[過去ログ] 生きるために食べよ食べるために生きるな (11レス)
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1: 2023/05/16(火)07:11 ID:OY5UmXcp0(1) AAS
このまま吸血馬のパワーにふみ潰される確立90%、残るは馬の左に身をかわす確立5%、右に身をかわす確立5%
2: 2023/07/09(日)09:33 ID:bOHa0TW70(1) AAS
失敗しなくちゃ成功はしない
3: 2023/07/12(水)19:39 ID:AApGezaU0(1/6) AAS
?・・・・陰間と衆道
奈良・平安時代には仏教の広まりとともに、寺院での男色もかなり広まったと考えら
れている。奈良時代には貴族の子弟が寺院に入り、僧の身の回りの世話などをすること
が制度として確立した。男色の対象とされた少年達は、元々は稚児として、寺に入った
者ら達である。彼らは有髪の少年は寺稚児、垂髪、渇食などと呼ばれた。こうした稚児
を寵愛する風習は、奈良時代以降から、かなり仏教界に広まっていた。天台宗などでは
僧と稚児の初夜の前に行われる「稚児灌頂(ちごかんじょう)」という儀式があった。
稲垣足穂『少年愛の美学』に詳しくかく。灌頂を受けた稚児は観音菩薩の化身とされ、
僧侶は、灌頂を受けた稚児とのみ性交が許された。寺社内での男色を知る貴重な資料に
、平安時代に成立したとされ、稚児灌頂について記された『弘児聖教秘伝』や、大分後
省14
4: 2023/07/12(水)19:40 ID:AApGezaU0(2/6) AAS
?・・・・陰間と衆道
その後、平安末期には武士社会は台頭していたが、中世室町時代には武士の間で男色
が盛んになり、その主従関係の価値観と重ね合わせられた。後にこの関係は「衆道」と
呼ばれた(後述)。三代将軍・足利義満は、能役者の世阿弥が少年だった頃、彼を寵愛
したようだ。この二人の男色関係は、芸能の発展において多大な影響を与えたとされて
いる。また六代将軍・足利義教は、赤松貞村という武士を愛して領地を加増した。その
後、同族の赤松満祐に これを不満に思われたことも理由の一つとなり、義教は、暗殺
された。八代将軍・足利義政は有馬持家、烏丸資任ら寵童を側に置いた。その他の武士
にも男色を風雅の道として行う者がいた。この時代に成立した能や狂言には、男色が、
とても多く取り入れられており、代表的なものに『菊慈童』、『花月』などがあるとい
省14
5: 2023/07/12(水)19:40 ID:AApGezaU0(3/6) AAS
?・・・・陰間と衆道
不思議なのは、女性の大奥などは 家系存続子孫繁栄から 後妻や妾は何人でも許容
されたが、男妾だと本妾の許可が必要だったし、一人しか出来なかった事だ。1549年に
来日したフランシスコ・ザビエルは日本人を賞賛しながらも、許すことができない罪悪
として、男色を挙げていた。ザビエルを保護し、布教を許した山口の大名、大内義隆が
最も陰茎が大きく痛かったらしく、更に彼の持った、陰間美少年の数の多さに驚き嘆い
ている。大内も、当初はザビエルに、男色などを非難されたことに立腹して、この布教
の許可は直ぐに取り消された。また、天正7年(1579年)に、初来日したイタリア宣教
師、アレッサンドロ・ヴァリニャーノは、日本人に見られる罪悪は、色欲に耽(ふけ)
ることだとして、特に男色については、「彼らはそれを重大なことと、考えていないか
省14
6: 2023/07/12(水)19:43 ID:AApGezaU0(4/6) AAS
?・・・・陰間と衆道
男色に武家の作法が融合したものを 衆道といわれた。「若衆道」の略語で、いつから
使われ出したかは分かっていない。しかし、現在確認できているは承応二年(1653年)
の、江戸幕府の「市廛商估并文武市籍寄名者令條(遊女并隠賣女)」に出てくるものが
、幕府の公式令條としては初出だとされている。その為、武士の男色は鎌倉時代には、
みられ、室町時代に盛んになったが、衆道と呼ばれるようになったのは江戸時代からと
推測されている。徳川将軍15代のうち、7人に衆道関係があったことが知られており、
中でも、徳川三代将軍・家光と五代将軍・綱吉の衆道耽溺は、よく知られている。家光
は、余りに少年ばかりを愛し、女性を近づけようとしなかったので、乳母の春日局が、
心配した。という逸話があり、その結果大奥ができた。綱吉は多くの、お小姓を抱えて
省10
7: 2023/07/12(水)19:43 ID:AApGezaU0(5/6) AAS
?・・・・陰間と衆道
男色は、当時の大江戸の町人文化に深く根付き、浮世絵にも好んで題材とされた様だ
。井原西鶴の『好色一代男』(1682年)には主人公は、一生のうちに交わった人数を、
「戯れし女3、742人。少年との弄び725人。」と書いている。西鶴は、他にも『
男色大鑑』、『武士伝来記』など男色を扱っており、近松門左衛門(1653年〜1725年)
も男色を取り上げた作品を書いた。こうして僧侶、公家、武士と続いてきた男色文化が
ここに来て町人にも広がって行き、売色行為としての男色が確立してきた。この様に、
近代より前の日本で男色は、倒錯的行為としてや、女色と比較して倫理的に問題がある
行為と見なされることは、全くなかった。ただし、江戸初期にあって、諸藩においては
、家臣の衆道を厳しく取り締まる動きもある。特に姫路藩主の池田光政(1609年〜1682
省10
8: 2023/07/12(水)20:48 ID:AApGezaU0(6/6) AAS
?・・・・陰間と衆道
男色は、当時の大江戸の町人文化に深く根付き、浮世絵にも好んで題材とされた様だ
。井原西鶴の『好色一代男』(1682年)には主人公は、一生のうちに交わった人数を、
「戯れし女3、742人。少年との弄び725人。」と書いている。西鶴は、他にも『
男色大鑑』、『武士伝来記』など男色を扱っており、近松門左衛門(1653年〜1725年)
も男色を取り上げた作品を書いた。こうして僧侶、公家、武士と続いてきた男色文化が
ここに来て町人にも広がって行き、売色行為としての男色が確立してきた。この様に、
近代より前の日本で男色は、倒錯的行為としてや、女色と比較して倫理的に問題がある
行為と見なされることは、全くなかった。ただし、江戸初期にあって、諸藩においては
、家臣の衆道を厳しく取り締まる動きもある。特に姫路藩主の池田光政(1609年〜1682
省10
9: 2023/07/14(金)19:23 ID:csLMjqBQ0(1) AAS
(`L_` )ククク
10: 2023/08/01(火)02:09 ID:r4saSsKw6(1) AAS
いつも思い通りにいくわけでない
11: 2023/08/03(木)17:39 ID:DKPxHreq0(1) AAS
( -ω-)y─┛~~~~~
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