5世紀頃までの国境と守備軍事的長ヒナモリ Part1.1 (826レス)
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353: 2024/04/17(水)18:12 AAS
支石墓の謎
外部リンク[pdf]:www.nagasaki-maibun.jp
354(1): 2024/04/17(水)18:29 AAS
済州島 済州龍潭竜洞4号支石墓(板 囲石式支石墓・石小屋墓)
外部リンク:www.sankei.com
済州島にも支石墓があるが、ここの支石墓は変わっている。墓は地上に造られていて、
板石を楕円形に立て並べた形は卓子形に通じないこともないが、印象はまったく異なる。
これとそっくりの支石墓を、実に意外なところで見た。
「中国浙江省瑞安」には、不思議なことに支石墓(石棚墓)が集中している。
しかも、済州島の板 囲石式支石墓に酷似していた。
囲石式支石墓 (済州式支石墓)
済州式と呼ばれる囲石式支石墓は埋葬主体部が地上に露出しているが、
数枚の板石が上石の下端に沿って立てられた形態を呈する。
省5
355: 2024/04/17(水)18:46 AAS
類似する形態のものは「中国浙江省瑞安地域」でも見られる。
浙南石棚墓群(板 囲石式支石墓・石小屋墓)
外部リンク[html]:www.zj.gov.cn
済州島の囲石式支石墓 (済州式支石墓)と比べると、
板囲い石が散らばってて印象が違うが造営時にはキチンと板石が並べられてたんだろう。
356: 2024/04/17(水)20:33 AAS
済州島 『三国志』『後漢書』「州胡」
耽羅(たんら)、耽牟羅(たむら)、屯羅(とんら)とも表記される。
耽羅の前身である州胡の人は言語が韓と異なり、背が低く、
鮮卑(匈奴あるいは烏桓も含む)のように髪を剃った弁髪の風習を持ち、
上半身に革の衣を着たが下が覆われず裸に近い。
牛と猪を飼い、船で往来して韓と交易した。
これは当時の韓の風俗として記されるものと大きく異なっている。
357: 2024/04/17(水)20:54 AAS
屯(たむろ)「屯する」 耽牟羅(たむら)
? 仲間や同じ職業の人々などが寄り集まっていること。 また、その集団・場所。
日本に来た耽羅国の使者としては、「阿波伎あわき」「姑如こにょ」「椽磨てま・たま」
「久麻伎くまき」、「都羅とら」、「宇麻うま」等の名が知られている。
358: 2024/04/17(水)21:43 AAS
長崎県の支石墓群(縄文時代晩期から弥生時代中期)
外部リンク[cgi]:www.nagasaki-maibun.jp
外部リンク[html]:kodaisihakasekawakatu.blog.jp
◎ 原山(はらやま)支石墓 《長崎県南島原市》
島原半島西南部の標高240〜250m前後に立地している支石墓群です。
支石墓群は大きく3群にわかれ、合計100基近く存在しており、
わが国最大規模の支石墓群として国指定史跡に指定されています。
支石墓の下部構造は、石棺が90%程度を占め、ほかには石囲甕棺(いしがこいかめかん)、
土壙甕棺(どこうかめかん)、土壙(どこう)などが確認されています。
◎ 大野台(おおのだい)支石墓 《長崎県佐世保市》
省3
359: 2024/04/17(水)22:44 AAS
済州島から上海まで約400km、
奈良時代、日本書紀には済州島から杭州湾会稽山まで2日と8時間で着いたと記録されてる。
だとすると56時間で450kmくらいか? 計算すると平均速度8.036km。
カヤックフォアでは時速20?を超えるスピード。
平均速度8.036km。で、まる2日半漕ぎっぱなして事か? 人が歩く速度が4km/h 。
ふだん漁労生活で櫓を漕ぐのは慣れたもの、少数交代で無理な数字でも無いか?
博多湾から大和まで30日だから楽勝か??
360: 2024/04/18(木)00:00 AAS
岡山県古代吉備文化財センター 変化する縄文時代観 更新日:2019年10月15日更新
外部リンク[html]:www.pref.okayama.jp
前者については、今から10年前に報告書が刊行された岡山県南部の総社市南溝手遺跡
の調査成果がまず挙げられる。ここでは縄文時代後期後葉(約3500年前)の
土器の器面に籾の痕跡が残る土器(籾痕土器)が発見され、大きな話題を呼んだ。
ほぼ同時期の籾痕土器は、倉敷市福田貝塚などからも出土している。
この籾痕土器のほかに、コメが作られていたことを示す証拠にはプラント・オパール
がある。プラント・オパールは、コメやススキなどのイネ科植物の葉の細胞にできる
植物珪酸体とよばれる、ガラス質細胞のことである。
プラント・オパールは植物が枯れた後も半永久的に土壌に残るため、
省3
361: 2024/04/18(木)00:01 AAS
土器の胎土中から検出されたイネのプラント・オパールについては、
後世の混入の心配がなく、信頼性の高い資料である。最古のものとしては、
美甘村姫笹原遺跡の縄文時代中期中葉(約5000年前)の事例があり、このほかに
縄文時代後期中葉(約4000年前)の岡山市津島岡大遺跡例と南溝手遺跡例がある。
以上の証拠から、縄文時代にコメが存在したことは確実視されており、
イネの栽培が行われていたことも多くの研究者によって指摘がなされている。
ただし、イネの栽培が行われていたといっても、これまでの生業形態に新たに
稲作が加わった程度であり、稲作が生業全体の基本に位置づけられる
弥生時代とは区別して考える意見が大勢を占めている。
362: 2024/04/18(木)02:49 AAS
BS-TBSの諸説あり!の映像らしいが、
弥生時代の鉄鏃が大量に出土した場所が九州を横断するように存在している
どう見てもここが邪馬台国と狗奴国が戦闘してた戦線=国境ライン
画像リンク[jpg]:i.imgur.com
熊本も菊池川より北側あたりは女王国に属していたようだ
これは免田式土器の分布とも一致する
画像リンク[jpg]:i.imgur.com
画像リンク[jpg]:i.imgur.com
363(1): 2024/04/18(木)04:26 AAS
広志には「百女国以北其戸数道里可得略......
又、南して邪馬嘉国に至る。百女国より以北、其の戸数道里
文中の「邪馬嘉国ヤマガ山鹿」の嘉は臺と酷似しており、
「嘉は臺」の誤字だろうで、「邪馬台国」が定説になった。
邪馬嘉国(ヤマガ山鹿市) 、百女国(八女市)も含む、北部全てが邪馬台国なのである。
熊本県菊池川の北側には鉄剣が出土した江田船山古墳そばに、山鹿市などがある。
広志などの、百女国(八女市)と邪馬嘉国(ヤマガ山鹿市)以北、が邪馬台国と書かれており、
手前の女国とは八女津姫、田油津媛(たぶらつひめ)伝説などがある八女市だろう、
なお、南限 百女国と邪馬嘉国(ヤマガ山鹿市)の、その南が敵対関係の狗奴国である。
364: 2024/04/19(金)18:32 AAS
国立歴史民俗博物館(歴博)の見方では、弥生時代開始時期の上記大幅繰上げの
主張を踏まえて、春成秀爾氏は「弥生の始まりを考えるには、殷(商)が滅亡し
西周が成立するころ(紀元前11世紀)の時代背景を検討しなければならなくなった」
と、東アジア全体の古代像を再検証する必要までを指摘した。
殷の滅亡が稲作の担い手にどのように影響したというのだろうか。
殷は鳥・敬天信仰などから、もともと東夷系の種族とみられているから、
南方起源の稲作には関係ないはずである。
また、殷の滅亡時期も、実際にはもう少し遅かったという可能性があり、
中国春秋時代以前の年代が若干遡上気味に間延びしている傾向があるとの指摘もある。
365(1): 2024/04/19(金)18:37 AAS
東洋史研究者の岡田英弘氏も越人の役割を高く評価しており、その著『倭国』で、
「越人の海上活動は、……燕人の朝鮮半島進出よりも一足早かったのだから、
日本列島に弥生文化を持ち込んだのは、実は越人だったかも知れない」と記している。
春秋時代後期から戦国時代にかけての越の動向を見ると、呉を滅ぼした越王勾践は、
その都を現在の山東省の琅邪(一説に江蘇省連雲港)に遷し、
諸侯と会盟して中原の覇者となった。この段階で、山東半島は越の領域におさめられた。
紀元前333年頃、勾践の六世の子孫である無彊の代に、
楚の威王の遠征によって無彊王は殺害され、越は楚に滅ぼされた。
その際、一部の越王族が南方の?(現在の福建省地方)に逃れ、?越と呼ばれ
弱小勢力になったとされるが、東方の黄海を経て韓地南部に逃れた集団があったことも、
省3
366: 2024/04/19(金)20:06 AAS
紀元前333年頃、越の滅亡が、中国から韓地にかけての越人に大きな刺激を与え、
これを契機として、越人の一部集団が日本列島まで到達したことは、
想像に難くないし、多くの傍証があげられる。
その場合、その到達時期は前四世紀の後半から前三世紀という期間ということになる。
青銅器技術では、越では銅の生成技術に優れ、1965年に湖北省江陵県望山一号墓より
出土した銅剣は表面に硫化銅の皮膜が覆い錆びない状態で現在も保管されるといわれる。
越人は竜蛇信仰をもつ夏王朝の流れを汲むと伝え、潜水漁法などの漁撈や海事に優れる。
『荘子』によると、当時の越の人々は頭は断髪、上半身は裸で入れ墨をしていたというが、
この辺の習俗は『魏志倭人伝』に見える倭の水人の習俗に通じる。
博多平野にあった奴国は、越人の嫡裔であったろうし、
省1
367: 2024/04/19(金)20:10 AAS
日本列島の古代氏族のなかでは、阿曇連などの阿曇氏族、春日臣などの和珥氏族、
三輪君・鴨君などの三輪氏族、尾張連などの尾張氏族などでは、
海神後裔と伝えたり海人性が強く、後世まで竜蛇信仰を持ち続けた。
阿曇連や和珥支流には入れ墨の習俗があったことが記紀などの史料に見える。
和珥氏族のワニとは古代江南に棲息した「鰐」に由来したものであった。
竜蛇信仰は各種文献や神祇資料に見え、三輪山の神・大物主命は蛇の化身など
多くの神々が竜蛇あるいは鰐として現れる。
吉備の地、岡山県倉敷市矢部では、竜を立体的に表現した土器の出土もあるが、
吉備地方に古代から繁衍した吉備臣一族も、三輪氏族の支流に出たものであった
(和珥氏族や吉備氏族では、後に皇孫だと系譜仮冒した事情もある)。
368: 2024/04/19(金)20:29 AAS
? 呉 (春秋)
紀元前12世紀から紀元前473年、七代の夫差まで続き、越王の勾践により滅ぼされた。
?
呉を滅ぼした越王勾践は、その都を現在の山東省の琅邪(一説に江蘇省連雲港)に遷し、
諸侯と会盟して中原の覇者となった。この段階で、山東半島は越の領域におさめられた。
?
紀元前333年頃、勾践の六世の子孫である無彊(むきょう)の代に、
楚の威王(いおう)の遠征によって無彊王は殺害され、越は楚に滅ぼされた。
?
一部の越王族が南方の?(現在の福建省地方)に逃れ、閩越(びんえつ)と呼ばれ、
省2
369: 2024/04/19(金)21:18 AAS
越(えつ、紀元前600年頃 - 紀元前306年)『越絶書』
『史記』をはじめとする諸書では、
夏の少康の庶子を越に封じたことを越の君主の起源とする伝説を述べている。
『呉越春秋』は夏の少康の庶子であった無余を最初の越の君主とし、
また夫譚の前に無壬・無瞫を挙げる。
『史記』越王勾践世家は初代から允常まで二十余世とし、
『漢書』地理志は初代から勾践まで二十世とする。
『荘子』逍遥遊篇によると、当時の越の人々は頭は断髪、上半身は裸で入れ墨を施して↓
『墨子』公孟篇や『史記』越王勾践世家などにも同様の記事が見られる。 いたという。
越侯夫譚(初代とされる王(ふたん、前538年没)
省4
370: 2024/04/19(金)21:19 AAS
越人ってこう言う風貌してたんだろな。まんま正座した日本人だけど。
越人像
外部リンク:ja.wikipedia.org
柳江人
外部リンク[html]:k.sina.cn
371(1): 2024/04/19(金)21:42 AAS
『史記』越世家によれば、 越王無彊は斉を助け楚を伐つが、かえって大敗を喫して、
「此れを以て散じ、諸族の子争い立ち、或いは王となり、或いは君となり、江南海上に
楚の威王、兵を興して之を伐ち、大いに越を敗り、王無彊を殺し、
尽く故との呉の地の浙江に至までを取る。北して斉を徐州に破る。
而して越は此れを以て散じ、諸族子(全ての一族の子孫たち)立つを争い、
或いは王と為り、或いは君と為り、江南海上に濱し、楚に服朝す。
後七世にして閩(ビン)君揺に至り、諸侯を佐けて秦を平らぐ。漢の高帝、
復た揺を以て越王と為し、以て越の後を奉ぜしむ。東越・閩君は、皆其の後なり。
372: 2024/04/19(金)21:48 AAS
越王無顓の弟とされる。無顓8年(紀元前354年)、無顓が死去すると、
無彊は越王として即位した。北方の斉や西方の楚と争い、楚軍の侵攻を招いた。
無彊21年(紀元前333年)、
楚の威王が大軍を動員して越を攻撃し、無彊は敗北し逃亡した。
無彊の逃亡後の越では、江南の海浜で諸族の子らが争って立ち、
ある者は王となり、ある者は君となり、楚に服属した。
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