平原女王墓が卑弥呼って聞いたけど?Part986 (615レス)
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1(2): 7000+1000+400×2+1000+300×2+1000+500+100=12000 02/01(木)18:47 AAS
【平原遺跡の女王墓】
・1号+2号の共通の周濠が、短里だと径百余歩
・その周濠に複数の土壙墓 <それぞれに複数人ずつ殉葬か>
・超大型内行花文鏡5枚
・銅鏡39枚
・五尺刀 <鞘と柄を含めた全長だった>
・大量の中国朱
・後漢時代のガラス耳璫 <卑弥呼共立は後漢代>
・三雲遺跡から楽浪土器
里程と日程が並列で、月が日の誤写だと考えれば、
省6
596(1): 11/14(木)13:33 AAS
九州には太宰府があり王が居た痕跡を留めている
三国時代は分裂の時代で各地に独立した権力が存在した
公孫氏が独自の度量衡を制定しても何の不思議もない
魏等に公孫氏の勢力の地図情報が漏れた場合に魏とは違う里を用いていれば実際の大きさがわからない
1里400mの国に1里80mの国の情報が漏れた場合25倍の広さに見せかけられる。
597: 11/14(木)15:15 AAS
>>593
今まで日本の歴史や古代史はデタラメばかりだけだしね
九州には西都原古墳群という古墳時代でも仁徳天皇陵を除くと
日本最大クラスの九州栄華を誇ったであろう前方後円墳が存在してる現実
598: 11/15(金)13:03 AAS
魏志倭人伝の行程
里数行程
帯方郡⇒7000里⇒狗邪韓国⇒1000里⇒対馬国(400里×2)⇒1000里⇒一大国(300里×2)⇒1000里⇒末盧国⇒500里⇒伊都国⇒100里⇒奴国⇒100里⇒不弥国⇒1000里⇒倭種
(伊都国〜不弥国が女王国)
日数行程
帯方郡⇒投馬国(朝鮮半島南部)⇒邪馬台国(北部九州地域)
599(1): 11/15(金)15:21 AAS
>>596
長期間に綿って分裂していた春秋戦国時代でも実際には各国の度量衡は誤差程度のわずかな差しかなかったことが判明しているんだよ
あんまり違いの大きい度量衡を使うと政治的にも困るから変えにくかったんだ
だからこそ短里はない
600: 11/16(土)19:03 AAS
>>593
吉武高木遺跡に王宮がずっと営まれていたのだが、
それを無視して何言ってんの?
東夷伝里についても解釈出てるよ
2chスレ:archeology
漢魏が金印を贈った=漢魏以外の統治王朝を認めた=独自の里(東夷伝里)を認めた
つまり東夷伝里で記載された領域というのは、
奴国王
あるいは
倭王卑彌呼
省1
601(1): 11/17(日)08:17 AAS
>>599
春秋戦国時代に各国の度量衡は誤差程度のわずかな差しかなかったから短里はないとは言えない
他国と違いの大きい度量衡を使うと交易で不便なだけで支配者は困らない
中原の国々間では交易が活発に行なわれていたので成るべく近い値の度量衡が使用されただけ
公孫氏の領域は東夷であり中原との交易は然程活発ではなかったので不便は無かったのであろう
602(1): 11/17(日)12:37 AAS
>>601
問題点は二つ
公孫氏は長い間、少なくとも名目上は漢の臣下であって独立国ではないと装っていて、正式に独立してた期間は滅亡直前の短期間だけ
仮に独自の度量衡を作ってても、それを広めるほど長い時間はない
もうひとつ、下々は困っても君主は困らないと言うが、しもじもの不便は国力の低下として君主に跳ね返ってくるのだから争乱の時代には実行したくない下策
だからこそ春秋戦国時代にも度量衡は国ごとの地域差が少なかった
603(1): 11/19(火)06:59 AAS
なんで公孫氏だよ。
金印を貰った奴国王の度量衡だろ。
倭人=水上生活者=アマ、は里ではなく、日数を用いる。
倭種=陸上生活者=クニ、が用いたのが東夷伝里=短里。
遅くとも1世紀から用いられていて、
金印奴国王〜高句麗奴部諸族〜東夷各地に奴〇河
つまりは奴族=O1b2の里程だ。
604: 11/19(火)07:23 AAS
>>603
いや、倭人は度量衡を知らなかったろ
605: 11/19(火)20:53 AAS
>>602
確かに公孫氏が独自の独自の度量衡を使用した期間は短かったと考えられ
それを広めるほど長い時間はないかったろうね
そもそも公孫氏の勢力圏は異民族が殆どで中国の度量衡など知らなかった
使用してたのは支配階級の中国系の官僚で
その官僚が作成した資料が魏の手に渡り、それを基に魏志倭人伝等の東夷伝が作成されたんだ
官僚は国が新たな度量衡を定めれば直ちに切り替えて使用するから時間は掛からない
606(1): 11/19(火)21:19 AAS
独自の度量衡を用いる
イコール
独自の支配権を認められる
イコール
金印授与
候補は漢委奴國王と親魏倭王だが、
親魏倭王の倭人は里を知らないと当の三国志に記載されている。
だから自動的に漢委奴國王が東夷伝里を用いた支配者で倭種なんだよ。
日本列島での東夷伝里記載は侏儒國までであって、
それはつまり中広形銅矛の出土範囲と一致する。
607(1): 11/19(火)22:42 AAS
>>606
独自の度量衡を用いるってことは他に支配されない独立した勢力だってこと
魏に対する反逆
魏と違う度量衡を用いていたら魏は金印なんて授与しない
そもそも当時倭では度量衡は知られておらず使用されてはいなかったんだよ
臣従するなら年号とかも魏の年号を使用する。
608(1): 11/20(水)00:27 AAS
>>607
『漢委奴國王=漢は東夷世界を奴国王に委ねる』
印字そのものに明記されている通り、
漢が独立支配を認めたんだよ。
このような印字文体の金印銀印は唯一無二『漢委奴國王』だけ。
その考古学的物証が中広形銅矛の出土範囲との一致だ。
独立するのは反逆だけじゃない。反逆した哀れな勢力ならその勢力の度量衡など認めない。
対等の立場として独立して、それが認められたのが、金印。
もちろん臣従してなどいないから、漢の年号も使用していない。
逆に魏の年号を使用した国産銅鏡はある意味問題だ、ということになるな。
609(1): 11/20(水)06:35 AAS
>独自の度量衡を用いるってことは他に支配されない独立した勢力だってこと
ふむふむ。
>魏に対する反逆
なんで??
魏と親しくて、他に支配されない独立した勢力でもいいだろうに。
そもそも公孫氏の支配範囲は遼東と楽浪帯方郡であって、
その地域は短里が適用されていない。<地理的矛盾>
短里は後漢書にも記録されているから、
公孫氏以前から存在していた。<時間的矛盾>
結論:公孫氏と短里は無関係であり、短里など存在しなかった。
610(1): 11/20(水)19:29 AAS
>>608
そもそも「漢委奴國王」は委奴國王を漢の家臣としての国璽
魏と倭は対等の立場ではなく、冊封された立場
>>609
>短里は後漢書にも記録されているから、
後漢書は三国志等を参考にして書かれたものだよ。
611: 11/21(木)06:39 AAS
>>610
>そもそも「漢委奴國王」は委奴國王を漢の家臣としての国璽
>魏と倭は対等の立場ではなく、冊封された立場
用語の意味がわかっていないようだね。
>後漢書は三国志等を参考にして書かれたものだよ。
その程度の理解で論じているなら
君の解釈は大いに信用ならない。
それらしいデマをまき散らしているだけ。
612: 11/22(金)23:52 AAS
畿内説が知能後退して議論回避サル踊りしてるの
マジ笑えるねw
結論が出るのを何とか先延ばしするためだけの
アホ言葉サル踊りしてウッキッキーwww
613: 11/25(月)06:33 AAS
伊邪那岐・伊邪那美 いざなぎ・いざなみ
邪 呉音ジャ 漢音ヤ
中国南部の浙南石棚墓群つまり呉太伯末裔が前10世紀に長崎伊邪國に少数漂着渡来したから、
「邪(耶)=ざ」として漢字を宛てた。
伊邪國伊耶國いざ 伊佐国いさ 諫早いさはや
阿耶訶あざか 邪馬嘉國ざまか 大坂 栄 佐嘉 佐賀さが
邪馬壱國ざまい (佐馬壱) 雀居遺跡ささい
中国北部出身の張政が来倭して、倭やまとに宛てたのが邪馬台国で、
邪馬台国の「邪=や」だけ中国北部系。
614: 11/25(月)06:34 AAS
いざ
伊邪國:長崎諫早(伊佐国)
已百支國:伊万里
末蘆國:唐津平野・菜畑遺跡(吾田)柏崎遺跡(笠沙岬)
伊都國(魏代):糸島平野(日向)井原鑓溝遺跡(吾平山上)潤地頭給遺跡(吾平津)
伊都國(漢代):早良平野(日本)吉武遺跡(高天原)
斯馬國:糸島半島(士摩)
奴國:那珂比恵遺跡〜須玖遺跡(葦原那珂津国)
不彌國:雀居遺跡(邪馬壱國)ざまい
豊国
省10
615: 11/25(月)06:36 AAS
結局のところ、弥生時代最大都市は奴国弥生銀座二万戸がダントツ。
畿内説にしても邪馬台国七万戸なんて畿内全体をかき集めるしかない。
畿内説:日程の南を東に捏造して、畿内での広域邪馬台国
伊都説:里程と日程は文体が異なることから並列で、北部九州での広域邪馬台国
矛盾が無いのは伊都説だね。
首都が伊都。
卑弥呼墓は国宝平原女王墓。
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