[過去ログ] 邪馬壹國は北部九州に在った(王都は伊都国)part16 (758レス)
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752: 2021/08/25(水)21:57 AAS
現・嘉瀬川=旧・佐嘉川の川上にある、大和町の七ヶ瀬遺跡と、
吉野ヶ里遺跡の北にある、二塚山遺跡とを比較した場合、

後者は、東側、つまり奴国王時代の広義の奴国領域に近く、
副葬された銅鏡は内行花文鏡のみであり、
小型仿製鏡や、免田式土器など、奴国や狗奴国と繋がる性質がある。

前者は、西側で、末蘆國から佐賀平野へ進出する地点に近く、
副葬された銅鏡には方格規矩鏡が含まれており、
末蘆國の桜馬場遺跡の時代、つまりは伊都の井原鑓溝遺跡=107年師升の時代まで栄えており、
伊都天神族系の形質がある。

ことから、
省4
753: 2021/08/25(水)21:58 AAS
現在の佐賀市を中心とする、佐賀県南部に、
末蘆國から峠を越えた、「邪馬嘉國」ざまか、さまか、国があった。
その首都は、現・嘉瀬川=旧・佐嘉川の川上にある、
大和町の、都支國であった。

>>689
>狗奴国を立ち上げて、久留米〜吉野ヶ里を急襲制圧したのでしょう。
>狗奴国軍は陸路で小城市→末蘆國(唐津)へ進軍。
倭国乱に乗じて、狗奴国が勃興し、
佐賀の邪馬嘉國王家と、
唐津の末蘆國王家を、
省14
754: 2021/08/25(水)22:00 AAS
狗奴国の息の根を止めるべく、
第12代が鉄鏡回収作戦を発動した。

大分→宮崎→熊本→筑後と、
狗奴国王の退路を断ちながら、
時計回りに侵攻して、北へと追い立てる。

挟撃して鉄鏡ごと捕獲回収する作戦であり、
神夏磯媛(與止日女=壹與か、その次代)並びにヤマトタケルには、
牽制のみしておくよう指示しておいたが、
若いヤマトタケルが血気にはやって、
西の肥前川上(旧邪馬嘉國の首都=都支國)に逃げ込んだ
省15
755: 2021/08/25(水)22:01 AAS
伊耶=伊邪 いざ

伊佐 いさ

諫早

邪馬嘉國 ざまか(さまか) 天神族系

狗奴国によって一旦滅亡(魏志倭人伝の時期)

天神族系ヤマトタケルによって栄国=佐嘉 さか さが として復活
省2
756: 2021/08/25(水)22:04 AAS
57年の記録の一部抜粋なわけですね。
『廣志曰 倭(誤字)國東南陸行五百里到伊都國又南至邪馬嘉國百女國以北其戸數道里可得略載次斯馬國次巴百支國次伊邪國安倭(誤字)西南海行一日有伊邪分國無布帛以革爲衣盖伊耶國也』
『倭國東南陸行五百里到伊都國又南至邪馬嘉國 百女國以北其戸數道里可得略載次斯馬國次巴百支國次伊邪國 安倭西南海行一日有伊邪分國無布帛以革爲衣盖伊耶國也』
『倭國東南陸行五百里到伊都國又南至邪馬嘉國 自奴國以北其戸數道里可得略載次斯馬國次巴百支國次伊邪國 案倭西南海行一日有伊邪分國無布帛以革爲衣盖伊耶國也』

後漢から倭国に到着して、夏至の太陽を基準にした方角で、
末蘆國から東南に短里=東夷伝里で五百里で、伊都国の吉武高木宮殿へ到着する。
また、
末蘆國から南に行くと、邪馬嘉國(さまが国=現・佐賀市など)へ至る。

57年当時に倭国の南界を極めていた、奴国王全盛期の広義の奴国(中広形銅矛分布域)
広義の奴国よりも北の部分、つまり北部九州倭国の各地については、
省14
757: 2021/08/26(木)18:34 AAS
>>746
>そこから逆算すると、
>吉武高木大王がアマテラスで、早良平野が高天ヶ原。

吉武高木はもっと古いよ。
イザナギやその祖先の世代。

>神代=北部九州倭国の時代ということになり、

まあ、これは概ねその通りだと思う。
神代の王都である筑紫の日向は福岡県。
758: 2021/08/26(木)20:34 AAS
三国志の記述によれば3世紀の倭人は顔中体中真っ赤な入れ墨だらけ

ところが記紀では入れ墨族は
「天孫族」とやらにひたすら殺戮されていくウホウホ蛮族扱い

「天孫族」と入れ墨族のハーフのイワレビコが
入れ墨族の小邑を配下にしたという記述はあるが
イワレビコの配下の入れ墨族もやっぱり他の入れ墨族を殺戮していく
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