【無名】東京の武将たち【知りたい】 [無断転載禁止]©2ch.net (786レス)
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45: 人間七七四年 [] 2016/12/21(水) 06:53:08.71 ID:sBTGhJMQ 吉良成高 http://kizuna.5ch.net/test/read.cgi/sengoku/1470119615/45
141: 人間七七四年 [sage] 2017/02/15(水) 22:07:34.71 ID:ghJ70WyL 幕臣興津氏(1610年より前に幕府に仕えた) 系図「興津彦十郎(今川義元に仕へ桶狭間合戦に討死)―加賀守(今川氏に仕へ駿州興津に 居る、其後北条氏に従ひ江戸城を預かる)―良信(小田原籠城す)」 尾張藩士行方氏(尾張藩の前身の忍城主松平忠吉に仕えた) 系図「原信濃入道朗意(文明二年八月武州水判土にて逝去)……妹尾下総守蓮意(秀吉之軍と戦ひ武州岩築城二之丸戦死)―妹尾三河守(越前秀康君奉仕、法名信行院殿蓮頂日受)、弟行方修理大夫(武州荏原郡六郷之城主、北条氏政に属す)」 相馬藩士蒲田氏(1614年より前に土井利勝に仕えたのち相馬藩士となる) 系図「江戸四郎重継後裔江戸新五郎致重武州六郷蒲田に住す 、故に氏を蒲田と称す」「致重(下総守)ー定重(下総介)ー重武(左京亮)ー重吉」 妙典寺墓碑「蒲田下総守致重入道重蓮墓碑・慶長十三年三月二日卒・年九十余。五世孫兵庫重行謹建・元禄十二年五月二日」 上杉憲幸 妙典寺過去帳「大旦那六郷殿・清天院朗忠日杉・天文十二年壬子十月十四日」 高野山高室院にあった所領役帳が書写して持ち出されたのが1692年(元禄5)だから これより前に子孫を称した者たちが所領役帳にしか見られない興津氏や六郷殿を知らないのも無理はないんだな 上杉憲幸・氏幸の過去帳が1692年以前に書かれたものなら六郷殿の信憑性高いんじゃない http://kizuna.5ch.net/test/read.cgi/sengoku/1470119615/141
219: 人間七七四年 [] 2017/05/13(土) 13:22:57.71 ID:F+D6Q2HE >>217 すまん・・・昔本で読んだ情報でかなり断片的なんだが・・・たしか潰されたほうが潰したやつを煽ったかなんかでブチ切れて頭を叩き潰されたとか・・・ 「金棒で叩かれて首がとれないなんてあるのか」と印象深かったんだ。 2人とも武蔵国の武将だ年代は1550年〜1570年代 http://kizuna.5ch.net/test/read.cgi/sengoku/1470119615/219
352: 人間七七四年 [sage] 2017/11/30(木) 11:37:32.71 ID:9frVxLvp さて時を同じくして下総では馬加氏の庶長子と思われる岩橋輔胤が原氏の所領を 受け継いでいた、だがそれ以外は不明である ちなみに胤将は父胤直の異母兄弟とする説がある、妄想だが年齢的に子がいてもおかしくない つまり岩橋輔胤の子とされる孝胤は実は胤将の子ではないか 東常縁もいてまだ下総自体不安定の中で不自然に岩橋氏が千葉氏を乗っ取るというのに 引っかかりがある、そしてこの時期の情報はほぼない だとすると可能性はかぎりなく低いが考えてしまう 胤将は馬加と同じく成氏派で、父又は兄の胤直の出家に伴い当主になったが、 胤将死後今度はまた上杉派の胤直が口をだしてくると 謀反を起こし、その子息を擁立というのがありうるし、後世の千葉氏の動きとも 大きな矛盾はない、残念なことに胤将に子がいた資料はないが 1463年 長尾景仲死去、ついに関東のフィクサーが死にその息子景信が継ぐ 武蔵千葉氏に赤塚の寺院への返還要求の書状が堀越公方から届いている 実胤ははたしてこの時戻っていたのであろうか 1464年 足利義視が僧侶から還俗 1465年 臼井教胤死去 千葉孝胤の明確な活動時期までまだある、本佐倉城の築城時期も諸説ある そこから西には臼井城があった、城主は臼井教胤である 死去後実子俊胤が幼いため養子の持胤がついだということだ そしてこの持胤は孝胤の子だというが、年齢が合わない この時に14〜20ぐらいだとしてもこのとき孝胤が 6〜21歳ぐらいだということだ これも妄想だがこれは実胤の子ではないだろうか ただし実胤も孝胤同様に年齢が合わないが 理由としては伝承に実胤と扇谷上杉の娘の子守胤が臼井俊胤のあとをつぐ というのがある、世代がずれたと見るのはどうか 持胤=守胤というのもおもしろいと思う http://kizuna.5ch.net/test/read.cgi/sengoku/1470119615/352
640: 人間七七四年 [sage] 2021/10/27(水) 23:26:29.71 ID:CNHOg5yZ 自署 宗瑞 「上杉可諄書状」伊勢宗瑞 「上杉憲房書状」伊勢新九郎入道宗瑞 「大蔵院宗好」宗瑞 「上杉憲政願文」平宗瑞 他称は北条・今川圈=早雲(庵、寺殿)、上杉=宗瑞 http://kizuna.5ch.net/test/read.cgi/sengoku/1470119615/640
697: 人間七七四年 [sage] 2022/03/24(木) 22:52:24.71 ID:bn28w5Yz 三鷹市中原の中嶋神社に慶長3年の棟札があり柴田三右衛門・麻生弾正の名が見え 三右衛門の子孫は柴田勝家の孫、弾正の子孫は甲斐から来たと伝える 麻生弾正でググると千葉氏のページがヒットして山室氏などと共に名がある 他に上総国埴生郡にも麻生郷があると ちなみに山室譜伝記の作者が行方光広で 井田文書を所蔵する神保家は行方系譜(楓軒文書纂)も所持している 井田氏と行方氏の関係もよくわからないな http://kizuna.5ch.net/test/read.cgi/sengoku/1470119615/697
749: 人間七七四年 [] 2023/07/27(木) 17:55:24.71 ID:lhJlb3Az 直近の「歴史人」では北条時代の江戸近辺についてうまくまとまった地図掲載されてたな http://kizuna.5ch.net/test/read.cgi/sengoku/1470119615/749
752: 人間七七四年 [sage] 2023/12/05(火) 23:37:06.71 ID:0CXdv+Pi >>742 この中条出羽守の討死、普通に小田原記に載ってた 「佐竹対陣并上州退治の事」討ったのは由良の侍大将大沢甚兵衛 全然新事実じゃないけどこの学芸員大丈夫かと ・子孫の家に伝わるのは江戸期の文書で戦国期やそれ以前のものは存在しない(覚書そのものも子孫に伝来していない) ・12条からなる関東時代の戦功・逸話を記すがそれらを裏付ける一次史料が存在しない(軍記と関連する逸話はある) ・関東時代の同輩として彦根藩の同僚・その近親は登場するが直属の上司(第3条の武者大将など)の名は記さず不明 ・秀吉の九州攻めで通説と一致しない記述があるが、里見吉政覚書と一致するのがやはり江戸期成立の豊前覚書(城戸清種が父豊前守知正の事績を記す) 同時代史料から表れる世界と、覚書・由緒書・軍記・系図に描かれる世界とが交わらないパターン http://kizuna.5ch.net/test/read.cgi/sengoku/1470119615/752
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