が編纂してて
意外と避けて通れないのよね
郷土資料館の類や図書館の郷土史コーナーとか
いくつか行ってみると案外おもしろいよ
519: 2021/05/29(土)06:37 ID:WMT1jYmW(1) AAS
三善系太田が三橋系太田ならば(大膳亮、氏資も大膳亮)
太田下野守次郎左衛門重光(太田越前守宗真の子か?)の娘と太田道可の間で資正
重光の子下野守資近(康直)の娘と婚姻の康資
資正のいとこと婚姻したのかな康資(国府台で舅を撲殺したのが資近か?)
新次郎とか次郎系の太田は三善で下野守系か?資近弟に重吉、その子に康茂
ここでも「重」だな
ダメだ三善系は鎌倉、三橋系は成田氏家臣系、新次郎系はおそらく島津延久系
全然まとまらない
520: 2021/06/01(火)08:30 ID:wPr3Kjzq(1) AAS
千田千葉氏は元々香取郡にいた
武蔵千葉氏祖の賢胤が馬加氏との争いで逃れる
そしてそれに従い市川まで来て土着したらしい
系図ではなぜか武蔵千葉氏一族は千田千葉氏になっている
(自胤の墓で見る自秀が満胤の子でいる)
千田千葉氏と言えば義氏から千葉中務太輔もらった千田胤嗣、親胤の弟で兄の死のあと逃げた
千田右京進がいる、武蔵千葉氏とのつながりはいかがなものか
それからあきらかに武蔵千葉氏の方の家臣宮城氏が立てた長「勝」寺の国府台合戦で亡くなった
「勝」胤は舎人経忠と混同か、舎人氏も武蔵千葉氏の血筋の可能性もあるかもしれない
調べるとかなり重要な土地にいる武蔵千葉氏、岩槻・江戸太田氏も吉良氏も下総千葉氏も
省2
521: 2021/06/05(土)03:25 ID:NjS8pmdC(1/4) AAS
1488年山内VS足利扇ヶ谷休戦(武蔵千葉氏山内方)89年相模にいた東氏が信濃本地が攻められたと話す
この時期早雲と扇谷が手を結んだことと中央方の東氏と三浦氏武蔵千葉氏の動向は難しい、上総に東氏家臣大坪氏がいる
さらにおそらくこの頃上総武田氏はなんらかの理由で真里谷が分かれる(真里谷信興が浅草寺を再建したので真里谷は武蔵千葉氏側とみる)
90年千葉宗胤(武蔵千葉氏に従っていた千田胤仲か)が宗胤寺を建立(千葉県千葉)、千葉胤仲(持胤)の子臼井当主幸胤死去
臼井俊胤再度家督を継ぐ(又は和睦の為武蔵千葉自胤の子守胤が継いだか)、この頃円城寺道頓が下総に戻る
92年市川市の弘法寺を勝胤が安堵93年自胤が亡くなる、守胤家督を継ぐ94年北条足利扇ヶ谷VS山内、足立郡に進撃した早雲
(岩槻城は足利派閥成田氏、家宰職岩槻太田はどこに?馬込(梶原)も攻めるがどちらも落ちず)
定正死去、足利山内和睦(下総武蔵千葉氏対立再び)、武蔵千葉氏に味方した原氏が栗原で死去
95年高城氏が馬橋にて死去、孝胤が粟飯原氏に書状96年武蔵柏原合戦、扇ヶ谷敗戦(早雲弟が扇ヶ谷に味方)
97年葛西城を武蔵千葉氏が攻める、同行不明の東常和はここにいるか(扇ヶ谷方)98年早雲茶々丸殺害(義澄派VS義稙派)
省25
522: 2021/06/05(土)04:41 ID:NjS8pmdC(2/4) AAS
相馬胤儀
享徳の乱で幕府側で死去
その子児島、豊島、行野、宍倉、足立
児島の子
山口、匝瑳、戸張(なんとも……系図ではないかも)
戸張、前崎城で太田六郎と同じく亡くなった
相馬胤高1511年死去、相馬胤実1503年死去、徳誕蔵主1525年死去足利高基書状
相馬整胤関東膜注文
523: 2021/06/05(土)04:44 ID:NjS8pmdC(3/4) AAS
臼井一族の地は大きく佐倉臼井から四街道市、一族に吉岡、山梨、蕨、師戸(柏市の匝瑳氏)など
八千代市(米本など)には村上氏(上総武田氏と同じ時期に土着か)、習志野市の武石氏、鷺沼氏(元々は馬加氏の地)、鎌ケ谷市の中沢氏、
高城氏以前の船橋市は曾谷氏
武蔵千葉氏&東氏に味方したのは円城寺若狭守、円城寺肥前守、曾谷左衛門尉直繁、曾谷弾正忠直満、曽谷七郎将旨、
蒔田殿、武石駿河守、相馬守谷殿が討ち死に、他に木内宮内少輔胤信、円城寺因幡守宗胤、粟飯原右衛門志勝睦がいる
佐倉市岩富の弥冨原氏原朗珍、原朗峯(大野に土着した原氏か、法名蓮〇の一族か、胤義もか)も東氏に味方して討ち死に、
いつか不明だが高城氏は武石氏中沢氏を攻めているので
中沢氏も上杉(幕府)寄りか、志村城が篠田城ということから武蔵千葉氏に従った篠田氏もいた
世田谷にも円城寺氏、1536年夏見で円城寺道頓(雲玉和歌集)
524: 2021/06/05(土)05:51 ID:NjS8pmdC(4/4) AAS
武蔵千葉氏に庇護されていた東尚胤の一族
森山(飯田)や須賀山城を領した
東教頼東常縁の子
東常綱東氏胤の子兄常数、常数の子直胤
ただし当時の森山城は海上氏、原氏、石毛氏
正木時茂が矢作城の国分氏を攻めたが敗戦した、国分方に木内、大須賀氏
正木方に府馬氏と東六郎がいた
東六郎胤重 1506年玄鼻死去、この時千葉荘は千田千葉氏の影響下の可能性あり
原胤隆に攻められたか、この時上総三上氏が小弓城を攻めている、扇ヶ谷の指示か
亥鼻にはこの時に失われたが宝物や文書があったようだ
省13
525: 2021/06/07(月)11:46 ID:bMroHvIG(1/3) AAS
海上氏は森山を領し東氏との繋がりが強い
海上備中守師胤 自胤の元に参上した(東常縁つながりか)
海上胤貞 師胤の弟兄の後を継ぐ、さらに下の兄弟に憲通律師、助秀、小見川粟飯原妻
助秀と子が米野井で打ち死にしてることから木内氏と争ったか、
憲通律師は東氏の系図を東胤重(出奔?)から預かった、胤重と一緒に亡くなった原朗寿がいる
朗〇系(弥冨原氏)は1517年弥冨で打ち死にした朗久や35年小弓で打ち死にの朗典を最後に
第一国府台合戦で活躍した胤行などの原胤清が戻ってきたあとの別の系統に移ったのではないか
海上持秀 父孝秀が家督を継ぐ前にその父助秀と弟共に打ち死にした(1523年より前)
近隣の東氏とはつながりがつよく胤重のあと14年後に憲通律師から東氏の系図を受け取り
1516に復興した東勝繁と特につながりがつよい
省22
526: 2021/06/07(月)12:06 ID:bMroHvIG(2/3) AAS
ここまで雑に書き込みをしたが、定説では道灌死後武蔵千葉氏は下総に戻れず
国人に落ちたというが、第一次国府台合戦まで下総の西地域(千葉庄や臼井)まで
道灌や扇ヶ谷、東常縁時代のパワーを利用しながら影響を持ってた可能性がある。
それが後北条氏が一定の敬意を払い続けた理由だと思う。
第一次国府台合戦まで影響があったと思われる一族
・千田千葉氏・弥冨敬大野原氏(朗〇系)・府川豊島氏・下総村上氏・臼井氏
・上総東氏・森山東氏・海上氏・真里谷氏
ただし下総千葉氏、原胤隆、原胤清、原胤貞、後期高城氏も下総安定に力を入れてるため
【千葉は百騎、原は千騎】【千葉に原、原に高城両酒井】
を経て後北条に完全に飲まれていくことになる。
527: 2021/06/07(月)20:01 ID:bMroHvIG(3/3) AAS
追記
1506年に東胤重の死があるが、千葉中務少輔盛胤の子とされる良胤が1506年に亡くなっている
良胤の子に雅胤、ただし守胤は千葉介であり子の憲胤が1552年に赤塚松月院に書状をだしている
実胤の娘と常和の婚姻の場合、胤富と常和の娘(孫養女)を妻にしているので良胤は従兄弟
系図では胤富の子に良胤と邦胤、良胤(追放で)子は当胤(まさたね)
もしかしたら中務は千田千葉氏で盛胤=胤仲=臼井持胤=臼井守胤で子供が良胤=義胤なのかもしれない
押田系図で中務守胤の舅の押田吉持は1532年武蔵国で氏康と闘い戦死、
国府台合戦前で32年は扇ヶ谷上杉藤王丸が江戸で死去し朝興の子朝定が継ぎ、
足利は晴氏、山内は憲寛が義明の元市原市に逃げて憲政が継ぎ、北条と義明は停戦中
江戸でなんらかの争いがあったか?押田氏は下総の東の領地なのでだいぶ遠征している
528: 2021/06/08(火)13:04 ID:nH96gBqt(1) AAS
誤字脱字がひどいな
529: 2021/06/09(水)13:38 ID:Joyo2cWc(1) AAS
まず吉良成高だが、蒔田にも所領を持つため早い段階で北条氏と手を結んだと思われる。
そうすると武蔵千葉氏も早い段階で意識はしていただろう。(世田谷世田谷泉沢寺の円城寺、上丸子の所領
から見て北条時代も武蔵千葉氏と武蔵吉良氏のつながりはあると見える)白子の戦いで、北条が敗北し
蕨城が扇ヶ谷に戻るとき、赤塚城に言及されないのは復帰は蕨城のみで武蔵千葉氏はそのまま北条氏方に
いるのではないか(余談だが上杉謙信の小田原攻めの際には赤塚城で強奪、放火をしている)
個人的には確かに快元僧都記に1538年2月に葛西城落城とあるんだけれども、
元々1525年の江戸城攻略以前で武蔵千葉氏の葛西城が北条に渡ったんじゃないかと
考えてる、なぜまず武蔵千葉氏か、まずは円城寺事件、次に大石石見守綱周(定久弟か子)が
多摩にいること、そして大石が孤立してこの地いるリスクから考えて円城寺事件で
武蔵千葉氏に移ったとしても不思議ではない。25年周りの岩槻城攻防だが、上記で
省10
530: 2021/06/11(金)22:02 ID:ODGpqwJq(1/2) AAS
曽我氏
相模の一族で扇ヶ谷の家老までになる、埼玉県上尾市に館をかまえる
扇ヶ谷滅亡後に成田氏に曽我氏が見える、山内憲政家臣で越後に行った曽我氏、
小田原に残っていた曽我氏は1559年に謀反を起こし氏康に滅ぼされる、
他に多摩八王子あたりに一族の佐宗氏がいる
広沢氏
広沢元家 重家の子、岩槻太田氏の家臣、1546年の河越城の戦いで討ち死に。
広沢氏は元々朝霞市の広沢郷からなる。が、時期とともに領地は北上している、
その後の広沢郷は浜崎氏が見える、その地域の城の武蔵岡城は不明点が多いが、
太田氏の領地だったと見える。朝霞市にあるいくつかの観音様は浅草観音と
省15
531: 2021/06/11(金)23:42 ID:ODGpqwJq(2/2) AAS
訂正:一説に朗〇系の原氏、一度尾張国に行き、その後北条氏の元六郷にいるという
移動したのは寺の方。
1470年に大宮又は葛飾区水元で亡くなった原信濃入道朗意も行方又は妹尾を名乗った可能性もあり
川越の瀬尾町にも関係性があるかもしれない。
他に名が残る武将は岩槻資正関係が多く、それ以前が難しい。岩槻系はもとは道灌父とともに
越生町にいたのだろうか、富士見市で道灌死後に台頭する難波田氏(元は山内上杉方か)1533年の
江戸、品川への出陣、1537年の深大寺城修復、主家滅亡後の北条での所領、
埼玉県宗岡から見て蕨の渋川氏&宗岡の難波田氏と武蔵千葉氏でにらみ合ってたか。
532: 2021/06/12(土)02:22 ID:vN8GhE0V(1) AAS
埼玉南部と東京北部の境(難波田、渋川、武蔵千葉)において一つ抜けてしまった…
柏城(志木市)の大石信濃守。定重、政吉、宗虎、定基。
定重が父で子に定久。定基(宗虎、政吉か)この時期の大石氏の定が顕定からの偏諱
ならば北条に下るまで山内に属していたと思う。政吉の政は憲政の政か。
太田資正も難波田氏にともなっていたが、はじめから松山城かまたはこの辺りにいて
大石氏とのつながりを強めていたか。資正の妻の一人は定基妹か綱周(憲重)妹。
1527年に信濃守が亡くなっている(信濃守も何代かいたか、)
その南の東京都杉並区に中田加賀守(山内顕定家臣)
中田加賀守は北条家の小机衆として有名だが、元は荻窪に居たか。
臼井守胤は中田加賀守の娘を娶ったとされる。またこのあたりに
省1
533: 2021/06/14(月)03:44 ID:6s8MGVSt(1) AAS
画像リンク[png]:i.imgur.com
想像図になってはしまうけど、このように考えている
まだまだな部分は申し訳ない
534: 2021/06/15(火)04:54 ID:kv6KJpYV(1/5) AAS
AA省
535: 2021/06/15(火)17:32 ID:kv6KJpYV(2/5) AAS
相模や多摩の境などの武将も必要だな
536: 2021/06/15(火)17:55 ID:kv6KJpYV(3/5) AAS
笠原信為、北条氏光、神蔵盛清、布施蔵人、山田右京進、寺尾若狭守、座間七騎、
若林大炊助、白井織部是房、曾根采女助、曾根外記、窪田又五郎、増田満栄などか
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