●敦賀・小松・高岡● 【市街地&郊外】part2 (461レス)
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316: 2013/12/20(金)15:31 ID:LHp/zV3a0(1/3) AAS
480 :讀賣新聞 富山版 2012年9月1日:2013/12/19(木) 12:32:53.26 ID:w9WGiQRaほくりく学 磯田道史
幕末志士の「藩の通信簿」
加賀藩と越前藩?
金沢には加賀百万石の藩風が、福井には越前松平三十二万石の藩風があるといわれる。藩が独立した政治文化圏として日本中に認知されるには約十五万石の大きさが要った。
米沢藩や大和郡山藩以上の大きさ。「国持大名格」とよばれる規模である。富山・大聖寺・小浜といった藩は十万石だから、独立文化圏には少し足りない。
十五万石以上の大名は全国に30家ほど。幕末、大名(一万石以上)は300ちかくいたが、そのほとんどは上位30家の国持大名の分家であったから、江戸時代の日本の藩は30ほどに系列化された藩国家にわかれていた。
最大の大名である加賀の藩風は、どのように認識されていたのか。『人国談』という本がある。
ペリー来航の翌年(1854年)に、幕末の志士が諸国を漫遊。藩情を調べ匿名で「藩の通信簿」を著した。公の機関では秋田県県立図書館だけが貴重な一冊を所蔵している。
加賀藩については、こう書かれている。「(加賀・越中・能登)三国を合わせて衣食に足りないものはない富裕国。国人は義勇なく親切心もない。寛大の心もない。現藩主(前田斉泰)は能に溺れて寝食を忘れるほどだ。
当今、乱能狂いが最も甚だしいのはこの国だ。皇国第一の大諸侯が遊びに時間を費やし、皇国の大患難に臨めるのか。何たる政治か」。
さんざんな評価だ。幕末、加賀人は徳川の泰平が永遠に続くかのように、おっとりと能を舞っていた。加賀は豊かな大国。自分で自分が満たせる幸せな空間だった。
いきおい閉鎖的になりがちで他国人に「親切心がない。寛大でない」と思われていた。軍事に熱心でない藩風も、志士には物足らなかったらしい。
同じ頃、薩摩藩士・肝付兼武も加賀藩を偵察し「一体、政事、行き届かず」と書いている(『東北風談』)。
江戸前期、前田利常・綱紀の時代は、加賀の行政は諸藩の手本となっていた。ところが、江戸中期以降、加賀藩は大藩の伝統と誇りから、改革を好まない藩風になっていった。
江戸後期には百万石の豊かさ偉大さがかえって革新の妨げになったものと思われる。
(日本史家・静岡文化芸術大准教授)
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