[過去ログ] 【19-20】中国地方のゲレンデ83 (1002レス)
上下前次1-新
このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています。
次スレ検索 歴削→次スレ 栞削→次スレ 過去ログメニュー
703: 2021/01/11(月)14:08 AAS
負傷者 ぞろぞろと
2020年12月3日 掲載
父は出征し、祖父母と母、生後10カ月になる妹の5人で、山際にある上西山町に住んでいた。
8月9日。朝から暑さが厳しく、パンツ1枚の格好で、祖母と、畳の上に寝
かせた妹と窓際で涼んでいた。母は台所で昼食のそうめんをゆでていた。
突然、ピカーッとものすごい光が目を突き刺し、ドーンという音が耳をつ
んざいた。茶の間のガラス戸が吹き飛び、部屋に破片が飛び散った。台所に
いた母が「耳は大丈夫か」と幼い妹の元に叫びながら駆け付けた。声に反応して泣いたの
で、聞こえていると分かった。
夕方の光景は今でも強烈に覚えている。皮膚がめくれた人、顔から血が出た人、髪の毛
省17
704: 2021/01/11(月)14:09 AAS
苦しむ恩師救えず
2020年11月26日 掲載
旧制県立瓊浦中1年生だった。毎日、西彼福田村本村郷(現在の長
崎市福田本町)の自宅から片道2時間かけて、わら草履で通学していた。
あの日も、福田村の同級生ら6人と学校に向かった。現在の長崎市飽
の浦町と大浜町の境辺りで、ふと足を止めた。学校は6月から7月にかけて
機銃掃射をた。空を見上げると白い箱のようなものが二つ、空から浮かぶようにして
落ちていく。おそらく、原爆の威力を計測するために米軍が落としたラジオゾンデだった
のだろう。次の瞬間、紫と赤と黄色を混ぜたような異様な閃光(せんこう)が走った。
目と耳を手で覆い、とっさに泥道の地面に伏せた。爆音とともに、首から背
省14
705: 2021/01/11(月)14:23 AAS
いつも見てるぞ
706(4): 2021/01/11(月)14:28 AAS
ピカピカピカ・・ピカピッカー!
707: 2021/01/11(月)15:44 AAS
>>706
人の死を軽々しく願い待つとは汚らわしいことですね
そして2ちゃんでどこのだれかもわからない私の死を粛々と待つことと
あなたの現実の人生でのおとうさまの死をあなたが粛々とまち死を願っていたことをあなたが認識してしまった
ならば、汚らわしいのはあなたの心ではないですか?
お前にも何度も何度も人に死ねなどと呪ってはいけないと繰り返し繰り返し説いたのに
省6
708: 2021/01/11(月)15:44 AAS
>>706
あなたが私に
「死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね
死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね
死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね
死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね
死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね
死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね
死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね
死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね
省17
709: 2021/01/11(月)15:46 AAS
>>706
お前がぶつかって半身不随にした女の子だけどな
おまえの書き込みの開示請求してお前の身元を突き止めるってよ
それだけ人に人の死を軽々しく願い待つとは汚らわしいことですね
そして2ちゃんでどこのだれかもわからない私の死を粛々と待つことと
あなたの現実の人生でのおとうさまの死をあなたが粛々とまち死を願っていたことをあなたが認識してしまった
省8
710: 2021/01/11(月)15:47 AAS
>>706
私の被爆ノート
ラムネ瓶がぐにゃり
2020年11月5日 掲載
長崎市船蔵町(現在の宝町)で生まれ、1年生まで城山国民学校に通っていた。三菱電機長崎製作所で働いていた父が病気で亡くなり、戦況も厳しくなってきたので母の実家がある西彼村松村(現在の長崎市琴海地区)に引っ越した。その後、母の再婚を機に西彼三重村(同三重地区)に移り住み、1945年春から畝刈国民学校に通った。
8月9日、教室で授業を受けている時だった。窓の外がピカッと光ったかと思うと、爆風でガラスが吹き飛んだ。みんな慌てて机の下に隠れた。どのくらいの時間がたったかは覚えていない。しばらくすると先生が「急いで家に帰りなさい」と言った。腕や顔にけがをした同級生もいたが、みんな無事だった。
自宅に帰ると、玄関の戸や障子が吹き飛んでいた。辺りを捜してみたが、父も母もいない。不安なまま待っていると、兄が学校から帰ってきた。兄と一緒に隣の家を訪ねてみると、父と母が避難していた。父の話では、爆風で吹き飛ばされた戸の下敷きになっていたところを、隣の住民に助けてもらったという。
1週間ほどして、両親と一緒に長崎市内の様子を見くの病気に悩まされた。ただ、原爆のせいにはしたくなかった。意地というか、認めたくなかったのもある。
当時の同級生とは今でも仲が良く、集まって食事会をするが、昔の話をすることはほとんどなくなった。2人の子どもと4人の孫に囲まれ、食べ物もなかった戦中と比べるととてもぜいたくな暮らし。孫が小学生ぐらいのころ、戦争の話を聞きに来た。平和学習の一環だったのだろう。原爆のことだけでなく、何度も空襲があったことを教えた。興味深く聞いてくれたことがうれしかった。
<私の願い>
省1
711: 2021/01/11(月)16:34 AAS
つまんね
712: 2021/01/11(月)17:56 AAS
爺ってポケモンと会話できるんだな。
713: 2021/01/11(月)18:18 AAS
で?
0833 大阪ヘイト禁止条例委員会 2020/02/20 21:37:02
>>826-831、827、828
条例違反を確認した
0837 川崎差別書き込み禁止条例違反監視委員 2020/02/20 22:06:26
通報の内容確認しました。>>827-832
IP確認済み。
この黒歴史は永久に消えない訳なんだけどどんな気持ちなの?
714(1): 2021/01/11(月)19:33 AAS
苦しむ恩師救えず
2020年11月26日 掲載
旧制県立瓊浦中1年生だった。毎日、西彼福田村本村郷(現在の長崎
市福田本町)の自宅から片道2時間かけて、わら草履で通学していた。
あの日も、福田村の同級生ら6人と学校に向かった。現在の長崎市飽
の浦町と大浜町の境辺りで、ふと足を止めた。学校は6月から7月にかけ
て機銃掃射を受けたり、グラウンドに爆弾を落とされたりして、直径約15メ
ートルの大穴が開いた。また攻撃されるのでは−。そんな恐怖心から同級生と冗談話をして気を紛らわせた。
時間がたっていた。「いまさら学校へ行っても意味ない。帰ろうか」。同級
生にそう声を掛け、家に戻ろうとした時、「キーン」と耳なじみのあるB29のエン
省12
715: 2021/01/11(月)21:02 AAS
爺は都合が悪くなるとすぐそうやって誤魔化す。
716: 2021/01/11(月)21:20 AAS
>>714
晩御飯の時間だったかな?
連投とまってたから…
寒い日続くし、体調気をつけてね!
717(1): 2021/01/11(月)22:35 AAS
ピィカ、ピィカ
718: 2021/01/11(月)22:51 AAS
赤黒い空 鮮明に
2020年9月24日 掲載
防空壕(ごう)から見える赤黒い空。大人になってから何度も夢に現れた光景だ。当時は5歳とまだ幼かったが、その記憶は鮮明に残っている。
物心がついたころには戦争が始まっていた。父は従軍し、母と妹と3人で、長崎市街を見下ろす中新町の長屋で暮らした。疎開のために遠くまで歩いたり、爆音におびえたりと怖い記憶ばかりだ。
晴天だったあの日は、近所のお兄ちゃんの家中にいた。自宅近くにも防空壕はあったが、入り口が爆心地の方角を向いていたため、恐らく風下へ逃げる周囲の人たちと一緒に走ったのだろう。ただ、その間の記憶はない。自宅には母と妹がいたはずだった。異様な臭いが立ち込め、けがをしてうなる人や、激しく呼吸する人もいた。そうした見知らぬ人に囲まれ、「これからどうすればいいのか」と不安に駆られた。
「孝はどこに行ったとやろか」。なじみのある声が聞こえた。入り口に出てみると、妹をおぶった母が立っていた。母の姿を認識した瞬間、「母ちゃん」と叫んですがりついた。緊張から解き放たれたのだろう、安心して涙が出てきた。最寄りの防空壕ではないのに、再会できたのは今思えばドラマのようだった。外を眺めると、空は炎と雲で赤黒く染まっていた。
数時間後、自宅に帰るとたんすなどの家具が倒れ、物が散乱していた。「危なかけん、土足で上がって」と母に言われ、室内に入ると、縁側から見える景色に目を疑った。県庁など市街地のあちこちから火の手と煙が立ち上っていた。普段なら浦上方面も眺められたが、その時は全体的に煙っていて何も見えなかった。原爆が浦上に落ちたという事実は後で知った。
定年退職後、「記憶をなくさないうちに」と、町並みや防空壕の様子など当時の光景を絵に描いた。あの赤黒い空を思い出しながらよみがえった感情は、絶望感よりも母に会えた喜びだった。あの時の母は女神のようだった。
<私の願い>
戦争は自分の意思とは関係なく、殺人をしないといけない。子孫の代で戦争が起きれば人類の破滅につながるだろう。知恵のある人類が、なぜ自分たちの首を絞めるようなことをするのか。口論は結構だが、武力に頼ってはいけない。
719: 2021/01/11(月)23:38 AAS
大谷育江
720: 2021/01/12(火)13:22 AAS
週末にサイオトに行こうと思っているが
今日はメダリストが動いてない
平日だから?
721: 2021/01/12(火)13:31 AAS
さて、それでは引き続き九州土人に九州原爆について教えてやろう。
722: 2021/01/12(火)13:31 AAS
私の被爆ノート
あと1歩遅れたら
2020年10月22日 掲載
8月9日朝、私は自宅でまき割りの手伝いをしていた。一度、空襲警報が鳴って防空壕(ごう)に避難したが解除になった。その後、近くの西坂国民学校で飼っていたウサギの餌やり当番のため学校に行った。
その帰り道、背後で飛行機のごう音がした。振り返ると、稲佐山の上に落下傘が三つ、風に漂っていた。「何やろか」。五つ年上の兄と行方を目で追っていると、学校の先輩3人が「カボチャの配給があるぞ」と知らせに来てくれた。早く父に伝えたくて兄と急いで自宅に向かった。
私が先に玄関へ1歩入った瞬間、オレンジ色の光と爆風が体を包み、家の中に5、6メートル飛ばされた。5分ほどたって意識が戻り外に出ると、兄がうずくまっていた。上半身をやけどし真っ赤だった。
配給を知らせた3人のうち、近くの石垣を通り過ぎで当たった手ぬぐいをもらいに「行ってくるけん」と元気に出掛けて行ったのに、畑の隅に横たわる友は人の姿をしていなかった。目、鼻、口はふさがり、頭と脚の骨が見えていた。小さい声で「水、水、水」と訴えていたが、何もできなかった。11日朝、11歳でこの世を去った。
近所には、無傷で帰宅したのに髪が抜け、体一面に紫色の斑点が出て、8月末に亡くなった人がいた。上半身にやけどを負った兄も苦しんだ末、7年後に人生を終えた。
私にも紫色の斑点が出て「これでしまいかな」と思った。それでも生き延びたのは、放射能が致死量に達していなかったからだろう。配給の知らせがなければ私は家に急いでいないし、あと1歩、あと100分の1秒、玄関に入るのが遅れていたら、命はなかった。
<私の願い>
省1
上下前次1-新書関写板覧索設栞歴
あと 280 レスあります
スレ情報 赤レス抽出 画像レス抽出 歴の未読スレ AAサムネイル
ぬこの手 ぬこTOP 0.016s