紀州【中上健次】熊野 2 (440レス)
1-

122: 2022/07/02(土)20:37 ID:5z/pgNvi(4/4) AAS
>>121
自己レスだが、戦前の和歌山や奈良の林業では高知からの出稼ぎが多かったと言われてるので、或いはキンマ引きのような荒っぽい仕事は
高知人がかなり請け負ってたかも。
重量物を担ぐ時のバンド(帯)の結び方はアートと堺では違ってて、堺では片方を引っ張ればすぐに解けるようになってるが、これは階段
作業で事故になると思った時に上方にいる側がピアノの脚に引っかけた帯を瞬間で外して、自分がピアノと一緒に下方の相方を押し潰さな
いようにという配慮からそうなったというが、これは高知由来の技術かも。偶然だが、アートの高知出身の大先輩でその帯の結び方を知っ
てる人がいた。要は、落ちるものは流れに任せよということ。
高知と堺、河内、和歌山は中世から交流が盛んだった。
123
(1): 2022/07/03(日)12:00 ID:lVBcmGG6(1/9) AAS
>>109

その阪大準教授の論文の内容はすでに援用した。

「地域開発の記録文学/思想文学 : 中上健次『地の果
て 至上の時』をめぐるメモランダム」
渡邊英理

≫マルクス主義は中上文学とは無関係

あいにく渡邊英理さんの考え方は、
ネオマルクス主義的である。
124: 2022/07/03(日)12:05 ID:lVBcmGG6(2/9) AAS
[路地が解体された後の世界の「職なしゲットー」や、そこで生み出される「廃棄可能な人間たち」。その萌
芽は、すでにして『地の果て』における路地跡の「空地」/「原っぱ」に住まうヨシ兄ら、野宿状態の労働
者たちに萌されている。かつて、中上は、「何度も小説にしたこの路地がたえず新しい読み終る事のない本と
してある」と言った。たえず新しい読み終わる事のない路地には、かつてあったことだけでなく、読者の「い
ま・ここ」に起こっていること、すなわち、それが書かれた時点では未来に属する出来事までも、書き込ま
れている。そのような本として路地を、路地の小説を、いま、この時代に再読することができる。路地なき
後の世界をも、中上の路地は、小説という形をもって、つかみとっていたのである。 ]
(渡邊英理 上記の論文の結びの文)
125: 2022/07/03(日)12:39 ID:XC8quPeo(1) AAS
和歌 山県新宮市における同和対策事業 による公営住宅 の建設過程 と部落解放運動-1953~75年-

外部リンク:www.jstage.jst.go.jp
126
(1): 2022/07/03(日)15:23 ID:lVBcmGG6(3/9) AAS
「本書は、路地を舞台とする中上健次の小説群、路地小説をめぐって書かれている。路地とは、(再)開発を表象する空間であるが、同時に、(再)開発に抗する文学的かつ理論的な構え、思想的なビジョンである。ビジョンとしての路地の核心は、その「仮設」性に見出すことができる。[…]脱中心的で偶発性に開かれ、その未決の複数性と多義性ゆえに群れとして形象化されうる路地の「仮設」性は、[…](再)開発に対する抵抗性において、国家と資本に益する「生産性」へと還元されることを拒み、[…]それとは異なる社会のあり方を探求する構えでもある。したがって、中上の路地とは、国家に抗い資本に抗う、脱国家的かつ脱資本的な志向性をもつ社会として構想されていたと言えるだろう。」
(渡邊英理)

ようするに、中上文学における「路地」は、リゾーム的なものだということになる。
127: 2022/07/03(日)15:25 ID:lVBcmGG6(4/9) AAS
>>10
128
(1): 2022/07/03(日)16:28 ID:Y8f1C56e(1/2) AAS
文学作品をどのように解釈するかは自由だ
しかし路地をマルクス主義擁護のために解釈するのはシラケる
時代遅れで実験失敗済のマルクス主義バンザイと
脳内で雄叫びをあげてればいいだろうよ
129: 2022/07/03(日)16:41 ID:lVBcmGG6(5/9) AAS
物理学者が物理をやる時に、いちいちニュートンだとかアインシュタインを引用する必要を感じるでしょうか? 彼らはそれを利用するが、自分がどれだけ師の意見に忠実かを示す証しとして引用符や脚注や賛辞を使う必要なんてない。他の物理学者たちだって、アインシュタインが何をやり、何を発見し、何を証明したかぐらいは心得ているから、読んでいきながらなるほどと思うだけです。今の時代に歴史をやるには、直接的であれ間接的であれマルクス思想につながる概念を全く使わないでやるとか、彼が説明を与え定義づけた視野に立たずしてやるなんてことは不可能です。つきつめれば、歴史家であることとマルクス主義者であることの間にどんな違いがあるのかとさえ思えるほどです。(中略)
 で、議論もマルクスによって定義され体系化されたその全体的視野の内部で初めて始まるわけです。その相手というのが、実際にはマルクス理論ではないのに、ただ共産主義理論のルールを操るという理由でマルクス主義者を自認してはばからない連中です。まあルールと言ったって共産党が決めたもので、党からマルクス主義者だと公認されるためのマルクス利用マニュアルのようなもんですがね。

 (ミシェル・フーコー「監獄についての対談−−本とその方法」ちくま学芸文庫、フーコー思考集成IV所収)
130
(1): 2022/07/03(日)16:41 ID:lVBcmGG6(6/9) AAS
ジル・ドゥルーズ「思い出すこと」
(聞き手:ディディエ・エリボン、鈴木秀亘訳、『批評空間』誌第II期第9号、太田出版)、p.11-12

〈マルクス〉

マルクスを読んだのはニーチェと同じ時期でした。素晴らしいと思いました。彼の生み出した
さまざまなコンセプトは、私にとって今でも役立つものです。そこにはひとつの批判、根本的な
批判が存在しています。『アンチ・オイディプス』と『千のプラトー』はマルクスに、マルクス主義に 完全に貫かれた作品です。現在私は、自分を完全にマルクス主義者だと考えています。
例えば、「管理社会」について書いた記事は(月刊ロートル・ジュールナル1号 1990年5月号に
掲載、ミニュイ社刊『記号と事件』に収録、邦訳河出書房新社)、マルクスが彼の時代には知り
えなかったことを語っているにもかかわらず、完璧にマルクス主義的なテクストです。
省4
131: 2022/07/03(日)16:57 ID:zeAXR2F0(1) AAS
自分の言葉で語れない人か
132: 2022/07/03(日)17:25 ID:lVBcmGG6(7/9) AAS
131さんは、中上文学を論じたもので、マルクス主義とかかわりのないものを
一部でいいから引用して貼ればいいんですよ。
非常に少ないとは思うけれど、全然ないというものでもないでしょう。
133: 2022/07/03(日)18:10 ID:+vxn3csH(1/2) AAS
>>123
「地の果て」のヨシ兄の鴨緑江で筏流しをやった話だが、彼とほぼ同世代の長野出身で
満州で運送屋をやってた人の話では、満州人や朝鮮人はしんどくなると荷物を落とすと
いうんだな。中上の筏流しやキンマ引きが神話化されてる感は拭えない。筏流しで重い
材木を竿で押しやるのはいわゆる「ナンバ」に過ぎん。

>>128
君のは創価の考え方だ。
創価は部落青年の知的関心を啓発することに全く無関心だが、中上は部落青年のために
熊野大学を開いた。マルクスは中上の知的関心の一つに過ぎない。君が気にし過ぎだろ。
創価には部落出身者が非常に多いにも関わらず、創価は部落出身者の知的向上を嫌うの
省1
134: 2022/07/03(日)18:32 ID:lVBcmGG6(8/9) AAS
そもそも、日本のネオマルクシストの「第一人者」だとされることの多い柄谷行人と若いころからの親友で、
お互いに影響し合っている間柄なのに、
その中上健次が思想的にマルクスと無関係なわけがないだろう。
135: 2022/07/03(日)18:34 ID:lVBcmGG6(9/9) AAS
現代思想の先駆者の「三巨人」マルクス、フロイト、ニーチェ、
とうぜん中上健次は、これらから多大な影響を受けているわけですよ。
136
(1): 2022/07/03(日)18:41 ID:Y8f1C56e(2/2) AAS
大杉重男あたりにマルクス主義とは無縁な中上論を期待する
徳田秋聲『あらくれ』から中上は何を学んで『鳳仙花』を書いたか
137: 2022/07/03(日)18:51 ID:+vxn3csH(2/2) AAS
>>136
阿保馬鹿の絓秀実に気持ち悪いおべっか使ってたのが大杉。
138: P ◆8LHzvOF7F2 2022/07/04(月)00:17 ID:cXqAEQC6(1) AAS
>>130
そうだったのか…
139: 死廃神酔天魔法狂廃遊舞鬼神龍騎禅軍呪妖幻術医国文師悪魔召喚居士 2022/07/04(月)09:19 ID:LZl57Hvp(1) AAS
中二っぽいよな。中国も華国と華の方が華やいでええ。
140: 2022/07/04(月)15:33 ID:iioa4Qpx(1/6) AAS
「媒介する言葉と路地の夢 : 中上健次とフランツ・ファノン」
渡邊英理

話題の阪大准教授には↑のような論文もあった。
141
(1): 2022/07/04(月)15:41 ID:iioa4Qpx(2/6) AAS
「俺、それまで大江健三郎の影響をものすごく受けていて、戦後民主主義の路線にとらわれていた。そうなんだ、平和と民主主義をほとんど鵜呑みという感じでね。それが、あの一〇・八でゲバ棒を持ったとき、一八〇度転換した。無茶苦茶に殴りかかってくる機動隊に対して、自衛のために棒を持ったわけだろう。その棒一本で、完全に大江健三郎の言ってることなんかが引っくり返った。
 要するに、暴力に対してどう思うか、暴力をどんなふうに位置づけるかということなんだ。
 それで、いろんな本を読んだよ。その中で、なるほど、これじゃないかと思ったのがフランツ・ファノン。暴力には二種類ある。権力をフォルスと言う、それに対して抑圧された者が押し返す力をバイオレンスと言う。これが暴力なんだとファノンは言うわけね。だから、暴力というのは、弱い人間にふるうものとは違うんだ。弱いからこそ打ち返すんだという暴力論が、俺たちの間で信念となっていた。
 目がさめた気がしたね。あっこれなんだと思ったんだよ。それで俺は大江を超える、大江の文学論からの呪縛を超える。それは同時に、戦後民主主議を超える論法を身につけることなんだ。そうすると、俺は自前で考えなくちゃいけない。それで、二十二ぐらいのときに初めて、自前でものを考えるということが出てきた。
 そうだね。その頃、すでに書き始めていたから、そういう考え方はぴったり俺の書くものにくっついている、そうだろう。しょっちゅう機動隊に殴られていたんだよ、それまで。それで自衛のために棒を持って打ち返した。そのとき、打ち返さなくちゃいかんという」論法に転換したんだよ。」
(つかこうへいによるインタビュー。『中上健次発言集成5』p138-9、及び『現代文学の無視できない10人』所収)

↑の中上健次の言うことには、どうやら記憶違いがあるらしく、「弱いからこそ打ち返す暴力」云々というのは、
ファノンではなく、ジョルジュ・ソレルの著書の書いてることなのだそうだ。
ただ、著者について記憶違いがあったとしても、論旨は変わりないだろう。
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