5世紀頃までの国境と守備軍事的長ヒナモリ Part1.1 (815レス)
上下前次1-新
248: 2024/03/24(日)18:37 AAS
武王とは周王朝の祖である。従って、周代から粛慎は楛矢と石砮を
献納していたようだが、それに関して、次のような記録がある。
(紀元前1066年)周の武王が商の紂王を討ち、朝歌(河南省淇県)を陥落させて占領し、
商は滅んだ。奉納を命じる前に(粛慎が)祝賀に来朝し、楛矢と石砮を献納した。
(『尚書』)
(紀元前1016年)成王が東夷を討伐。粛慎が来朝の時、成王は大臣の茉伯を派遣して
『粛慎に命じて作る』(と楛矢に刻印させた)。
「楛矢」 楛(こ)は、中国原産の牝荊(にんじんぼく)に似た赤い落葉潅木で、
幹が矢幹(やがら)に適している。それで作った箭杆(矢)を楛矢という
(新撰漢和辞典『三省堂』)。
249: 2024/03/24(日)18:40 AAS
ツングース族の弓の歴史は、この粛慎の楛矢から始まったと言える。
高句麗の始祖は朱蒙とされるが、朱蒙は人名ではなく、弓の名人という尊号で、
弓は神聖な武器だったのかもしれない。粛慎の後裔とされる濊貊には檀弓、
高句麗にも貊弓がある。
石砮は松花江の硬い青石を研磨して作った箭杆(やじり=鏃)をいう。
ちなみに、咫の訓読は「あた」、音読は「し」、周尺の八寸(18?)とされる。
長さを測ることを「寸法を咫(あた)る」というが、これが語源である。
『晋書』粛慎伝
周の武王の時代、楛矢と石砮を献じる。周公が成王の補佐していた時代に
再び遣使が朝賀に来た。その後千余年、秦漢の隆盛時といえども来貢しなかった。
省3
250: 2024/03/24(日)18:44 AAS
粛慎の末裔には「勿吉、靺鞨、女真」がいるが、彼らの言葉では粛慎は「ジェション」。
これを「女真」と漢字表記したのが女真(満州)族である。
どこか朝鮮「チョソン」と似ている。不咸山とは「長白山」のこと。
韓族は「白頭山」と呼び、祖先の聖地としている。
251: 2024/03/24(日)19:06 AAS
『三国志』にも「肅愼氏一名挹婁」とある。
深い竪穴を住居として言語は濊貊系とは異なり、養豚・毒矢の使用・人尿による洗顔など
多くの習俗が勿吉・靺鞨と共通している。邑落ごとに分立して沃沮・夫餘などと抗争し、
楛矢を以て漢・魏・晋・前秦などに朝貢したが、政治的に統合される事はなかった。
女直と呼ばれる前には粛慎(しゅくしん:みしはせと同一かは不明)、
挹婁(ゆうろう:扶余から独立した。人尿洗顔の習俗があった)、
勿吉(もっきつ:挹婁と同じく人尿洗顔の習俗があった)、
靺鞨(まっかつ:挹婁・勿吉の末裔で人尿洗顔の習俗があった)
という部族がいたらしい。
その中の黒水靺鞨という一派が人尿洗顔の狩猟民族(女真)と自称した。
省8
252: 2024/03/24(日)23:45 AAS
挹 婁(ゆうろう)
『三国志魏書』挹婁伝
挹婁は扶余の東北千余里に在り、大海に沿い、南は北沃沮と接し、
未だその北の極まる所を知らない。土地には多くの険山がある。
姿形は扶余に似ているが、言葉は扶余や高句麗と同じではない。
(中略)
そこの人々は不潔で、中央に便所を作り、人々がそれを囲んで住んでいる。
その国は船で略奪をするので、隣国はこれを患いとしている。
東夷は飲食のときに俎豆(そうず=お膳)を使うが、ただ挹婁だけは用いない。
法俗は最も綱紀が無い (最悪の無法者)なり。
省8
253: 2024/03/26(火)05:54 AAS
1950年代に遼寧省瀋陽市の偏堡子(へんほし)村の砂丘で発見された
「偏堡文化」の土器が、弥生土器のルーツであることが分かっています。
農耕文化と一緒に南下し、日本列島に上陸しました。
弥生土器のルーツだったことが明らかにされた遼東半島の「偏堡文化」は、
紀元前2400年頃の畑作農耕文化です。宮本一夫氏は、彼らが古日本語を話していたと
考えていて、900年以上かけて朝鮮半島を南下し、紀元前1500年頃、
朝鮮半島南部で稲作農耕文化を始めた人たちだとしてます。
紀元前1500年といえば、中国中原では、殷王朝が成立した時期にあたります。
この殷代前期までの中国中原は、「初期青銅器時代」にあたるとされ、
殷代中期から「初期」の名前が外れた青銅器文化に進化していくとのことです。
省1
254: 2024/03/26(火)06:19 AAS
研究代表者が提起する東北アジア初期農耕化4段階説の内、
第2段階の山東半島から遼東半島へのイネの伝播仮説を、土器圧痕調査で実証した。
同段階の偏堡文化の朝鮮半島無文土器文化の成立への影響を、
山東半島・遼東半島の土器製作技術の調査によって明らかにした。
また、この段階の山東半島の水田の存在について
楊家圏遺跡のボーリング調査によって示した。
さらに第4段階の北部九州の弥生文化の成立年代を炭化米の年代によって明らかにした。
DNA人類学の研究史−特に日本人とアイヌ ...
外部リンク:note.com
255: 2024/03/26(火)23:20 AAS
山東龍山文化(りゅうざんぶんか、龙山文化、ロンシャン・ウェンフア,
紀元前3000年頃-紀元前2000年頃)は、中国北部(華北)の黄河中流から下流にかけて
広がる新石器時代後期の文化である。黒陶が発達したことから黒陶文化ともいう。
山東北部の黄河流域ではアワ·キビが主体であり、
さらに山東南部の黄海沿岸地域ではイネが主体であることが示された。
したがって、山東龍山文化期にはイネが長江下流域から黄海沿岸を北上し、
山東半島のアワ·キビ農耕地帯に伝播しながら、
イネへの生業の依存が高まる形で山東半島先端へと伝播したと考えることができる。
その年代は遅くとも紀元前2500~2000年の時期である。
この時期、朝鮮半島の漢江下流域や·錦紅流域の半島中南部地域では、
省6
256: 2024/03/26(火)23:37 AAS
アワ·キビ農耕に山東半島南部にイネが入ってきたのと同じように、
半島南部のアワ·キビ農耕にイネが加わった段階であるということができるであろう。
しかしそれは水田などの灌漑農耕を伴う集約的な農耕段階ではなかった。
自然農法に近いものであったであろう。こうした紀元前2500~2000年頃に、
アワ·キビ農耕にさらに栽培穀物としてイネが加わる段階を、
東北アジア農耕化第2段階と呼ぶことができるだろう。
この段階は、沿海州南部を含む東北アジアでは、穂摘み具である石包丁や、
伐採具である遼東型石斧、木工工具の扁平片刃石斧·柱状片刃石斧が出現する段階である。
このような石器群がまとまってより古い段階から出現しているのは、
東北アジアでは遼東半島ということができる。しかしこれら石器群は
省4
257: 2024/03/27(水)00:04 AAS
日本列島の文明起源と交流 .宮本一夫
Dankook University
外部リンク:cms.dankook.ac.kr›widget›web›-orientalPDF
もちろん石鏟は水田の畦畔を作る際に使うこともできる。このことから見れば、
山東半島の龍山文化・岳石文化には畝立てによる畠が存在していた可能性 ...
朝鮮半島無文土器文化の畠遺構や水田遺構の畝立てや畦畔作り
あるいは耕起具として石製鍬·鋤が木製素材に転化したものと考えられる。
このように考えていくと、畠·水田とその農耕具(鍬、鋤、石包丁)が複合して
山東半島から遼東半島を経由して朝鮮半島へと技術が広がっていったのであり、
その線上に北部九州の弥生早期が存在することになる (宮本2008c)。
省6
258: 2024/03/27(水)19:34 AAS
何なのかな
259: 2024/03/27(水)19:35 AAS
+0.5%
何がある
260: 2024/03/27(水)19:38 AAS
ドカタ 建設業はコロナ運ゲーやな
しかし
車中泊も意識してるよな
あれがジェイクて確定したの
261: 2024/03/27(水)19:38 AAS
>>115
え?そんなことするはずない!と言ってなんとかせんと
助からんまである
262: 2024/03/27(水)19:41 AAS
名前忘れたけど車はあったような。
263: 2024/03/27(水)19:42 AAS
副作用に書いてないけど、200株以上だと含み損膨らむのが丸わかりなくらいの過疎銘柄に草
264: 2024/03/27(水)19:51 AAS
どうすればいいか書いてもジャニの恥晒すことが下落の指標となると思ってたしくだらない小さなことで燃えるバスって大問題では?
大型トラックの運転困難に備えて
265: 2024/03/27(水)19:53 AAS
嵐は温室の雑草だから大丈夫だよ
SNSに発信し続けるしかない
266: 2024/03/27(水)19:56 AAS
>>163
なんなら「10時台に上がってやることがおっさん過ぎるで
267: 2024/03/27(水)19:58 AAS
とゆう話に広がりがなくなった。
ほんとに売れてないんだろうけど
上下前次1-新書関写板覧索設栞歴
あと 548 レスあります
スレ情報 赤レス抽出 画像レス抽出 歴の未読スレ AAサムネイル
ぬこの手 ぬこTOP 0.011s