戦国時代の始まり?享徳の乱について (740レス)
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193(1): 04/11(木)15:47 AAS
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実力ないけど権威はあるという枠なら
すでに天皇家があるからなあ
経済力、武力で成り上がった勢力の実力なくなった時点で滅びたり
他の家の家臣になったりするのは避けられないのでは
平家や鎌倉幕府や豊臣や徳川も
堯の禅譲伝説が日本にはなかったのは天皇家には幸いしたな
大国主の国譲りが実はそういう話だったのかもしれないが
194: 04/11(木)18:36 AAS
禅譲が無いのは日本の文化的特性と思う
文化=宗教で、それがほぼ単一だから排除までする必要が無かった
既存の権威を借りるだけで良かったので殺す必要が無かった
一方大陸はユーラシアンステップの影響でカリスマだがサイコパスな君主が良く出てきており、文化的に異なる王朝は血統毎リセットするしかなかった
権威の使い回しは多文化多民族の為に出来なかった
自分が新しい「天子」になるしかなかった
195: 04/13(土)19:27 AAS
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豊臣羽柴家は大阪城明け渡すか大阪城だけ領有する公家のようになれば生き残る道はあったかもしれない
足利後裔の喜連川のように有名無実だが生き残ったような形で存続する可能性も
196: 04/13(土)19:51 AAS
享徳ノ乱の話をしてくれ。
197: 04/13(土)21:06 AAS
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上杉政真の戦死の状況が気になる
野戦とかでなく一応陣で防戦中での死なんだよね
けど五十子そのものが崩壊したわけでなく
実は陣中での病死とかそういう物なんじゃないの
198: 04/13(土)21:39 AAS
扨又五十子へ御勢をむけられ合戦やむ時なかりければ文明五年十一月廿四日、上杉扇の谷の大将修理大夫政真も打死なり。行年廿四歳。
此人いまだ子なかりしかば一家の老臣ども評定して故持朝の三男定政を修理大夫に任じ扇の谷の家督となす。
『鎌倉大草紙』
199: 04/13(土)22:35 AAS
『鎌倉大草紙』は一応は史料価値の高い文献とされている。
今の所、同書の記す扇谷政真の「打死」を疑う材料は無い。
とは云え、
政真戦死に関わる記述は上掲の如く簡素に過ぎる。
政真戦死の具体的状況は不明と云うしかない。
200: 04/13(土)23:27 AAS
と云うわけでこの先は純然たる想像・憶測になる。
【五十子陣所の特性】
あくまでも本陣兼利根川渡河拠点として構築されたもので、
後世描かれた『五十子古城図』を見ても戦国後期の強固な城郭等とは比ぶべくもない。
攻防戦に及べば防衛側も籠城よりは出戦するのが前提だったのではないか。
文明五年十一月の戦に於いても五十子陣所前面で野戦が行われたかと思われる。
政真率いる扇谷勢は実働部隊だからその乱戦の中で…とも考えられる。
【扇谷或いは関東の戦術】
省9
201: 04/14(日)16:10 AAS
城じゃなくて陣営に毎日詰めるとか、ちょっと違和感あるよね
足利義尚も陣営で過ごしたし、キャンプ的な開放感があったとか?
202(1): 04/17(水)03:54 AAS
鎌倉を占領して
大きな転換をもたらしたのは今川だが
そのまま今川に鎌倉を恩賞として与え
斯波が守護となっていた遠江はあきらめさせて
公方領はもちろん太田や長尾が仕掛けて始まったのだから開戦責任を取らせて
上杉の領地も少し恩賞として今川に与えてそのまま東国にとどまらせて今川に
関東戦線ずっと担当させれば公方方に勝てたかもな
203(1): 04/17(水)15:02 AAS
終始上杉方が有利だったような
今川に利益与えたら今度は上杉と公方が組んで今川追い出すために反乱起こしそう
204: 04/17(水)21:54 AAS
>>203
> 終始上杉方が有利だったような
とてもそうは思えないが…。
慥かに状況構造としては常に管領方有利であって不思議の無い筈が、
戦争運営体制の欠陥と度重なる戦略ミスでそれを全く活かせなかったように見える。
現に最終決戦(未遂)の広馬場段階ではむしろ御所方有利の戦況を招いてしまっていた。
205: 04/17(水)22:00 AAS
>>202
鎌倉占領は明らかに「今川の無駄遣い」だろう。
古河の戦争体制は全く打撃を受けていない。
戦略的には殆ど意味が無かった。
北條氏康ではないが、
東常縁を無理矢理にでも引き留めた上で今川も投入して関宿に向かわなければならなかった。
206: 04/18(木)07:15 AAS
あの動画では古河に押し込めたから諸大名は興味を失い以降積極的に参戦しなくなったと指摘してるね
207: 04/18(木)08:27 AAS
一時古河まで落とされたからなぁ
結局白紙和平だし公方の粘り勝ちだけど
粘り勝ったということなら畠山総州家も同じような気がする
208(1): 04/20(土)13:51 AAS
根拠地から追いやるなど追い込めるが
自害まで追い込めるには一押し足りない
やはり参戦してる大名家が足りない
209: 04/20(土)16:44 AAS
>>208
足りないことはないだろう。
関東の全上杉勢に加えて三浦、越後上杉、今川、東常縁、…、
御所方の戦力が減ることはあっても増えることはないのを考えたら、
管領方は申し分の無い巨大戦力。
その戦力の運用を、或いは戦略そのものを間違えたのが管領方苦戦の(軍事面の)原因。
管領方は後年の古河占拠の時もそうだが(>>58)、
享徳四年(1455)後半から翌年にかけての総反攻期に一気に御所方を攻め潰さなければならなかった。
北方戦線に於ける穂積原合戦他の勝利、
省10
210(1): 04/20(土)16:54 AAS
ついでに云うと、
御所方も享徳四年(1455)前半までの圧倒的優勢期に「やらかして」いる。
山内は房顕が着任するかしないかでガタガタ。
扇谷も顕房戦死で政真はガキ、持朝も伊豆に逃げて不在。
江戸城も未だ構築されていない。
ここで全戦力を投入して上野・武蔵を総攻撃すべき所、
肝腎の古河成氏直率軍は奇怪な経路で逃げ惑う長尾景仲を追うことに血道を上げるだけだった。
これもまた絶好の勝機を逃す行動だったと云える。
211: 04/21(日)16:45 AAS
江の島の戦いの首謀者
長尾景仲と太田道真を討てば
乱はどうにかなると思ってた説
212(1): 04/21(日)22:24 AAS
日本では圧倒的戦術勝利は首を絞める
何故なら情勢がコロコロ変わり敵対方と手を組むのも頻繁にある
後年上杉も公方と組んでもう片方の上杉と戦ってたりするし
公方殺しの悪名を背負った場合必ず後に降り掛かってくる
逆に言えば血筋に宗教的権威が残されていた
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