[過去ログ]
文学部 邪馬台国畿内説 (742レス)
上
下
前
次
1-
新
このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています。
次スレ検索
歴削→次スレ
栞削→次スレ
過去ログメニュー
321
: 2021/04/17(土)00:26
ID:DJa+32yB(1)
AA×
>>55
[240|
320
|
480
|
600
|
100%
|
JPG
|
べ
|
レス栞
|
レス消
]
321: [] 2021/04/17(土) 00:26:52.79 ID:DJa+32yB >>55 概ね賛成です。 江戸末期に鈴木真年氏(後に東大教授になった)に拠って収集され、 国立国会図書館と静嘉堂に保存された「松野氏姫氏系図」の一つには、 姫氏の呉王夫差の遺民が火の国山門に渡来し、しばらくしてそれから、 その一部が委奴の地に移って天孫族系の阿毎氏と合同して、 更にまた、しばらくしてそれからまた一部が大野の地に移り、委奴國王や帥升らを輩出した後、 卑弥呼や壹與(卑弥呼の3代後の「市鹿文」)の名前が記録され、その後、玉垂命のような名前(倭王旨?)があり、 その後、倭の五王の名前があって「東海姫氏國=倭國」とよばれ、 倭王武の次に「倭國王哲」の名前があった後、 突然「倭王」の文字が消えて臣下になったようで、それが丁度磐井の出現時期と一致しており、 磐井は、半島や宇佐方面の出で、大和のヲホド(継体と贈り名?)の物部軍の倒されて、 それを継いだ葛子の王家からタリシホコが「阿毎」氏であるから、磐井も(姫氏ではなく)阿毎氏であった事になり、 大和の(糟屋の屯倉を獲得した)ヲホドの後継者の安閑や宣化は、九州倭國の執政的な地位や施政を実行しており、 更に欽明や推古は筑紫に「宮」を持って九州倭國の王家や太宰や執政にもなっており、 新唐書や(釈日本紀紹介の)延喜講記に拠れば、大和王の欽明が梁にコンタクトを付け、 「次用明,亦曰目多利思比孤,直隋開皇末,始與中國通」で大和の小野妹子が、 隋の文帝に「日本国」名を名乗ったが、受け入れられず、 唐の「武徳中」になって始めて「日本国」名を承認されたんですよ。 http://rio2016.5ch.net/test/read.cgi/student/1617076685/321
概ね賛成です 江戸末期に鈴木真年氏後に東大教授になったに拠って収集され 国立国会図書館と静嘉堂に保存された松野氏姫氏系図の一つには 姫氏の呉王夫差の遺民が火の国山門に渡来ししばらくしてそれから その一部が委奴の地に移って天孫族系の阿毎氏と合同して 更にまたしばらくしてそれからまた一部が大野の地に移り委奴王や帥升らを輩出した後 卑弥呼や卑弥呼の3代後の市鹿文の名前が記録されその後玉垂命のような名前倭王旨?があり その後倭の五王の名前があって東海姫氏倭とよばれ 倭王武の次に倭王哲の名前があった後 突然倭王の文字が消えて臣下になったようでそれが丁度磐井の出現時期と一致しており 磐井は半島や宇佐方面の出で大和のヲホド継体と贈り名?の物部軍の倒されて それを継いだ葛子の王家からタリシホコが阿毎氏であるから磐井も姫氏ではなく阿毎氏であった事になり 大和の糟屋の屯倉を獲得したヲホドの後継者の安閑や宣化は九州倭の執政的な地位や施政を実行しており 更に欽明や推古は筑紫に宮を持って九州倭の王家や太宰や執政にもなっており 新唐書や釈日本紀紹介の延喜講記に拠れば大和王の欽明が梁にコンタクトを付け 次用明亦目多利思比孤直開皇末始中通で大和の小野妹子が の文帝に日本国名を名乗ったが受け入れられず 唐の武徳中になって始めて日本国名を承認されたんですよ
上
下
前
次
1-
新
書
関
写
板
覧
索
設
栞
歴
あと 421 レスあります
スレ情報
赤レス抽出
画像レス抽出
歴の未読スレ
AAサムネイル
ぬこの手
ぬこTOP
0.053s