5世紀頃までの国境と守備軍事的長ヒナモリ Part1.1 (761レス)
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134: 02/19(月)17:57 AAS
>これも縄文草創期の隆起線文土器だけど、口縁部を太くすれば刻目突帯文土器だろ?。
隆起線文土器(りゅうきせんもんどき)
隆起線文土器は、口縁部や胴部の上位に粘土を帯状にめぐらせる意匠(隆起線文・隆線文)
とその手法が用いられた、縄文時代草創期初頭(1万2000年前頃)の一群の縄文土器をいう。
北海道や南西諸島を除く各地に分布する。
外部リンク:www.tokamachi-museum.jp
画像リンク[JPG]:ja.wikipedia.org
135: 02/19(月)17:57 AAS
「下本山岩陰」出土の曽畑式土器
外部リンク[html]:www.lifesasebo.com
136: 02/19(月)18:05 AAS
長江・東シナ海ルートについては、日本から向かって行くのは遣唐使船の例を
挙げるまでもなく古代においては相当困難な航路なのですが、
逆に来るのは西風・対馬海流の順風・下流方向でそうでもないという話を聞きました。
現在でも上海辺りから漂流して自然に九州に着く船があるそうです。
そのため長江流域から稲をもたらしたのは、計画された船団ではなく
遭難して漂流してきた小舟だった可能性があるとの話でした。
そして、たまたま縄文人家族に助けられた中に農業に詳しい遭難漂流民がいて
水田稲作の方法を教えた。
137: 02/19(月)20:05 AAS
>江戸時代の200年間だけでこれだけの遭難者(記録に残る者だけ)
古代中国沿岸から数千年の間に九州・奄美諸島への遭難、漂流者は互いに相当数いたはず。
数千人以上か?。丸木舟、筏での漁民や交易船などは強い西風で直ぐ遭難する、
東シナ海の中央部まで流されると対馬海流に吸い込まれて対馬方面に流される。
江戸時代の漂流者の一覧
長右衛門 - 寛文10年(1670年)、小笠原諸島に漂着。
伝兵衛 - 元禄9年(1696年)、カムチャッカ半島に漂着、ロシア帝国に渡る。
ゴンザとソウザ- 享保13年(1728年)、カムチャツカ半島に漂着、ロシアに渡る。
孫太郎 - 明和元年(1764年)、フィリピンに漂着。
大黒屋光太夫 - 天明2年(1783年)、アリューシャン列島に漂着、ロシア帝国に渡る。
省2
138: 02/19(月)20:06 AAS
津太夫 - 寛政5年(1793年)、ロシアのアリューシャン列島ウナラスカ島に漂着。
太十郎 - 寛政5年(1793年)、ロシアのアリューシャン列島ウナラスカ島に漂着。
儀兵衛 - 寛政5年(1793年)、ロシアのアリューシャン列島ウナラスカ島に漂着。
阿部吉郎次 - 寛政5年(1793年)、ロシアのアリューシャン列島ウナラスカ島に漂着。
善六 - 寛政5年(1793年)、ロシアのアリューシャン列島ウナラスカ島に漂着。
継右衛門 - 享和3年(1803年)、千島列島に漂着。
平原善松 - 文化3年(1806年)、アメリカ船に救助されハワイ諸島に渡る。
久蔵 - 文化7年(1810年)、カムチャツカ半島に漂着、ロシアに渡る。
小栗重吉 - 文化10年(1813年)、イギリスの商船に救助されロシアに渡る。
139: 02/19(月)20:07 AAS
音吉 - 天保3年(1832年)、アメリカのオリンピック半島に漂着。
庄蔵 - 天保5年(1834年)、スペイン領のルソン島へ漂流する。
寿三郎 - 天保5年(1834年)、スペイン領のルソン島へ漂流する。
ジョン万次郎 - 天保12年(1841年)、アメリカ捕鯨船に救助され渡米。
浜田彦蔵 - 嘉永4年(1851年)、アメリカ商船に救助され渡米。
仙太郎 - 嘉永4年(1851年)、アメリカ商船に救助され渡米。
小林伝吉 - 嘉永4年(1851年)、アメリカ商船に救助され渡米。
勇之助 - 嘉永5年(1852年)、アメリカの商船に救助され渡米。
140: 02/19(月)20:11 AAS
熊本の縄文時代遺跡からも稲作の痕跡
が、さらに同年7月には熊本市教育委員会が熊本県の指定遺跡になっている
本渡市(現在の天草市本渡町広瀬)の大矢遺跡にある約5000〜4000年前の地層から
十数年前に出土していた土器に、稲もみの圧痕(あっこん、長さ約3?、幅約1?)が
ついていたことを発表して、大きな話題となりました。
このような圧痕については、1992(平成4)年に、岡山県総社市(そうじゃし)の
南溝手(みなみみぞて)遺跡(縄文後期、約3500年前)から出土した土器に
ついていた圧痕が最も古いとされていましたが、この大矢遺跡の圧痕の発見で、
日本における稲作の起源がさらに500年以上、遡ることになったのです。
141: 02/19(月)20:12 AAS
編鐘(へんしょう)日本では銅鐸
>この墓には編鐘(銅鐸に似た青銅器)が9個と玉璜、棺は朱色に着色されてる。
洛陽市で春秋後期の戎族王級墓見つかる 河南省春秋時代(紀元前770年〜同476年)後期
外部リンク:www.afpbb.com
>この墓も銅鐸に似た編鐘と棺内には朱色(丹、水銀朱か)が塗られてる。
曾侯乙墓は戦国(紀元前 475〜221 年)早期と鑑定されてる。
曾侯夫人羋加墓中出土的部分青銅器
外部リンク:www.bastillepost.com
142: 02/19(月)20:13 AAS
中国江蘇省無錫市にある春秋戦国時代(紀元前770−同221年)の地方国家、
越の貴族墓から、江蘇省の陶器鐸
画像リンク[jpg]:livedoor.blogimg.jp
日本銅鐸
画像リンク[jpg]:livedoor.blogimg.jp
143: 02/19(月)20:14 AAS
>南越国内の遺跡から出土した「巴形模様が刻印された」青銅、鼎。
広東省・恵州・縛楼(木編なし)古国遺跡 始于春秋時期 3000年前
画像リンク[jpg]:i1.kknews.cc
画像リンク[jpg]:www.people.com.cn
144: 02/19(月)20:15 AAS
>弥生時代の代表的、吉野ケ里遺跡で日本最古の銅矛の鋳型や
巴形銅器など、全国から100点以上出土している、珍しいデザインの銅器です。
古代の日章旗と云われる。 「巴形銅器」
外部リンク[html]:www.maibun.com
さぬき市・森広遺跡の巴形銅器
外部リンク[html]:doutaku.cocolog-nifty.com
145: 02/19(月)20:18 AAS
言語との関連
朝鮮半島における無文土器文化の担い手は現代日本語の祖先となる
日琉語族に属する言語を話していたという説が複数の学者から提唱されている。
これらの説によれば現代の朝鮮語の祖先となる 朝鮮語族に属する言語は
古代満州南部・長白山周辺から朝鮮半島北部にわたる地域で確立され、
その後この朝鮮語族の集団は北方から中部へ拡大し、
朝鮮半島中部から南部に存在していた日琉語族の集団に置き換わっていったとしている。
またこの過程で南方へ追いやられる形となった日琉語族話者の集団が
弥生人の祖であり倭人達であるとされる。
146(1): 02/19(月)20:20 AAS
>つまり、この話へと繋がって行くんだろ。
『山海経』第十二「海内北経」(鉅燕、紀元前1100年頃 ~ 紀元前222年)
紀元前300年頃の様子を記したと思われる。
「蓋國在鉅燕南 倭北 倭屬燕」のころの倭集団を「辰国」と中原王朝は呼んでいた。
辰国は『史記』『漢書』によると、衛氏朝鮮の時代(紀元前2世紀)に
朝鮮半島の南部に存在したとされる国である。
「蓋國在鉅燕南 倭北 倭屬燕」
蓋國(今の北朝鮮辺り)は鉅燕(巨大なる燕)の南、倭(今の韓国辺り)の北にあり、
倭(今の韓国辺り)は燕に属す。
147: 02/19(月)20:24 AAS
丸木舟を作る道具の丸ノミ形石斧(鹿児島栫ノ原遺跡・世界最古1万2千年前)が
日本全国からと沖縄本島、奄美群島、種子島からも出土してる。
黒潮本流を横切り伊豆諸島の八丈島まで渡り、縄文人の航海能力には驚かされる。
そもそも朝鮮半島の東海岸沿いには縄文人たちが九州の結合式釣り針を持ち込んでる
約7,300年前に生じた鬼界カルデラの噴火で南九州は住めなくなり
北上した一部が朝鮮半島東岸に移住した、
彼らが半島南岸、金海市周辺にも縄文遺跡を残してる。
148: 02/19(月)20:25 AAS
対馬海峡を挟んだ日韓新石器時代の交流
外部リンク[pdf]:saikaikouko.jp
縄文式土器や韓国新石器時代早期から中・後期の土器が,対馬海峡を隔て
朝鮮半島南海岸地域と対馬・九州西北地域から出土している。
これらの土器は,日韓交流の歴史を雄弁に語っている。
江原道高城文若里遺跡(壷5)では縄文早期から前期前半にあたる隆起文土器の段階に
石錯とともに石鋸が出土するなど出現時期が異なるものもあり,貝輪製作でも
両地域で詳細にみると違いが認められる。
慶尚南道巨済島大項浦遺跡(註17)で縄文前期の轟B 2式土器,煙台島貝塚からは
後期の阿高系土器が出土している。
149: 02/19(月)20:34 AAS
釜山東三滴貝塚からは縄文前期後半の曾畑式土器,中期の船元系土器,
後期の南福寺式土器などがまとまって出土しており,朝鮮半島南海岸地域側の交流の
重要拠点となっていたと考えられる。
新若里遺跡(註20)から後期初頭の阿高系土器,ほぼ同時期と考えられる土製耳飾,土偶
などか出土し,上老犬島貝塚(註21)から中津式系土器(九州の在地型)などが
「直接持ち込まれた」土器の確実な例としてあげられる。
次の時期,縄文時代の中期から後期(韓国新石器時代中期一後期前半)にかけては,
「直接持ち込まれた土器」の量と分布範囲は若干拡大して,遺跡数も増加する
傾向が見られる。口の印で表示された遺跡がこれにあたる。
150: 02/19(月)20:40 AAS
無文土器(むもんどき)とは、
朝鮮半島における青銅器時代(無文土器時代)の指標となる土器。土器の表面に,
櫛目文土器の幾何学的文様のような施文がほとんど行われなず、無文のものが多いため、
無文土器と呼ぶ。同様の土器の無文化は沿海州でもみられる。無文土器の上限は
およそ前1千年紀前半期にあり、下限は北部で前3世紀頃、南部で紀元前後頃と思われる。
日本の弥生文化成立に深く関係し、北部九州、山口では弥生土器に伴い
粘土紐貼付口縁土器が出土している。後期の無文土器は、北部九州地方をはじめとして
日本列島各地の弥生時代の遺跡から出土し、吉野ヶ里遺跡でも朝鮮系無文土器が多く出土。
この朝鮮系無文土器の担い手こそ、つまり日琉語族の集団で弥生人、倭人なのである。
151(1): 02/19(月)20:49 AAS
遼東半島、偏堡文化、無文土器は弥生文化と連動してるが
確かに弥生土器は磨製の無文土器とは違う、未熟さがありな粗野な造り、
これは、弥生人が持ち込んだ無文土器を恐らく慣れない土着民たちが造ったからだろう。
偏堡文化、無文土器、弥生人は技術移転として黒色磨研土器(1100BC頃)を制作した
制作技術は明らかにレベルが違う、ロクロを使ってて手が切れそうなほどの鋭さがある。
弥生土器は土着民たちが造ったもので無文土器職人とは、ちと違う。
これで縄文晩期にハイテク品、黒色磨研土器(1100BC頃)が突然現れた謎が解けた。
152: 02/19(月)21:03 AAS
九州西北部の支石墓も内部には縄文時代後・晩期の土器が多く、細形銅剣なども、
偏堡文化、無文土器、弥生人たちが
韓国中部、松菊理遺跡時代(600BC頃)に技術習得し、九州時代でも造り使用した。
この松菊理遺跡には最古の「三種の神器」が登場した遺跡。
偏堡文化は遼東半島の文化で山東半島から来たと思われる日琉祖語族O1b2a1a1だったり
遼河周辺から来たと思われる、満州南部方面の朝鮮語族O1b2a1a2とは
余り交流が無かったためかY-DNAの混在が少なく、ほぼ同族を保持してた。
153: 02/19(月)21:06 AAS
長江辺りから直接九州、半島南部、に来た者たちも少なからず居たはず
長江と五島列島とは渡り鳥のルートで春と秋の渡りの季節には
2か月に渡って数百万羽が移動する、渡り鳥と夕暮れのオリオン座三ツ星さえ
追いかければ方向を間違える事は無い。
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