[過去ログ] 【19-20】中国地方のゲレンデ83 (1002レス)
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683: 2021/01/11(月)11:50 AAS
>>679
そのお望み通りの反応をしてやってるのに何が嵐だ?
684: 2021/01/11(月)11:50 AAS
>>679
お前ら九州土民は長崎のことを思い出せよ
685: 2021/01/11(月)11:51 AAS
>>679
福岡は原爆投下寸前で、その身代わりで長崎が原爆投下されたことを全く忘れて
原爆ネタを出しときゃいいと思ってる糞
686: 2021/01/11(月)11:52 AAS
>>679
糞の分際で、荒らしだのほざくな
687: 2021/01/11(月)11:53 AAS
>>680
さて、じゃあ九州に投下された原爆についての勉強を続けようか
688: 2021/01/11(月)11:54 AAS
>>680
近郊の病院などの救護隊が、夜には県下の警防団などで組織された救護隊がそれぞれ救護活動を開始し、県警が周辺県警などに救援隊派遣を要請した。救援列車は、夜半頃までの間、最初の列車を含めて4本が運転され、負傷者を諫早、大村、川棚、早岐方面の医療施設へ搬送した。
被爆者を使った人体実験
東京帝国大学が、1945年8月6日の広島と9日の長崎の原爆による被爆者を使って、戦後2年以上に渡り日本国憲法施行後も、あらゆる人体実験が実施されたことを、NHKが、2010年8月6日NHKスペシャル『封印された原爆報告書』にて調査報道した。 その報道の内容は次の通り[14][15]。
字幕:昭和20年8月6日、広島。昭和20年8月9日、長崎。
ナレーター:広島と長崎に相次いで投下された原子爆弾、その年だけで、合わせて20万人を超す人たちが亡くなりました。原爆投下直後、軍部によって始められた調査は、終戦と共に、その規模を一気に拡大します。国の大号令で全国の大学などから、1300人を超す医師や科学者たちが集まりました。調査は巨大な国家プロジェクトとなったのです。2年以上かけた調査の結果は、181冊。1万ページに及ぶ報告書にまとめられました。大半が、放射能によって被爆者の体にどのような症状が出るのか、調べた記録です。日本はその全てを英語に翻訳し、アメリカへと渡していました。
字幕:東京大学
省3
689: 2021/01/11(月)11:54 AAS
>>681
ナレーター:日本が国の粋を集めて行った原爆調査。参加した医師は、どのような思いで被曝者と向き合ったのか。山村秀夫さん90歳、都築教授が率いる東京帝国大学調査団の一員でした。当時、医学部を卒業して2年目の医師だった山村さん。調査は全てアメリカのためであり、被曝者のために行っている意識は無かったと言います。
山村さん:もういっさいだって、結果は日本で公表することももちろんダメだし、お互いに持ち寄って相談するということもできませんですから。とにかく自分たちで調べたら全部向こうに出すと。
ナレーター:山村さんが命じられたのは、被曝者を使ったある実験でした。報告書番号23、山村さんの論文です。被曝者にアドレナリンと言う血圧を上昇させるホルモンを注射し、その反応を調べていました。12人の内6人は、わずかな反応しか示さなかった。山村さんたちは、こうした治療とは関係のない検査を毎日行っていました。調べられることは全て行うのが、調査の方針だったと言います。
山村さん:生きてる人は生前にどういう変化を起こしているかということを、少しでも何かの手掛かりは見つけて、調べるということだけでしたから、それ以外何にもないですね。あんまり他のことも考えれなかったですね。とにかくそれだけやると。
NHKインタビュアー:今となってみたらどうお感じになりますか?そのことは。
省2
690: 2021/01/11(月)11:55 AAS
>>680
長崎原爆の遺跡・祈念碑・場所など
浦上天主堂跡に於ける慰霊祭(1945年11月23日)
長崎の鐘(後ろの建物は北九州市立中央図書館)
長崎市では被爆建物の保存よりも復興を優先的に実施したと言われている。そのため、浦上天主堂をはじめとする被爆建物のほとんどが取り壊され、原爆ドームのような被爆の状況を視覚的に理解できる遺構は極めて少ない。遺跡の文化財指定の機運が高まり、長崎原爆遺跡が2013年に国登録記念物、2016年に国史跡に指定された。
平和祈念像
平和公園
浦上天主堂
長崎市立城山小学校(爆心地付近の遺構として当時の建物の一部が保存されている。[1])
長崎原爆資料館
省3
691: 2021/01/11(月)11:55 AAS
>>681
北九州市(旧小倉市)の祈念碑
前述した通り、8月9日当時の原爆投下第一目標は当時の小倉市であった。しかし天候不順など様々な要因が偶発的に重なり、小倉市は原爆投下を免れ、第二目標の長崎市に落とされた。
戦後この事実が明らかにされた北九州市では、当初の予定通り小倉市へ原爆が投下された場合、目標とされていた旧小倉陸軍造兵廠跡地の勝山公園に祈念碑を立てた。その後長崎市から「長崎の鐘」が贈られ、毎年8月9日に原爆犠牲者慰霊平和祈念式典を行っている。
692(4): 645です 2021/01/11(月)12:05 AAS
サイオトどピーカンに晴れてます。
そんなにヒトも多くなく流しやすいです。
山頂まで上がるリフトが止まってしまって30分くらい宙吊り発生。予備電源でゆっくり上がって最終的にはクローズ。ノートラック頂いた後は上がらなかったので回避できました。
早めの昼すまして午後の部短めに混む前に脱出しますー。
693: 2021/01/11(月)12:07 AAS
>>692
日本人に放射能ネタで煽ってくるのはだいたいバ韓国人だけどね
694: 2021/01/11(月)12:08 AAS
>>692
長崎原爆をテーマとした作品
小説
井上光晴『地の群れ』1963
井上靖『城砦』1964
後藤みな子『刻を曳く』1971
佐多稲子『樹影』1972
林京子『祭りの場』1975
第73回芥川賞受賞作。自らも長崎原爆を取り扱った長編小説を執筆した選考委員の井上靖は、〈戦後三十年、漸くにして、このような作品が、芥川賞候補作として登場して来たといった、ある感慨があった〉と「祭りの場」を激賞した[16]。
林京子『ギヤマンビードロ』1977
省10
695: 2021/01/11(月)12:08 AAS
>>692
戯曲
田中千禾夫『マリアの首』1959
野田秀樹 『パンドラの鐘』 1999
松田正隆『涙の谷、銀河の丘』2003
詩集
山田かん『山田かん詩集』など
詩・福田須磨子、下田秀枝、筒井茅乃、香月クニ子、朗読 吉永小百合『第二楽章 長崎から』1999
歌集・句集
省13
696: 2021/01/11(月)12:09 AAS
>>692
絵本
葉祥明『あの夏の日』2000
写真集
土門拳、東松照明『hiroshima-nagasaki document』1961
東松照明『<11時02分>NAGASAKI 』1966
山端庸介『長崎ジャーニー・ 山端庸介写真集』1995
写真 山端庸介、林重男、松本栄一、H・Jピーターソンほか、長崎市編『被爆記録写真集』1996
TVドラマ
省9
697: 2021/01/11(月)12:11 AAS
これからも九州原爆の啓もうに努めるよ
698: 2021/01/11(月)12:20 AAS
0833 大阪ヘイト禁止条例委員会 2020/02/20 21:37:02
>>826-831、827、828
条例違反を確認した
0837 川崎差別書き込み禁止条例違反監視委員 2020/02/20 22:06:26
通報の内容確認しました。>>827-832
IP確認済み。
ところでこの黒歴史通り越して自殺案件の創作、どうするの?
699: 2021/01/11(月)12:33 AAS
赤ちゃんに白い斑点
2020年12月17日 掲載
長与村青年学校(当時)に通っていた。実家は長与の東高田にあり、畑があったので食べ物には困らなかった。学校以外はほとんどイモ作りなどの農作業を手伝っていた。
8月9日は、空襲警報が鳴っていたのに母と私はなめてかかっていた。「落ちてこんさ。上がろうか」と高台にある畑に向かった。だが他には誰も来ておらず、私と母の2人だけだった。
草取りを始めたところで、空いっぱい浮遊しているものに気付いた。白い棒状だったと思う。黙って見ていると突然、目がじりっとして、火が入ったような感じがした。気付くと、畑に立っていた私は吹き飛ばされ、横向きに倒れていた。それが原爆だった。
母はイモ釜にいて難を逃れ、幸い私もけがはなかった。辺りは真っ暗になり、高台だったのであちこちで火事になっているのが分かった。「帰っても家はなかかもしれんよ」。弱音を吐く母に私は「ここにいてどうすると」と言った。結局、午後3時ごろに畑を下ると、途中、道端の草も焼けていた。
実家は倒壊は免れたが、中の障子やふすまは倒れ、ボロボロになって押し入れから布団が飛び出ていた。時津の農協に勤めていた父は夕方帰宅。家の中にいた姉や妹弟たちは無事だった。
そこへ、原爆で負傷した母方の叔父家族が長崎市内から歩いて避難してきた。叔父は出征していて、留守を預かる叔母と、その3人の子どもだった。叔母は腕の骨を折り
700: 2021/01/11(月)12:36 AAS
実家は倒壊は免れたが、中の障子やふすまは倒れ、ボロボロになって押し入れから布団が飛び出ていた。時津の農協に勤めていた父は夕方帰宅。家の中にいた姉や妹弟たちは無事だった。
そこへ、原爆で負傷した母方の叔父家族が長崎市内から歩いて避難してきた。叔父は出征していて、留守を預かる叔母と、その3人の子どもだった。叔母は腕の骨を折り、4年生だった長男は体中やけどをしているのに、3歳の弟を背負い歩いてきたようだった。あれが真の兄弟の姿だろう。だが男の子3人は次々と死亡し、叔母もその後亡くなった。原爆前に実家に避難してきていればと悔やまれる。
臨時救護所となった長与国民学校(現在の町立長与小)には被爆直後から負傷者が多数運び込まれた。いつだったか1日だけ私も看病の手伝いに行ったが、講堂や教室には手や足のない人、背中にウジがわいている人もいて恐ろしかった。
その中に全身にやけどを負いながら出産した女性もいた。廊下に寝かせられた赤ちゃんにやけどはなかったが、指で押さえたような白っぽい斑点が胸や手足にあった。女性はあのやけどでお産もしたとは、さぞ苦しかっただろう。ミルクも行き届かない状況で親子がどうなったのか知る由もない。
山脇オルイさん(89)
被爆当時14歳 爆心地から3.3キロの長与村高田郷(当時)で被爆
私の被爆ノート
赤ちゃんに白い斑点
2020年12月17日 掲載
にあり、畑があったので食べ物には困らなかった。学校以外はほ
省12
701: 2021/01/11(月)13:09 AAS
>>682-689
俺は広島県民だ
スレチのコピペいつまでもならべてるから荒らしだと言っている
702: 2021/01/11(月)13:20 AAS
爺、暇そうだけど今日は滑りに行かないのか?
俺爺が滑りに行った話してるの見たことないぞ。
何の為にスス板にいるんだ。他に構ってくれる人いないのか?
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