[過去ログ] 文学部 邪馬台国畿内説 (742レス)
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496: 2021/05/08(土)19:01 ID:PjdfBHwc(1) AAS
魏志倭人伝には
会稽東治(かいけいとうち)の東に邪馬壱国が在るとされている。 九州内だ。
497: 2021/05/12(水)10:23 ID:QSYET95F(1) AAS
中国の学者が読んでも九州内だった。
498: 2021/05/13(木)11:16 ID:h2STA/G6(1/3) AAS
自説の根拠・証拠をうやむやにして、おまいの説の根拠は、証拠は・・、というばかり。
つまり、畿内説も北部九州(福岡)説も、どっちも確たる根拠・証拠を持たない証拠だな、、。
499: 2021/05/13(木)18:23 ID:h2STA/G6(2/3) AAS
587 名前:日本@名無史さん 2021/05/13(木) 12:15:39.59
>>585
>そもそも魏志倭人伝の方角に関する記述がいい加減なら
>なんで「東を南と勘違いした」という勘違いになるのか?
なるほど、ごもっとも!
500: 2021/05/13(木)21:27 ID:h2STA/G6(3/3) AAS
記述の間違いを根拠に成した説も、これまた間違い也
501: 2021/05/15(土)15:33 ID:nTaconkR(1) AAS
あっちの619
>近代史学では内藤虎次郎氏とその後継者たちは
>原文の南を東にまげて
>近畿説を主張する
まさに、虎の威を借る 近畿キツネ、、、
502: 2021/05/17(月)08:46 ID:c+Z2VOWj(1/4) AAS
虎次郎の時代、1000年のみやこ京都には、まだ格別の権威が有ったのだろう。
明治維新の際、天皇は、ちょっくら江戸へいってくる・・、といって東京へ出かけたそうだから、
虎は、「まだまだ京都は日本の中心で、もちろん京都帝国大学は別格最高の存在だ。新参の東夷のT大の某なんぞ目じゃないわ・・、」
と、内心思っていたのではないか。
それが、「南は東の間違いで間違いないのだーーー、」という手っ取り早い言葉になってしまったと推測する、、、
503: 2021/05/17(月)13:04 ID:c+Z2VOWj(2/4) AAS
で、間違いの原文を根拠に、原文の間違いを修正したのだそうだ!?
504: 2021/05/17(月)13:27 ID:c+Z2VOWj(3/4) AAS
うん、けっきょくは、
「ボクちゃん、適当に見繕ってやったぜーーー、」ってことなんじゃないの、、。
505: 2021/05/17(月)14:34 ID:c+Z2VOWj(4/4) AAS
そういうことだ、その他の行程の、
末盧国の東南に伊都国、伊都国の東南に奴国、同じく伊都国の東に不彌国有りは正しい記述というのであるならば、
その記述通り進めば、不彌国は吉野ヶ里一帯となる。
その不彌国・吉野ヶ里の東に水行10日陸行1月して女王国有りとは、なんと魔訶不思議な解釈。
506: 2021/05/18(火)07:43 ID:abxf3RVL(1) AAS
つまり、千年の都の最高学府・京都帝国大学に抗し始めた新参の東京帝国大学文学部に対して、
誇りと焦りを感じていた虎次郎が、負けてなるかと、吼え立てまくったって感じじゃなかったのかなあ、、、
507: 2021/05/24(月)07:41 ID:A7wj4qBu(1/2) AAS
現実の寅次郎の頭の大半を占めていたのは、実は古代魏王朝ではなくて、眼前の清王朝だったのだろう・・、
508(1): 2021/05/24(月)18:03 ID:A7wj4qBu(2/2) AAS
あっちの334 名前:日本@名無史さん 2021/05/24(月) 16:49:14.39
>不弥国は現在の糟屋郡宇美町付近で間違いない、宇美八幡宮や
>神功皇后伝説もあるし福岡で二番目に古い光正寺古墳もある、、、
「神功皇后伝説がある・・」ということ自体が、大和朝廷の後付け工作を明確に語っているのだが、そんなのに引っかかっちゃうのかねえ(涙
509: 2021/05/28(金)09:42 ID:Gnav0D59(1) AAS
「九州説には、根拠や証拠がない・・」と言い続ける畿内説の心理を推し測ると、
「畿内説は99.9%ダメなんだけど、かといって九州に確たる証拠が出たわけではない。だから、0.1%と言えど、まだ望みは残されている・・」
と思いたいんだろうなあ。
察するに卑弥呼の墓は、日向のさる高名な神社のご神体山として、あまたの神官により守られており、千年たっても物証的には明らかにならない。
さすれば、東夷倭人伝が語る地理・地誌から見て最も合理的な、佐賀川上の伊都国と吉野ヶ里・不彌国の発掘に依るほかないであろう。
その吉野ヶ里では、丘陵中央の高殿にあった「集落社・日吉宮」の移転が完了し、新たな発掘が行われるらしい。
ここで、二世紀後半〜三世紀前半(の不彌国)につながる発掘が有れば、
次は、伝・クマソタケルの屋敷跡である大和町川上の「伊都国跡」という流れになるであろう。(その時こそが、楽しみである・・)
510: 2021/06/04(金)08:35 ID:WIuuFa7I(1/3) AAS
此のところのニュー速+を詠んだ感想
結局、女王国の読み方が扁平単純なため、陳寿の意図を理解できず迷路に入っているとみた。
(倭人伝前編・・・共立前)
陳寿は、前編では邪馬台国1国(7万戸)を統べる女王卑弥呼について書いている。所都は邪馬台国内のどこかだった。
其の以北には、対海国〜不彌国までの6国が有り、その他21国は国名以外の詳細不明。
つまり、この時点まで卑弥呼は邪馬台国1国のみの女王であったから、前編に於ける「女王国」とは邪馬台国1国のことである。
(倭人伝後編・・・共立後)
200年ごろ、倭の30国による共立話がまとまって、卑弥呼は倭国の女王に昇任した。
この時点で邪馬台国の後継長は、他国に倣い官となったはず。なお女王の都は、従前の地のままだったであろう。
依って、この共立記事以降の後編においては、倭30国が卑弥呼を戴く「女王国」と記述されている。これが陳寿の定義である。
省3
511: 2021/06/04(金)11:08 ID:WIuuFa7I(2/3) AAS
で、くだんの筑紫平野・邪馬台国連合論であるが、
其の心底に、前編後編を通じて「邪馬台国=女王国」の固定観念が強固に存在すると見た。
だから、対馬ー壱岐ー唐津末盧国ー糸島イトコクー博多ナ国ー宇美フミ国が、
まさか女王の邪馬台国傘下とは、旧知の考古学者の意見も忖度するとどう考えても受け入れがたいので別枠枠外とし、
残りの投馬国・邪馬台国とその他21傍国が筑紫平野に有って邪馬台国女王連合を結成し、帯方郡に遣いを出して親魏倭王の栄を得たとの考えなのであろう。
512(1): 2021/06/04(金)18:50 ID:WIuuFa7I(3/3) AAS
つまり畿内説と全く同様の、対馬(南)ー壱岐(同)ー唐津末盧国(北東)ー糸島イトコク(東)ー博多ナ国(東)ー宇美フミ国までの
陸行行程は不動の鉄板とし、
その宇美の南至るの邪馬台国に関しては、
古田は大宰府かもと言い、安本はもっと南の朝倉だと言い、井上筑前は更に南の筑後大平野だと言い、
そして今回の片岡某先生は、いやいや筑後に佐賀を加えた筑紫平野こそ邪馬台国連合であった、とジリジリ南下しつつ風呂敷を広げてきているわけだ。
ま、倭人伝や、魏略や、廣志の「唐津からは東南へ進路をとれ!」という貴重な指示を無視してかかっては、
極南界の海に落ちるまで範囲地域を広げても正解にはたどり着けまい、、。
513: 2021/06/05(土)11:30 ID:HKpvhSm9(1) AAS
古代中国の三大史書、倭人伝、魏略、廣志は、「倭の末盧国(唐津)へ上陸したら、東南へ進路をとれ!」と記している。
唐津の東南500里は佐賀川上の伊都国、その東南奴国は佐賀市街、同伊都国の東100里の不彌国は吉野ヶ里/目達原一帯となる。
これ則ち古代中国史書に則った「正統の佐賀ルート」である。
これに抗し、唐津末盧国から北東へ、ー 糸島イトコク ー 博多ナ国 ー 宇美フミ国 へと進んだ道は、
八世紀大和朝廷の役人が匂わせた神功皇后の足跡をなぞったにすぎない。いうなれば「神功皇后ルート」というべき代物である。
つまり唐津から北東へ向かった者たちは、中国古典を蹴っ飛ばして、「卑弥呼は、神功皇后だー」と叫んでいることになるのである。
514: 2021/06/06(日)08:15 ID:T8H//26a(1) AAS
中国三大古典は、唐津東南と言っている。
東南佐賀ルートは、女王卑弥呼の都への道
北東・糸島への神功皇后ルートは、人生を虚しくする無駄骨の道・・・、
515(1): 2021/06/07(月)08:32 ID:UuxtSSPU(1) AAS
若き日の新井白石は、卑弥呼は神功皇后なりと信じていた。だから北東への「神功皇后ルート」を唱えた。
それが尾を引き今なお北東信仰の根拠になっている、悲しきことだが、ただそれだけのこと・・・、
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