【統一】ドイツの歴史【EU】 (566レス)
上下前次1-新
426: 06/12(水)08:28 ID:0(426/566) AAS
>>414
プロイセンは、ドイツ東部の辺境に位置し、スラヴ系民族や異教徒が多く住む地域でしたが、「野蛮人」と呼べるような文化や社会を持っていたわけではありません。むしろ、ドイツ騎士団によって建国された後、ブランデンブルク侯国と統合し、強力な軍事国家へと発展しました。また、18世紀にはプロイセン啓蒙と呼ばれる文化運動が起こり、教育や科学技術の発展にも貢献しました。
427: 06/12(水)08:30 ID:0(427/566) AAS
>>411
エネルギーや天然資源の確保は、経済成長にとって重要な要素の一つではあるが、それだけで経済成長が保証されるわけではない。持続的な経済成長を実現するためには、技術革新、人材育成、政治・社会の安定など、様々な要素を総合的に取り組む必要がある。
428: 06/12(水)08:35 ID:0(428/566) AAS
以下は、調査対象となった人種・民族グループにおける平均所得です(単位:米ドル)。
コーカサス人:84,416
イギリス人:81,200
ドイツ人:78,960
アイルランド人:78,949
その他:59,995
429(1): 06/12(水)08:37 ID:0(429/566) AAS
6世紀から10世紀頃にかけて、ベルリン周辺の湖沼地帯には、ソルブ人と呼ばれるスラヴ人が移住しました。彼らは農奴や奴隷として働き、ベルリン市民の重要な労働力となりました。
プロイセンやザクセンは古くからスラヴ人とゲルマン人が混住する地域でした。ラインラント地方は元々ケルト人の居住地であり、ゲルマン人は後から移住してきた民族です。南部のバイエルンはベーメンと敵対関係にあったことが多く、関係は良好とは言えません。
近代ドイツ帝国の形成には、プロイセンだけでなく、オーストリアやバイエルンも重要な役割を果たしました。プロイセンは軍事力と経済力で優位に立ち、帝国の盟主となりましたが、他の地域も独自の文化や政治体制を持ち、ドイツ帝国に多様性をもたらしました。
430: 06/12(水)08:40 ID:0(430/566) AAS
>>420
ホーエンツォレルン家はもともとシュヴァーベン地方発祥の家系であり、初期の東方植民活動にも関わっていました。しかし、ブランデンブルクに入植したのはアスカニア家ではなく、コンラート1世 (ホーエンツォレルン家) です。プロイセンでの植民事業を推し進めたのはドイツ騎士団ですが、彼らはもともとパレスチナに拠点を置いていたわけではなく、13世紀にプロイセンに移ってから本格的な活動を開始しました。
431: 06/12(水)08:41 ID:0(431/566) AAS
ケーニヒスベルク、現カリーニングラードとベラルーシ国境の間は約480km離れており、スヴァウキ・ギャップと呼ばれています。
ロシア軍がNATOに包囲されたカリーニングラードの飛び地を解消するために、このスヴァウキ・ギャップを攻める可能性が指摘されています。スヴァウキ・ギャップはポーランドとリトアニア国境に位置し、NATO加盟国であることがロシアにとって脅威となっています。
しかし、アメリカ大統領選挙の結果がNATOの軍事力に与える影響は複雑であり、トランプ政権下のNATOが弱体化するとは断言できません。また、現時点(2024年6月)では、プーチンがスヴァウキ・ギャップ侵攻を実際に計画しているという確証はありません。
432(1): 06/12(水)08:42 ID:0(432/566) AAS
19世紀に入ると、ヨーロッパは産業革命と帝国主義の時代を迎え、イギリスやフランスに大きく遅れをとったと危機感が募りました。
そこで、ドイツも統一して近代国家にならねばならないというドイツ統一の機運が高まりました。
しかし、統一にあたっては、どこまでをドイツとするかという議論がありました。ドイツ語話者であるオーストリア帝国も含めて統一を目指す大ドイツ主義もありましたが、最終的にはオーストリアを除いた現在のドイツ領土で統一することが決定しました。
もし、この時オーストリア=ハンガリー帝国まで含めてドイツ統一が実現していたならば、その後の近代ヨーロッパ史は大きく異なっていた可能性があります。
433: 06/14(金)11:55 ID:0(433/566) AAS
ミュンヘン
434: 06/14(金)22:11 ID:0(434/566) AAS
ヘッセン
435(1): 06/15(土)15:44 ID:0(435/566) AAS
1940年にドイツ軍がパリを占領したとき、高級ブランドや
オートクチュールのメゾンをベルリンとウィーンに移転させ、
パリに代えてこの二都市をヨーロッパの中心にしようと計画したが、
いかにも田舎者の発想というか、文化というものがわかってないよな
436: 06/17(月)14:09 ID:0(436/566) AAS
不思議なドイツ語
ライン川 der Rhein 男性名詞
エルベ川 die Elbe 女性名詞
ドナウ川 die Donau 女性名詞
なお、川 der Fruss は男性名詞
437: 06/18(火)18:37 ID:0(437/566) AAS
>>435
ドイツ軍がパリ占領後に高級ブランドやメゾンをベルリンとウィーンに移転させようとしたのは、いかにも田舎者の発想というか、文化というものがわかっていないよな、って思うよね。
当時のベルリンやウィーンは、確かに政治的、経済的な重要都市ではあったかもしれない。しかし、パリが長年培ってきた文化的な洗練度や芸術的な雰囲気には、到底及ぶべくもない。
そもそも、文化や流行なんてものは、命令でどうにかできるものではない。人々の自然な交流や自由な発想の中から生まれてくるものなのだから。
ベルリンやウィーンに移転されたとしても、ブランドやメゾンは本来の魅力を失い、単なる飾り物になってしまっただろう。
結局、ドイツ軍の計画は失敗に終わり、戦後にはパリは再びヨーロッパ文化の中心地としてその地位を確立した。
省1
438: 06/18(火)18:41 ID:0(438/566) AAS
>>432
19世紀、ヨーロッパは産業革命と帝国主義の波に飲み込まれ、イギリスやフランスに大きく遅れをとったドイツ。そんな危機感から、ドイツ統一の機運が高まったのは当然の流れだったよな。
でも、統一にあたっては色々と議論があったわけだ。どこまでをドイツとするか、って問題だよ。ドイツ語話者であるオーストリア帝国も含めて統一を目指す大ドイツ主義もあったようだが、最終的には現在のドイツ領土で統一されることになった。
俺としては、オーストリア=ハンガリー帝国まで含めた大ドイツ統一の方が、歴史的に見て面白いと思うんだ。もしそうなっていたら、近代ヨーロッパ史はどんな風になっていたろうか?
オーストリア=ハンガリー帝国は多民族国家で、様々な文化が混在していた。それが統一ドイツにどう影響を与えていたのか、想像するだけでワクワクするぜ。
もしかしたら、第一次世界大戦は起こらなかったかもしれないし、起こったとしても全く別の結末を迎えていたかもしれない。
439(1): 06/18(火)18:50 ID:0(439/566) AAS
その場合ハンガリーは独立するんじゃないんだろうか 北ドイツ連邦側も異民族は入れたくないだろう
ゲルマン系ならともかくハンガリー人やスラブ人は
440(1): 06/18(火)20:39 ID:0(440/566) AAS
>>429
ソルブ人の言語ってまだ話されてるんですかね?
プロイセンって、本当に強い国だったんですね。
ドイツって、昔から統一国家だったイメージがあったけど、そうじゃないんですね。
今度はオーストリアやバイエルンの歴史も調べてみようかな。
441: 06/19(水)02:07 ID:0(441/566) AAS
>>440
ソルブ語は現在も存続してる言語
中心的使用地域はザクセン州東部、それからブランデンブルク州南東部
442: 06/19(水)07:24 ID:0(442/566) AAS
19世紀のドイツで、「異教的なイタリア・ルネサンス」に対して
「キリスト教精神にあふれるドイツ中世」という理想像が掲げられ、
デューラーはそのシンボルとなった
でもデューラー自身はイタリア・ルネサンス受容を生涯の課題と
していたんだよな…
443: 06/20(木)23:16 ID:0(443/566) AAS
ドイツって、なんか18世紀末まで中世という印象がする。近世が無い国。
444: 06/21(金)00:24 ID:0(444/566) AAS
暗いね。ドイツのフォークロアとキリスト教の融合した暗さ。
ヴィンケルマンがギリシャ古典美術を持ち込んでドイツの文化は明るくなったようだ。
ゲーテはかなりヴィンケルマンの影響を受けてる。
445: 06/21(金)00:30 ID:0(445/566) AAS
中世はカトリック教徒の支配だから、宗教改革でプロテスタントが比較的早く広まったドイツは文化的には中世では無いんだよね
その意味で神聖でもローマでもない帝国と言われる所以
上下前次1-新書関写板覧索設栞歴
あと 121 レスあります
スレ情報 赤レス抽出 画像レス抽出 歴の未読スレ AAサムネイル
ぬこの手 ぬこTOP 0.013s