[過去ログ] 【19-20】中国地方のゲレンデ83 (1002レス)
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699: 2021/01/11(月)12:33 AAS
赤ちゃんに白い斑点
2020年12月17日 掲載

 長与村青年学校(当時)に通っていた。実家は長与の東高田にあり、畑があったので食べ物には困らなかった。学校以外はほとんどイモ作りなどの農作業を手伝っていた。
 8月9日は、空襲警報が鳴っていたのに母と私はなめてかかっていた。「落ちてこんさ。上がろうか」と高台にある畑に向かった。だが他には誰も来ておらず、私と母の2人だけだった。
 草取りを始めたところで、空いっぱい浮遊しているものに気付いた。白い棒状だったと思う。黙って見ていると突然、目がじりっとして、火が入ったような感じがした。気付くと、畑に立っていた私は吹き飛ばされ、横向きに倒れていた。それが原爆だった。
 母はイモ釜にいて難を逃れ、幸い私もけがはなかった。辺りは真っ暗になり、高台だったのであちこちで火事になっているのが分かった。「帰っても家はなかかもしれんよ」。弱音を吐く母に私は「ここにいてどうすると」と言った。結局、午後3時ごろに畑を下ると、途中、道端の草も焼けていた。
 実家は倒壊は免れたが、中の障子やふすまは倒れ、ボロボロになって押し入れから布団が飛び出ていた。時津の農協に勤めていた父は夕方帰宅。家の中にいた姉や妹弟たちは無事だった。
 そこへ、原爆で負傷した母方の叔父家族が長崎市内から歩いて避難してきた。叔父は出征していて、留守を預かる叔母と、その3人の子どもだった。叔母は腕の骨を折り
700: 2021/01/11(月)12:36 AAS
実家は倒壊は免れたが、中の障子やふすまは倒れ、ボロボロになって押し入れから布団が飛び出ていた。時津の農協に勤めていた父は夕方帰宅。家の中にいた姉や妹弟たちは無事だった。
 そこへ、原爆で負傷した母方の叔父家族が長崎市内から歩いて避難してきた。叔父は出征していて、留守を預かる叔母と、その3人の子どもだった。叔母は腕の骨を折り、4年生だった長男は体中やけどをしているのに、3歳の弟を背負い歩いてきたようだった。あれが真の兄弟の姿だろう。だが男の子3人は次々と死亡し、叔母もその後亡くなった。原爆前に実家に避難してきていればと悔やまれる。
 臨時救護所となった長与国民学校(現在の町立長与小)には被爆直後から負傷者が多数運び込まれた。いつだったか1日だけ私も看病の手伝いに行ったが、講堂や教室には手や足のない人、背中にウジがわいている人もいて恐ろしかった。
 その中に全身にやけどを負いながら出産した女性もいた。廊下に寝かせられた赤ちゃんにやけどはなかったが、指で押さえたような白っぽい斑点が胸や手足にあった。女性はあのやけどでお産もしたとは、さぞ苦しかっただろう。ミルクも行き届かない状況で親子がどうなったのか知る由もない。
山脇オルイさん(89)
被爆当時14歳 爆心地から3.3キロの長与村高田郷(当時)で被爆

私の被爆ノート
赤ちゃんに白い斑点
2020年12月17日 掲載
にあり、畑があったので食べ物には困らなかった。学校以外はほ
省12
701: 2021/01/11(月)13:09 AAS
>>682-689
俺は広島県民だ
スレチのコピペいつまでもならべてるから荒らしだと言っている
702: 2021/01/11(月)13:20 AAS
爺、暇そうだけど今日は滑りに行かないのか?
俺爺が滑りに行った話してるの見たことないぞ。
何の為にスス板にいるんだ。他に構ってくれる人いないのか?
703: 2021/01/11(月)14:08 AAS
負傷者 ぞろぞろと
2020年12月3日 掲載

 父は出征し、祖父母と母、生後10カ月になる妹の5人で、山際にある上西山町に住んでいた。
 8月9日。朝から暑さが厳しく、パンツ1枚の格好で、祖母と、畳の上に寝
かせた妹と窓際で涼んでいた。母は台所で昼食のそうめんをゆでていた。
 突然、ピカーッとものすごい光が目を突き刺し、ドーンという音が耳をつ
んざいた。茶の間のガラス戸が吹き飛び、部屋に破片が飛び散った。台所に
いた母が「耳は大丈夫か」と幼い妹の元に叫びながら駆け付けた。声に反応して泣いたの
で、聞こえていると分かった。
 夕方の光景は今でも強烈に覚えている。皮膚がめくれた人、顔から血が出た人、髪の毛
省17
704: 2021/01/11(月)14:09 AAS
苦しむ恩師救えず
2020年11月26日 掲載

 旧制県立瓊浦中1年生だった。毎日、西彼福田村本村郷(現在の長
崎市福田本町)の自宅から片道2時間かけて、わら草履で通学していた。
 あの日も、福田村の同級生ら6人と学校に向かった。現在の長崎市飽
の浦町と大浜町の境辺りで、ふと足を止めた。学校は6月から7月にかけて
機銃掃射をた。空を見上げると白い箱のようなものが二つ、空から浮かぶようにして
落ちていく。おそらく、原爆の威力を計測するために米軍が落としたラジオゾンデだった
のだろう。次の瞬間、紫と赤と黄色を混ぜたような異様な閃光(せんこう)が走った。
 目と耳を手で覆い、とっさに泥道の地面に伏せた。爆音とともに、首から背
省14
705: 2021/01/11(月)14:23 AAS
いつも見てるぞ
706
(4): 2021/01/11(月)14:28 AAS
ピカピカピカ・・ピカピッカー!
707: 2021/01/11(月)15:44 AAS
>>706
人の死を軽々しく願い待つとは汚らわしいことですね

そして2ちゃんでどこのだれかもわからない私の死を粛々と待つことと

あなたの現実の人生でのおとうさまの死をあなたが粛々とまち死を願っていたことをあなたが認識してしまった

ならば、汚らわしいのはあなたの心ではないですか?

お前にも何度も何度も人に死ねなどと呪ってはいけないと繰り返し繰り返し説いたのに
省6
708: 2021/01/11(月)15:44 AAS
>>706
あなたが私に

「死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね
死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね
死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね
死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね
死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね
死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね
死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね
死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね
省17
709: 2021/01/11(月)15:46 AAS
>>706
お前がぶつかって半身不随にした女の子だけどな

おまえの書き込みの開示請求してお前の身元を突き止めるってよ

それだけ人に人の死を軽々しく願い待つとは汚らわしいことですね

そして2ちゃんでどこのだれかもわからない私の死を粛々と待つことと

あなたの現実の人生でのおとうさまの死をあなたが粛々とまち死を願っていたことをあなたが認識してしまった
省8
710: 2021/01/11(月)15:47 AAS
>>706
私の被爆ノート
ラムネ瓶がぐにゃり
2020年11月5日 掲載

 長崎市船蔵町(現在の宝町)で生まれ、1年生まで城山国民学校に通っていた。三菱電機長崎製作所で働いていた父が病気で亡くなり、戦況も厳しくなってきたので母の実家がある西彼村松村(現在の長崎市琴海地区)に引っ越した。その後、母の再婚を機に西彼三重村(同三重地区)に移り住み、1945年春から畝刈国民学校に通った。
 8月9日、教室で授業を受けている時だった。窓の外がピカッと光ったかと思うと、爆風でガラスが吹き飛んだ。みんな慌てて机の下に隠れた。どのくらいの時間がたったかは覚えていない。しばらくすると先生が「急いで家に帰りなさい」と言った。腕や顔にけがをした同級生もいたが、みんな無事だった。
 自宅に帰ると、玄関の戸や障子が吹き飛んでいた。辺りを捜してみたが、父も母もいない。不安なまま待っていると、兄が学校から帰ってきた。兄と一緒に隣の家を訪ねてみると、父と母が避難していた。父の話では、爆風で吹き飛ばされた戸の下敷きになっていたところを、隣の住民に助けてもらったという。
 1週間ほどして、両親と一緒に長崎市内の様子を見くの病気に悩まされた。ただ、原爆のせいにはしたくなかった。意地というか、認めたくなかったのもある。

 当時の同級生とは今でも仲が良く、集まって食事会をするが、昔の話をすることはほとんどなくなった。2人の子どもと4人の孫に囲まれ、食べ物もなかった戦中と比べるととてもぜいたくな暮らし。孫が小学生ぐらいのころ、戦争の話を聞きに来た。平和学習の一環だったのだろう。原爆のことだけでなく、何度も空襲があったことを教えた。興味深く聞いてくれたことがうれしかった。

<私の願い>
省1
711: 2021/01/11(月)16:34 AAS
つまんね
712: 2021/01/11(月)17:56 AAS
爺ってポケモンと会話できるんだな。
713: 2021/01/11(月)18:18 AAS
で?

0833 大阪ヘイト禁止条例委員会 2020/02/20 21:37:02
>>826-831、827、828

条例違反を確認した

0837 川崎差別書き込み禁止条例違反監視委員 2020/02/20 22:06:26
通報の内容確認しました。>>827-832
IP確認済み。

この黒歴史は永久に消えない訳なんだけどどんな気持ちなの?
714
(1): 2021/01/11(月)19:33 AAS
苦しむ恩師救えず
2020年11月26日 掲載

 旧制県立瓊浦中1年生だった。毎日、西彼福田村本村郷(現在の長崎
市福田本町)の自宅から片道2時間かけて、わら草履で通学していた。
 あの日も、福田村の同級生ら6人と学校に向かった。現在の長崎市飽
の浦町と大浜町の境辺りで、ふと足を止めた。学校は6月から7月にかけ
て機銃掃射を受けたり、グラウンドに爆弾を落とされたりして、直径約15メ
ートルの大穴が開いた。また攻撃されるのでは−。そんな恐怖心から同級生と冗談話をして気を紛らわせた。
 時間がたっていた。「いまさら学校へ行っても意味ない。帰ろうか」。同級
生にそう声を掛け、家に戻ろうとした時、「キーン」と耳なじみのあるB29のエン
省12
715: 2021/01/11(月)21:02 AAS
爺は都合が悪くなるとすぐそうやって誤魔化す。
716: 2021/01/11(月)21:20 AAS
>>714
晩御飯の時間だったかな?
連投とまってたから…
寒い日続くし、体調気をつけてね!
717
(1): 2021/01/11(月)22:35 AAS
ピィカ、ピィカ
718: 2021/01/11(月)22:51 AAS
赤黒い空 鮮明に
2020年9月24日 掲載

 防空壕(ごう)から見える赤黒い空。大人になってから何度も夢に現れた光景だ。当時は5歳とまだ幼かったが、その記憶は鮮明に残っている。
 物心がついたころには戦争が始まっていた。父は従軍し、母と妹と3人で、長崎市街を見下ろす中新町の長屋で暮らした。疎開のために遠くまで歩いたり、爆音におびえたりと怖い記憶ばかりだ。
 晴天だったあの日は、近所のお兄ちゃんの家中にいた。自宅近くにも防空壕はあったが、入り口が爆心地の方角を向いていたため、恐らく風下へ逃げる周囲の人たちと一緒に走ったのだろう。ただ、その間の記憶はない。自宅には母と妹がいたはずだった。異様な臭いが立ち込め、けがをしてうなる人や、激しく呼吸する人もいた。そうした見知らぬ人に囲まれ、「これからどうすればいいのか」と不安に駆られた。
 「孝はどこに行ったとやろか」。なじみのある声が聞こえた。入り口に出てみると、妹をおぶった母が立っていた。母の姿を認識した瞬間、「母ちゃん」と叫んですがりついた。緊張から解き放たれたのだろう、安心して涙が出てきた。最寄りの防空壕ではないのに、再会できたのは今思えばドラマのようだった。外を眺めると、空は炎と雲で赤黒く染まっていた。
 数時間後、自宅に帰るとたんすなどの家具が倒れ、物が散乱していた。「危なかけん、土足で上がって」と母に言われ、室内に入ると、縁側から見える景色に目を疑った。県庁など市街地のあちこちから火の手と煙が立ち上っていた。普段なら浦上方面も眺められたが、その時は全体的に煙っていて何も見えなかった。原爆が浦上に落ちたという事実は後で知った。
 定年退職後、「記憶をなくさないうちに」と、町並みや防空壕の様子など当時の光景を絵に描いた。あの赤黒い空を思い出しながらよみがえった感情は、絶望感よりも母に会えた喜びだった。あの時の母は女神のようだった。

<私の願い>

 戦争は自分の意思とは関係なく、殺人をしないといけない。子孫の代で戦争が起きれば人類の破滅につながるだろう。知恵のある人類が、なぜ自分たちの首を絞めるようなことをするのか。口論は結構だが、武力に頼ってはいけない。
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