【軍神?】 上杉謙信 毘沙門天 【越後の龍?】 ★2 (78レス)
上下前次1-新
59(1): 11/06(水)23:42 ID:9LeXVnM2(1) AAS
ネトウヨの方々と在日の皆さんは共々に御遠慮願う。
貴君らの白痴的言説はスレッドの品位と知性を著しく下げる。
当スレは上杉謙信はもとより凡ゆるものを対象化、相対化して論ずる強靭な理性的/批判的思考の持ち主にのみ門戸を開いている。
換言すれば貴君らの来るべき場ではない。
信忠スレ、石田スレ、乱取りスレ等々貴君らの存分に活躍できる場は戦国板内でも他に幾つも存在する。
是非ともそちらの方で心行くまで活動して頂きたい。
60: 11/06(水)23:51 ID:ZkwkDJFA(1) AAS
石田信之スレッドからきました
61: 11/10(日)15:45 ID:kC4emamb(1/2) AAS
越後国守護上杉房定、常時在国化して大名専制体制を確立。
「史上最初の戦国大名」となる。
*
上杉顕定(房定次男)、関東管領山内上杉家に入嗣。
家督及び関東管領を承継。
*
越後国守護代府内長尾為景、同国守護上杉房能(房定三男)を弑殺、傀儡上杉定實を立てる。
室町幕府、定實-為景体制を公認。
*
関東管領山内顕定、実弟房能の復仇を掲げて越後侵攻。
省17
62: 11/10(日)15:52 ID:kC4emamb(2/2) AAS
「上杉謙信」なる存在を生んだ越後府内長尾、越後上杉、山内上杉の関係を改めて上記の如く書き連ねてみると、
彼が異常なまでに拘り続けた「山内上杉」「関東管領」とは何だったのか、
何処にその実体があったのか…と考えてしまう。
63: 11/13(水)00:11 ID:EqOz6UGu(1) AAS
北條先生・・・。
64(2): 11/13(水)09:04 ID:jEMPwxsC(1) AAS
本編とあまり関係ない話で申し訳ありませんが、最近アマゾンのCMでパパさんを演じてる俳優の長尾さんはご自身を上杉謙信の末裔と名乗ってらっしゃいますが、神奈川県出身を考慮すると、越後長尾氏ではなくて白井などの関東の長尾氏ではないかなと勝手に想像しています。唐突な話で申し訳ありません。
65: 11/13(水)09:41 ID:05Iw4LOd(1) AAS
>>64
上杉氏も長尾氏も関東地方(武蔵た-相模-上野-下野)が本家、越後国が分家の血筋ですね。
長尾氏の出自は相模国鎌倉郡長尾庄(神奈川県横浜市栄区長尾台町)が発祥で、桓武平氏の坂東八平氏の中の鎌倉氏の支族(分家)です。14世紀半ばの南北朝時代以降に武蔵-相模-上野-越後の守護職に上杉氏、守護代職に長尾氏が就任し関東の長尾氏は上野国の白井長尾氏と総社長尾氏、下野国の足利長尾氏に分かれました。
66: 11/13(水)18:48 ID:QPtkDzDi(1) AAS
>>64
我が国も住居の自由を憲法に謳ってから既に久しい。
また特に戦後の東京圏には列島全土から際限無く人が流入し続けている。
越後府内長尾氏の末裔が神奈川県出身であっても何ら驚くに値しない。
が、
「上杉謙信の」末裔が現世に存在し得ないことは生物学が100%保証する。
仮にその可能性が1μmでもあるのなら御館ノ乱は発生していない。
67: 11/14(木)06:50 ID:kWF4EwaG(1) AAS
>>59
「白痴的言説」という差別的な表現を思わせる文体はやめた方が良いと思います
68: 11/19(火)01:14 ID:/EJBUcXz(1/4) AAS
『軍需物資から見た戦国合戦』(盛本昌弘 吉川弘文館)より
「永禄三年(1560)以降、毎年のように繰り返された上杉謙信の関東侵入は次第にいきづまっていき、天正二年(1574)の秋には最後の侵入が行われた。
この時の謙信の攻撃はすさまじく、北関東一帯を放火し、広大な土地が焦土と化した。
だが、謙信の断末魔的攻撃も実を結ばず、上杉方の城は落城あるいは降伏し、ついに謙信は越後に帰り、以後天正五年五月を除いて関東に侵入することはなかった。」
69: 11/19(火)01:15 ID:/EJBUcXz(2/4) AAS
『対決の東国史7 小田原北条氏と越後上杉氏』(簗瀬大輔 吉川弘文館)より
「(天正二年)十一月七日に上野から「利根越河」を行い、北条氏邦居城の鉢形城、同じく宿城の松山城、成田氏長の忍城を悉く城下まで放火した。」
「新田・足利・佐野を放火しながら下野大道を東進」
「再び「利根越河」を行って武蔵北東部に深く切り込み、騎西城、菖蒲城から岩付城までを放火した。」
「(猛攻も虚しく関宿落城)を知った謙信は「武蔵・下総には百里にわたって味方が無くなったので、ついに滅亡した」と敗北を悟った。」
70: 11/19(火)01:16 ID:/EJBUcXz(3/4) AAS
『上杉謙信の本音 関東支配の理想と現実』(池享 吉川弘文館)より
「一一月七日には利根川を渡河して、鉢形城下や成田領・上田領を放火して回った。」
「足利・館林領に進み、ここもことごとく放火して、二二日には鯉名沼の沼尻に陣取った。」
「ふたたび利根川を越え騎西・菖蒲・岩付など武蔵の敵地をことごとく放火して回り、灰燼に帰さしめたという。」
「羽生城については、味方から一〇〇里も離れ孤立しているので守り切れず」
「同じころ簗田氏は、佐竹氏の仲介で北条氏に降伏」
「本格的城攻めはなく相手にされなかっただけのことで、何の成果も得られずに武蔵・下総から上杉方が一掃される結果となった。」
「関東の反北条方にとって、謙信は無用の存在となっていたのである。これをもって、謙信の本格的な関東進攻も終わりを告げた。」
71: 11/19(火)01:19 ID:/EJBUcXz(4/4) AAS
以上の総括から。
天正二年(1574)十月から閏十一月にわたって上杉謙信麾下の越後軍は実質上最後となった「越山」を敢行する。
この戦旅に於ける越後軍の動向は史料を尋ねても研究書を読んでもただひたすら放火、放火、放火、…である。
その物理規模及び経済被害規模に比べれば織田の所謂「叡山焼き討ち」など児戯に等しいとさえ思える。
もはや「鎌倉殿-関東管領体制の復興」という表向きの大義名分も「掠奪による越後飢民救済」という真の戦争目的もかなぐり捨てて、
碌に敵城攻撃もせず在地の生活の破壊焼滅にのみ狂奔する越後軍は正に悪鬼羅刹と云うの他は無い。
聖将上杉謙信、敗北の絶望に狂った断末魔の実像である。
72(1): 11/19(火)10:42 ID:PXgVMOKr(1) AAS
「義の武将」というのは後世に作り上げられたものだな
73(1): 11/19(火)15:18 ID:ByAnq4Yo(1/2) AAS
そんなのこの時代の人達は皆後世に持ち上げられて伝えられてる所があるでしよ。
74(1): 11/19(火)15:26 ID:ByAnq4Yo(2/2) AAS
>>72
そりゃ武将なんだから戦争するのは当たり前でしょう。
イエスキリストのような温厚な宗教家じゃないんだから。
75: 11/19(火)17:23 ID:osgZmjKd(1/2) AAS
>>73
> この時代の人達は皆後世に持ち上げられて伝えられてる
それを景勝くんや氏政くんや勝頼くんや松永さんや宇喜多さんに云ってみろ。
76: 11/19(火)18:53 ID:osgZmjKd(2/2) AAS
>>74
横から失敬。
戦争行為自体を云々しているわけではないと思うが。
戦争というものは政治目的の下に戦略が、戦略の下に戦術が組織されることでこそ「異なる手段に於ける政治の継続」(クラウゼヴィッツ)たり得る。
戦国争乱など正にその典型。
十数年間続いた上杉の「越山」も当初はそれを達成していた。
ところが上杉にとっての達成そのものが関東の味方諸将との軋轢を生むという構造的矛盾に陥って行って追い詰められた挙句、
辿り着いたフィナーレは上記の如くもはや目的も戦略も見失った不必要かつ理不尽な狂乱だった。
そこには如何なる意味に於いても「義」が見出せない、
省2
77: 11/20(水)01:05 ID:IhUwa5SU(1) AAS
夜分遅くに申し訳ごさいません。
私は全国幾つかの地域で「おもてなし武将隊」という観光目的の取り組みをやっておりますが、戦国期という時代はどうしても混乱が各地で起こり武力で諸問題を解決せざる得ないという時代でもあったと考えます。一方で奴隷や人身売買があったなかった、Aという権力者が無能であった悪かった。Bという権力者は有能だった或いは地元に愛された。という事で各地域の自慢として取り上げて祭り等の行事で盛り上げてます。観光分野と歴史学は別ものですが、後者の先生方は中立的な立場で一切そうした取り組みを中止するという表面はしてませんね。むしろ地元の過去の偉人として持ち上げ講演などをしている先生方もいます(逆の方もおりますが)し、観光行政をそれを利用しています。
理想としてはフラットな形で全国の戦国期の研究をしたり市民に啓蒙していくという穏やかなやり方がよいと思います。しかし、研究者の先生方もどちかと言えば地元の偉人もしくは尊敬する人物に忖度しそれに敵対する人物を陥れる論説や言論は第三者的に見て愚かな思考だと思います。
78: 11/20(水)01:11 ID:oqqQw2XZ(1) AAS
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