[過去ログ] 邪馬壹國は北部九州に在った(王都は伊都国)part16 (758レス)
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673(3): 2021/06/16(水)00:04 AAS
>>672
>「伊都国から南に行くと「邪馬嘉國」に至る。」
そこは陸行だとは書いてないだろ
つまりこの配置で魏志倭人伝の記述も廣志逸文の記述も成立する
5 :日本@名無史さん :2021/02/23(火) 23:24:55.57
383 :日本@名無史さん :2020/05/28(木) 00:59:58.44
さて、こうして狗奴国の領域を考古学的に検証してみると
以前作ったこの地図はかなり正しいように思えるな
309 :日本@名無史さん :2019/09/04(水) 04:03:09.07
>>73-74,247,292-294,305で挙げた内容に>>138,290,295の内容を加味して
省5
674(1): 2021/06/16(水)00:50 AAS
>>673
隙がないな
675(1): 2021/06/16(水)07:45 AAS
【邪馬台国と周辺の国】
1番 斯馬国は志摩(嶋)郡(福岡県糸島市)
2番 己百支国は伊万里(佐賀県伊万里市)
3番 伊邪国は平戸島(長崎県平戸市)または伊佐早国(長崎県諫早市)
4番 都支国は早岐(長崎県佐世保市早岐)
5番 彌奴国は長崎県長崎市(または長崎県西彼杵郡)または嶺(佐賀県みやき町三根)
6番 好古都国は高来郡(長崎県雲仙市)
7番 不呼国は須古(佐賀県杵島郡白石町)
8番 姐奴國は曽根(佐賀県神埼市神埼町本堀曽根ヶ里)
9番 對蘇国は鳥栖(佐賀県鳥栖市柚比町)の安永田遺跡
省21
676(1): 2021/06/16(水)10:23 AAS
>>674
廣志逸文で本当に注目するべきは
西南海行一日有伊邪分國、の部分
魏志も魏略も邪馬台国へのルート記述は帯方郡からひたすら東南方向で西という方位は一度も出てこない
つまり廣志は魏志や魏略の単なる引き写しではなく、別の情報源を持っていたということ
そしてそれによれば邪馬台国の西南方向には海があり、一日で渡れる程度の距離に伊邪分國がある
これは邪馬台国の位置を特定するのに大きなヒントになる
>>673の配置であれば、邪馬台国の西南には有明海が広がり、南西に一日程度で諫早に着く
ここが伊邪分國だろう
677: 2021/07/11(日)18:07 AAS
司馬懿(司馬仲達)179-251
曹操の代から魏に仕えた将軍で、
魏の次の晋(西晋265-316)を建国した人物ですね。
魏の軍事面におけるエースであり、
蜀の諸葛孔明や、呉の孫権と、幾度も戦い抜きます。
青龍二年(234)に諸葛孔明が陣中で死去した時の、
「死せる孔明、生ける仲達を走らす」
の仲達さんですね。
678: 2021/07/11(日)18:08 AAS
諸葛孔明が亡くなったものの、
魏にとっては厳しい局面が続きます。
南方に呉と蜀。
背後に当たる東方の遼東にて、
公孫氏の公孫淵が、呉と魏を天秤にかける独自路線を進み始めます。
景初元年(237)に、魏は現地の毌丘倹に命じて、反抗的な公孫淵を討たせようとしますが、
遼隧で阻まれ、毌丘倹は撤収を余儀なくされます。
勝利した公孫氏は燕王を称して独立しますね。
一地方の反乱をも抑えられず、魏の面目は丸つぶれで、
公孫氏と呉は連携する構えも見せますから、
省5
679: 2021/07/11(日)18:08 AAS
明帝(曹叡 226-239年1月22日)の詔勅にて、
司馬懿の出陣は、景初二年(238)正月。
先の毌丘倹なども配下にした四万の大軍を率いての長距離遠征です。
明帝に軍事日程を聞かれた司馬懿は、
「往きに百日、戦闘に百日、復路に百日、休息に六十日。
こうすれば、1年で充分です。」
と答えています。
遠征に、1年分の兵糧を持っていったわけですね。
しかし魏軍は長雨で足止めを喰らいます。
『及宣王至遼東、霖雨不得時攻、羣臣或以爲淵未可卒破、宜詔宣王還
省6
680: 2021/07/11(日)18:09 AAS
襄平に籠城する公孫淵を包囲した司馬懿ですが、さらに三十日ほど長雨を喰らいます。
ここで晋書の記述にて、妙な発言をしています。
『孟達衆少而食支一年,吾將士四倍于達而糧不淹月,以一月圖一年,安可不速?以四擊一,正令半解,猶當為之。
是以不計死傷,與糧競也。
今賊衆我寡,賊飢我飽,水雨乃爾,功力不設,雖當促之,亦何所為。
自發京師,不憂賊攻,但恐賊走。今賊糧垂盡,而圍落未合,掠其牛馬,抄其樵采,此故驅之走也。
夫兵者詭道,善因事變。賊憑衆恃雨,故雖飢困,未肯束手,當示無能以安之。取小利以驚之。非計也。』
むかし孟達と戦った時は、孟達は兵数が少ない割に兵糧が多く、
司馬懿は兵数は四倍だったが兵糧が少なかったので、速戦した。
今回の公孫淵は兵は多いが兵糧は少なく、司馬懿の側は兵は少ないが兵糧は多い。
省5
681: 2021/07/11(日)18:09 AAS
司馬懿による公孫氏攻略で妙な点はもう一つあります。
邪馬台国女王卑弥呼への金印授与、ですね。
金印授与は、単に魏と邪馬台国との二国間外交だけの問題ではなく、
東アジア全体での国家間のバランスも関わってきますね。
魏は自国の存亡をかけて公孫氏を攻撃している。
景初年間とは、魏による東夷制圧の時代でもあります。
『景初中、大興師旅、誅淵。又潛軍浮海、收樂浪帶方之郡、而後海表謐然、東夷屈服』
景初年間に、大軍を派遣して、公孫淵を誅殺した。
同時に秘かに水軍を渡海させて、楽浪郡帯方郡を接収した。
これらの作戦の後に、海のかなたの騒ぎは収まり、東夷世界は魏に服従した。
省7
682: 2021/07/11(日)18:10 AAS
三国志東夷伝の高句麗の条に、こうあります。
『景初二年太尉司馬王率衆討公孫淵。
宮遣主簿大加將數千人、助軍。』
景初二年に、大尉=魏の最高位の将軍である、司馬(宣)王が、大軍を率いて公孫淵を討伐した際に、
高句麗王である宮は、主簿や大加など数千人の援軍を送ってこれを助けた。
司馬懿四万vs公孫淵一万余の戦いにおいて、数千の援軍というのはかなり大きいですよね。
鮮卑なども毌丘倹に援軍したりしています。
対する邪馬台国の卑弥呼が贈ったのは、
『男生口四人 女生口六人 班布二匹二丈』
生口十人・・・。
省1
683: 2021/07/11(日)18:11 AAS
長くなりましたが、要約するとこうなります。
・司馬懿による公孫氏討伐は、魏の命運がかかっていた。
・司馬懿の軍は長雨にたたられて、兵糧不足に陥っていた。
・魏本国の明帝は「司馬懿の現地判断」に任せた。つまり撤収も兵糧部隊増援もなし。
・結果的に成功し、明帝の的確な判断を褒める記録が残されている。
・景初二年六月に難升米らが帯方郡に到着した。
・景初二年八月に襄平を包囲する司馬懿が、兵糧は満ち足りていると安心している。
・数千の援軍を派遣した高句麗を差し置いて、生口十人の邪馬台国が金印銀印を受領した。
明らかですね。
邪馬台国の難升米らは、兵糧を贈り届けたわけです。
684: 2021/07/11(日)18:12 AAS
長雨で予定が狂って、兵糧切れで時間切れ撤退の危機にあった
司馬懿の大軍を、
邪馬台国から派遣された難升米らのもたらした兵糧が救ったわけですね。
公孫淵が襄平に逃げ込んだのも、司馬懿の兵糧切れを計算に入れてのことだったのでしょうが、
目論見は崩れて、公孫氏は滅亡したわけです。
魏は、呉・蜀・公孫氏、などからの包囲集中攻撃で滅亡していたかもしれない運命から、
邪馬台国からの兵糧によって、
一転して、公孫氏を滅ぼして東方の安全を確保することができわたけです。
これならば、金印に値する援護ですね。
685: 2021/07/11(日)18:21 AAS
高句麗は、方可二千里で三万戸。
『多大山深谷、無原澤。隨山谷以爲居、食澗水。無良田。雖力佃作、不足以實口腹。』
大きい山や深い谷が多く、平原湿原は無い。
良田は無く、畑作を頑張ってはいるが、口腹を満たすには足りない。
兵は強いものの、食料生産量は乏しかったわけですね。
一方の邪馬台国は、
『收租賦、有邸閣。國國有市、交易有無、使大倭監之。』
年貢があって、邸閣=食料倉庫、がある。
大倭が取り仕切る、稲荷の流通ですね。
温暖な北部九州倭国(卑弥呼邪馬台国)の、米が、アジア史に一役買ったわけです。
686: 2021/07/11(日)18:50 AAS
>>671
>>672
広志逸文に記録された、
『次伊邪國安倭(誤字)西南海行一日有伊邪分國無布帛以革爲衣盖伊耶國也』
伊邪國、伊邪分國、伊耶國。
西南海行一日ですから、長崎県諫早市(旧伊佐国)ですね。
難升米の故郷、ということになります。
687(11): 2021/07/11(日)18:50 AAS
大量の兵糧を補給してくれた難升米らを、
司馬懿は大喜びで迎え入れた。
魏の四万の大軍。
難升米はその将軍の壮麗な陣に招かれ、上機嫌の司馬懿と語り合ったわけですね。
司馬懿が日誌に残したから、難升米の出身地が記録に残った。
688: 2021/07/11(日)18:52 AAS
>>413
全てが繋がっていきます。
>息子の一人に金印を持たせて、西の長崎の多島海へ潜伏させた。
タケミナカタの息子の一人、おそらく長男が、金印を持って長崎に潜伏します。
吉野ヶ里遺跡は長崎タケミナカタ捕獲用の城で、
土壁を登って乗り越えてきたタケミナカタ兵を、戈で手前の溝に引き落として、
捕獲する。
倭国軍本軍(当初は祭祀型銅戈軍=ニギハヤヒ軍)は、
諏訪に逃げ込んだタケミナカタ本人一行の攻略に注力して、追いかけていきます。
省5
689(3): 2021/07/11(日)18:54 AAS
倭国乱の間に、
当時の筑後大物主(おそらく奴族オオクニヌシ系)と、
長崎タケミナカタの首領とが通じて、
漢委奴國王金印(小さな蛇)を根拠に、
狗奴国を立ち上げて、久留米〜吉野ヶ里を急襲制圧したのでしょう。
狗奴国軍は陸路で小城市→末蘆國(唐津)へ進軍。
考古学の通り、桜馬場遺跡までで末蘆王家は滅亡。
長崎タケミナカタ水軍が海路迂回してきて、
狗奴国軍と末蘆國で合流して、対馬海峡を制圧。
金印で封泥された外交文書を、後漢の実力者、曹操へ送り、
省2
690: 2021/07/11(日)18:55 AAS
狗奴国が一時は北部九州を制圧する勢いとなったが、
狗奴国王と、長崎タケミナカタとは、何らかの仲違いをした。
長崎タケミナカタは伊都に擁立された女王卑弥呼の側へ寝返った。
仲間になる条件が、金印の献上。
同じく諏訪のタケミナカタ勢も卑弥呼側となり、
だから平原女王墓には諏訪式の御柱が立っている。
691: 2021/07/11(日)19:53 AAS
『無布帛以革爲衣』
同じ北部九州にありながら、
長崎タケミナカタとして吉野ヶ里などと戦っていた。
倭国水軍が巳百支國経由で攻め込んで来たら、島から島へと逃げ回らないといけない。
だから絹などの布が手に入らず、革の衣服をまとっていたわけですね。
難升米について考えると、
タケミナカタの子孫。
諫早で生まれ育つ。
青少年期に倭国乱が勃発し、
父が筑後の大物主と通じて、金印(小さな蛇)を用いて狗奴国勃興に助力。
省4
692: 2021/07/11(日)19:54 AAS
景初二年(238)春、大率の諜報網から、
魏の大軍が公孫氏攻略に取りかかっており、
帯方郡と楽浪郡には既に魏から派遣された太守が着任していることを知る。
取り急ぎ大率長官である難升米本人が帯方郡へ向かい、
景初二年六月に到着。太守劉夏と国家間外交交渉。
遼東は長雨で、魏の大軍が足止めを喰らっている。
邪馬台国から兵糧を送ってもらえないか、との打診を受け快諾。
粘り強く交渉し、漢委奴國王金印の存在も持ち出し、
兵糧を送る代わりに、卑弥呼に金印を授与する、という外交交渉を成立させる。
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