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83: 06/11(火)18:26 ID:6by8G9Lfh(15/37) AAS
中立のリアル・・・・・・・10
「最後に私は、兵士諸君に、私が君たちに期待していることを知らせる。これが、諸君
のただ一つ考えることである。『諸君の義務の存するところ、その場所に、諸君の生命
を捧げる覚悟をせよ。』と。」(p86〜87)』、『六月十三日の 訓示、「祖国の為
の戦いには、生命を捧げても 惜しくはない。というべきである。……諸君達は 誰でも
、空からの攻撃を受けたからといって、任務の遂行を、回避することは許されない。…
…急降下爆撃機の攻撃の下で、じっと我慢し、それぞれの義務と任務を、最後まで遂行
することが出来なければならないし、またそうしなければならない。……敵の装甲車の
攻撃を受け、あるいは側面や背後に回られても、諸君は一人もその位置を捨てることは
許されない。……絶望的な状況に陥って、外への道が、もはや一本もなくなった時でも
省12
84: 06/11(火)19:23 ID:6by8G9Lfh(16/37) AAS
非情の「とりで戦略」
85: 06/11(火)19:24 ID:6by8G9Lfh(17/37) AAS
中立のリアル・・・・・・・11
ドイツ軍は、いつものように突破部を拡張しようとしても、果たせず、少数だけ突出
した部隊を、スイスの予備部隊が撃破して刈り取り、戦線に開いた穴を修復できた。の
である。「持ち場を守って死ぬまで戦え」というのは、この場合、敵味方の優劣や戦法
を考え、最も合理的な防戦準備を整え、その最後の仕上げとして、言っているのである
。この防戦思想はさらに徹底され、「とりで戦略」となった。ドイツがフランスを一撃
で倒してしまった事で、さらに状況が変化した為である。今やドイツ方面からの敵を、
リーマット前線で防いでも、フランス方面からもドイツ軍に、背後を突かれてしまう、
そういう状態となったからだ。そこでギザン将軍は、徹底した要点防御戦略を採用し、
ドイツ軍が国境を越えれば、スイスの主要な道路やトンネル、橋などを、ことごとくに
省12
86: 06/11(火)19:24 ID:6by8G9Lfh(18/37) AAS
拒否的抑止戦略の成功
87: 06/11(火)19:25 ID:6by8G9Lfh(19/37) AAS
中立のリアル・・・・・・・12
守るべき国土国民を置き捨てて、山の中に逃げ、ただ軍隊だけが生き延びて、いつま
でも敵と戦い続ける態勢をとること。それが、スイス軍の選択であった。プランだけを
見れば、スイス軍は、国民を守らない、極悪非情の軍であるように見える。しかし実は
、それこそが戦争そのものを防ぐための、この場合ただ一つの方法で、敗けて行く小国
は、孤立しレジスタンスに身を投じて、抵抗戦線を張るのは、定石の戦法であり、日本
も、硫黄島決戦、沖縄決戦、他、防備での闘いで、史上最悪の米兵負傷者を出して原爆
投下まで、させるに至っている。四十年の七月十二日の、ギザン将軍はこう説明した。
スイス連邦が、この枢軸国の、直接攻撃の脅威を免れることが出来るのは、ただ次の様
な場合だけである。それは、ドイツの国防軍総司令部が、作戦準備の段階で我々スイス
省9
88: 06/11(火)19:26 ID:6by8G9Lfh(20/37) AAS
戦争を回避する方法
89: 06/11(火)19:26 ID:6by8G9Lfh(21/37) AAS
中立のリアル・・・・・・・13
この戦略は、見事に図に当たった。ドイツ軍は、スイス侵攻を何度となく検討した。
しかれど、その都度、撤回している。つまり、勝てるとしても、時間がかかる上、損害
は大きく、しかも、勝った後には、スイスの主要交通路は ことごとく破壊されている
から、兵員を割いて道路や橋の整備まで必要で、得るところが少ないと計算したのだ。
この外交的には「中立」、軍事的には「専守防衛」という厳しい条件の中で、非常な迄
に、徹底したスイス軍の防衛戦略で、これが陸地の戦闘、戦地にならずに最後まで功を
奏した。しかしこれらは、ただ軍だけの功績ではなく、必要な支援を与えつづけた政府
、政府に非常時の大権を与えた議会、そしてそれらを支持しつつも 民主主義の精神を
忘れなかった国民の存在でもあった。こうした、戦争を回避できる国とは、他国から見
省11
90: 06/11(火)19:26 ID:6by8G9Lfh(22/37) AAS
中立のリアル・・・・・・・14
この事は、陸上の防衛と違い、領空の空軍力は、ドイツの航空機に頼っていたスイス
にとって、大きな誤算を生じさせた。連合国と枢軸国の航空機が、自由にスイスの上空
を飛行していた為、戦時中に、スイスでは 7,000回以上の空襲警報が作動した。と言う
がもっと多かったかも知れない。一部の連合軍の爆撃機は、ドイツ国内の目標に向けて
爆撃を行う際には、わざわざこの状況を用いて、ルートを敵の空域ではない安全な経路
として、スイスの空域利用するケースも多々あった、それ以上に、爆撃機が遭難し、陸
に降りた場合に、ドイツ領内ではなく、中立国であるスイスに降下する事が、捕虜には
ならずに済み好まれたのだ。結果、スイスは最終的に 1,700人のアメリカ人飛行士を、
抑留する事になった。大変な人数である。これを受け、1941年〜1942年にかけてスイス
省11
91: 06/11(火)19:27 ID:6by8G9Lfh(23/37) AAS
中立のリアル・・・・・・・15
この後も、はじめてアメリカ軍爆撃機がスイスの上空で撃墜されたのは、1943年10月
1日に、バート・ラガッツの近くの事で、乗員のうち3人だけが生き残った。1944年9
月5日、損傷を受け、スイス領空を通過中の、B-17爆撃機を護衛していたアメリカ軍の
P-51マスタングが、スイス軍のメッサーシュミット Bf109 と 遭遇。スイスの領空での
空域であることを知らなかった P-51 は、当然、スイス軍のメッサーシュミットを攻撃
し、1機を撃墜してパイロットを死亡させ、もう1機を損傷させた。実は欧州戦線は、
実に流動的で、1940年5月に、ドイツ軍によるベネルクス三国およびフランス侵攻が、
開始された。戦車の集団的運用を核に、ドイツ軍の電撃戦で英仏軍の前線は突破されて
スイスは孤高の国となった。その次の年には、1941年、ドイツ軍のソ連侵攻作戦である
省14
92: 06/11(火)19:50 ID:6by8G9Lfh(24/37) AAS
中立のリアル・・・・・・・16
元々はテムズ河畔の港を目標とした爆撃を行う予定だった、のであるが、予定の飛行
ルートを外れてしまいこの誤爆を引き起こした。果たしてこの誤爆はドイツ側が想定し
た通りの反応を、イギリス首相チャーチルに決断させ、イギリス国民に決意を立てさせ
た。つまり、イギリス国内のドイツ人スパイの検挙と逮捕、更に、アメリカ軍の本格的
介入を招いた。この報復としてドイツの首都ベルリンを、スイス航路でのイギリスが、
夜襲爆撃する結果をもたらしたのである。こうして、ベルリンへの爆撃を被ったことで
、ヒトラーは、もう然と、イギリスに対する爆撃を、それまでの軍事目標からロンドン
への、無差別都市爆撃へと変更する命令を下した。実は、連合国自体は、それまで意志
の統一化は図っていない。というのも、北アフリカで枢軸軍を破った後、連合国の間で
省11
93: 06/11(火)19:51 ID:6by8G9Lfh(25/37) AAS
中立のリアル・・・・・・・17
「オーバーロード作戦」すなわち、ノルマンディー上陸作戦である。アメリカ諜報部
は、既に完ぺきな、大西洋の壁が完成に近づいていて、真っ向から上陸するのは、既に
困難である。との報告を受けるに至っていた。実はアメリカは、日本の参戦によって、
太平洋に於いての思いの外日本軍が強い事に、欧州戦線に参戦する理由でのチョッカイ
が、藪蛇と化して、苦悩していたのであった。こうした作戦は、イタリア戦線において
、シチリア島上陸作戦に続いて行われたものであるが、二次世界大戦における連合国軍
のイタリア侵攻は、1943年になって、9月にハロルド・アレキサンダー大将率いる第15
軍集団(マーク・クラークのアメリカ第5軍、バーナード・モントゴメリーのイギリス
第8軍から構成)でイタリア半島本土に侵攻を行った作戦となった。つまりモンゴメリ
省14
94: 06/11(火)19:51 ID:6by8G9Lfh(26/37) AAS
実は中立国スイスは、中立国であるが故に、連合国軍から空爆を受けて居る。
都市、シャフハウゼン
1944年4月1日、アメリカ陸軍航空軍による シャフハウゼンへの昼間爆撃は、すべての
事案の中で、最も深刻な物だった。約50機の、B-24リベレーターの大編隊が、シャフハ
ウゼンの北に 235キロ離れた本来の標的であるマンハイム近郊の ルートヴィヒスハー
フェン・アム・ラインと、誤認しての、60トンの爆弾を、投下した。シャフハウゼンで
は、空襲警報が、鳴ってはいたが、いつもの事で、これまで何度も鳴っていた。にも関
わらず、通行用の領空侵犯で、攻撃がなかったため、地元住民は、安心していた。多く
の人が避難せず、通常の日常行動をしていた。しかしその為に、合計40人の死者が出て
、約270人の 負傷者を出し、街の大部分が破壊されたのである。スイス政府から説明を
省11
95: 06/11(火)19:52 ID:6by8G9Lfh(27/37) AAS
都市 チューリッヒと 都市 バーゼル
1945年3月4日、アメリカ陸軍航空軍の、B-24H爆撃機6機がチューリッヒに12.5トンの、
高性能爆薬と、12トンの焼夷弾を投下し、5人が焼かれて死亡した。本来の標的は、チ
ューリッヒの北の 290キロに位置するフランクフルト・アム・マイン近郊の、ドイツの
アシャッフェンブルクであった。と言う。コースを外れた6機の爆撃機の乗組員たちは
、フライブルク・イム・ブライスガウを 爆撃していると思い込んでいた。ほぼ同時刻
には、他の爆撃機がバーゼルに、12.5トンの高性能爆弾と5トンの焼夷弾を投下した。
その他の都市の 小都市攻撃
1940年を通じて、イギリス空軍によってジュネーブ、レネンス、バーゼル、チューリッ
ヒ、などへの小規模な攻撃が行われた。1943年10月1日、 米軍機がサメーダン上空で、
省10
96: 06/11(火)20:45 ID:6by8G9Lfh(28/37) AAS
中立のリアル・・・・・・・20
中立国の歴史に3つの国がある。3国とは、スペイン、スウェーデン、そして、永世
中立国として有名なスイスである。他にも中立国は多いのに、なぜこの3国が代表的な
のでしょうか? それはこれらの国が、第二次世界大戦の最中すら中立政策を貫いて、
成功した国。とされているからだ、そこには、大きな苦労と、隠された秘密があるから
だ。中立といっても色々な形と歴史がある、問題にしている第二次世界大戦の戦時中立
であった歴史である。日本人が甘い偶像としている、戦時中立は、戦争をしてた両陣営
の、どちらにも味方せず、公平に接することが、果たして出来ていたのだろうか。中立
国は、中立と言う条件の義務を果たさねばいけない。事案中立国は戦争に参加しては、
ならず、また、交戦当事国のいずれにも 援助を行ってはならず、平等に接しなければ
省13
97: 06/11(火)20:46 ID:6by8G9Lfh(29/37) AAS
「中立を保つことは、あまり有効な選択肢ではない」
98: 06/11(火)20:47 ID:6by8G9Lfh(30/37) AAS
中立のリアル・・・・・・・21
中立国は、どちらの陣営にも公平に接して、誰の味方にもならない、という事を常に
心掛けた政権が要る。公平と言えば、聞こえはいいものの、邪な国に、その為の恨みを
買う可能性も多い。中立国スウェーデンの例では顕著に現出した。プロイセンが、デン
マークに侵攻した時の事である。スウェーデンにとって、デンマークは大事な友好国で
あった。そのデンマークが、攻められるのをスウェーデンは、ずっーと中立を保つ事を
芯にした。つまり、手助けせず、見捨てる他ありませんでした。当然ナチスはそれを、
見越して進軍し、虐殺の限りに及び、大敗を喫したデンマーク人がスウェーデンに対し
失望し、落胆は大きかった。「中立であること」は、戦乱への介入の拒否でもあるが、
友好関係にあった周辺国の、無支援、不介入(見殺し)にもなりかねない。事も判って
省13
99: 06/11(火)20:47 ID:6by8G9Lfh(31/37) AAS
中立宣言をしても攻め込まれたケース
100: 06/11(火)20:49 ID:6by8G9Lfh(32/37) AAS
中立のリアル・・・・・・・22
第二次大戦時、ドイツは、中立国のノルウェー・デンマークを侵略し、占領していく
。その時の言い分は、中立緩衝地帯としての見方以外は、何物とも思っていない。ドイ
ツのリッペントロップ外相は、「中立国の ノルウェー、デンマークの地域を、英仏の
侵攻から守るために『保護占領』を行う。」旨を発表したのだ。北欧侵攻「ヴェーゼル
川演習」の実施である。以後、中立宣言国に対する、武力侵攻の際には、洋の東西を問
わず、この便利で こぎれいな偽りの用語が、使われる。またドイツは厳正中立を貫い
た、低地の諸国も侵略していく。オランダとベルギーである。仏国占領の通過国と言え
、領土内を蹂躙されて、大きな被害を出した。両国は中立国として、ドイツ側にもイギ
リス側にも、味方しませんでした。その為、双方に対して領空侵犯対処を行ない、厳正
省11
101: 06/11(火)20:50 ID:6by8G9Lfh(33/37) AAS
アンリ・ギザン将軍「自らの運命を手放すことなく」 リュトリの誓い
102: 06/11(火)20:51 ID:6by8G9Lfh(34/37) AAS
中立のリアル・・・・・・・23
この第二次世界大戦の終結後、オランダ・ベルギーは、この経過から中立政策を放棄
した。このような過酷な状況で、よりによってドイツに隣接していたのに、中立に成功
したのがスイスであった。そこには、他の国と違った成功要因があったのでしょうか。
ドイツの脅威は、スイスにも迫った。そんな1940年の夏に、スイス軍の幹部がリュトリ
草原に集められました。リュトリは、かつてスイス建国の盟約が行われた誓いの聖地で
あった。彼らを招集したのは、スイス全軍の指揮をとる、アンリ・ギザン将軍である。
そこでギザン将軍は各員に断固たる決意を伝えます。「国境の向こう側には歴史的にも
稀なほどの、強力で優秀な軍隊が迫っており、以降数週間のうちに予想もしなかった、
大きな事態に直面しないとも限らない状況にある。」「スイス軍は全正面からの攻撃を
省11
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