戦国時代の始まり?享徳の乱について (740レス)
上下前次1-新
1(2): 02/17(土)20:10 AAS
かたれる奴はいるか
2(1): 02/17(土)21:14 AAS
足利成氏の生涯
鎌倉府から古賀符へ
より
両上杉氏が都鄙和睦を取り持つ条件で和睦したにもかかわらず
幕府に対する和睦交渉が遅れた上、道灌を中心に成氏方の長尾景春、千葉考胤への攻撃を継続し、成氏から虚言と批判されていた
成氏は上杉方の景春攻撃は内部問題として黙認しえたとしても、千葉自胤の復権と考胤打倒を口実に
下総への侵攻を認める(それを証明する確かな史料はない)ことはなく、道灌らの攻撃を迎え撃っている
3(3): 02/17(土)21:56 AAS
>>1
所謂戦国時代はごく粗雑に云うと以下の如く定義できる。
気候変動による「小氷期」とまで呼ばれる寒冷化並びに列島周辺のプレート運動活性化によるM7以上の大地震頻発という自然環境条件の下で、
従来の生産及びその収奪分配システムは破綻を来して壊滅的な飢饉が常態化するに至る。
室町幕府の「非実体権威依存型」「非在地型」「領域細分型」「複線複層型」統治システム(甲)はこの事態の前に全くの無力無能を晒す。
最終的にはこれを超克する「暴力担保型」「在地型」「一円領域型」「直轄一元型」統治システム(乙)が確立されて列島社会の再建が図られて行く。
この甲から乙へと至る激しい試行錯誤の社会運動を「戦国時代」と称する。
(続)
4(1): 02/17(土)22:14 AAS
(承前)
「享徳ノ乱」は上記工程の前半部分=甲の崩壊から乙のプロトタイプ提示までを極めて鮮明に且つ純度高く具現化したが故に戦国時代の開始を告げる事案と位置付けられる。
即ち、
甲の典型的且つ中核的な構成要素であった古河、山内、扇谷の三者が戦乱を通じて急激に乙の担い手=「戦国大名」へと変質して行ったことが事案の本質である。
当然ながら上三者配下に在る國衆等もこの工程に従った結果、
関東の社会構造全体が不可逆的/不可抗的に乙段階へ遷移しつつ周辺地域を巻き込んで行った。
社会構造の見地からすれば、
「応仁文明ノ乱」や「明応の政変」などよりも遙かに重大な歴史の画期であったと断じ得る所以である。
省1
5: 02/17(土)22:16 AAS
>>2
古河は太田道灌の千葉攻撃を支援した形跡がある。
少なくとも迎撃などの阻止行動はしていない。
6(2): 02/18(日)02:35 AAS
上杉一族が死にすぎな乱
7(1): 02/18(日)02:42 AAS
話柄を少し変えて。
享徳ノ乱は利根川を接攘線とする関東の東西戦争でもあった。
上に云う気候変動とも相俟って利根川の「越河」を巡る逸話にも事欠かず、
それが戦況を左右した局面も少なくない。
否、それはむしろ順序が逆で、
戦争などというヒトの矮小な営為も所詮は自然環境条件に規定される所でしかないことを如実に示すと共に、
関東ならではの地域特性を表す事例として顕著なものであろう。
簗瀬大輔氏は『対決の東国史 小田原北条氏と越後上杉氏』に於いて両者の対決を解析する五つの座標軸の一つとして利根川の「越河」を設定しているが、
これを北條上杉の攻防に限らず関東の戦争の普遍要素と位置付けて、
省5
8: 02/18(日)03:05 AAS
>>6
慥かに庁鼻和性順、扇谷顕房、小山田藤朝、犬懸憲顕、扇谷政真等上杉一門の非運は目立つが、
それに限らず管領方も御所方も二十九年間に戦死を含めて激しく世代交代した。
乱勃発当初の主役たちが長尾景仲、扇谷持朝、上杉房定、武田信長、里見義実等永享ノ乱以来の古参であったことを改めて想起されたい。
乱終結時のビッグネームたち、山内顕定、扇谷定正、太田道灌、長尾景春、千葉孝胤等は当時ほんの若輩者かガキに過ぎなかったことを思うと目眩さえ覚える。
その中で殆ど唯一人、最初から最後まで戦闘的に戦い抜いた古河成氏の化物ぶりが際立っている。
床屋政談的な人物談義の好きなゲーム脳連中が何故この化物をもっと語らないのか、不思議でならない。
9(1): 02/18(日)17:02 AAS
里見義実て実在したとみていいの?
稲村の変での歴史書き換えと系図書き換えで作られた架空人物だと言う説もあるそうだけど
10: 02/18(日)18:19 AAS
>>9
架空説も根強いな。
実在説の論者間でも出自については諸説紛々。
但し「古河成氏の意向により安房國に侵入して管領方勢力を掃討した里見某なる者」の物理的実在は争う余地が無い。
もちろん某の実名が義実であったか、その史実としての事蹟が軍記や系図の伝承と整合するか、と云うことはまた別の問題だ。
或いは里見某についても伊勢宗瑞の如くいつか実像解明の日が来るかもしれない。
11(2): 02/18(日)21:34 AAS
最初から最後まで公方側についていたのはどの家だっけか
小山や宇都宮は途中で幕府側に転向したんだよね
12: 02/18(日)21:49 AAS
足利義教
「鎌倉府が反乱した。鎮圧して来い」
小笠原、斯波
「了解しました」
足利義政
「鎌倉府が反乱した。鎮圧して来い」
小笠原、斯波
「嫌です」
13(2): 02/19(月)00:41 AAS
>>11
すぐ思い付く所では簗田、野田、一色、真里谷、そして議論の余地はあるが里見と云った辺りが一貫して御所方。
千葉は「人」に主体を置くと乱終盤の内訌から管領方に転じたと云えるが、「家」主体では御所方であり続けた。
むしろ最後は御所が千葉を切り捨てたわけだが。
14: 02/19(月)00:47 AAS
>>13
訂正。
× 乱終盤
〇 乱序盤
15(2): 02/19(月)01:03 AAS
千葉は和平には反対し続けたから御所とも手切れとなったという認識でいいか?
16(1): 02/19(月)01:03 AAS
千葉は和平には反対し続けたから御所とも手切れとなったという認識でいいか?
17: 02/19(月)01:54 AAS
>>15
だと思う。
それ以外の考察は見たことがない。
政治目的達成の為に党派中枢が敵と妥協しつつ味方の尖鋭分子を切り捨てる事例は古今東西珍しくないわけで…。
18(1): 02/20(火)16:46 AAS
幕府の力や権威が嘉吉の乱で義教が暗殺されてから落ちていたのだろうか
いくら動乱が各地の家にあったからと言っても
永享の乱では北欧の南部氏の出陣の形跡まであるのに
従ったのは越後の上杉と今川ぐらいとかなあ
19: 02/20(火)22:08 AAS
>>18
端的に云うと「それどころじゃねえんだよ後にしてくれよ」ってことだろう。
災害飢饉年表など調べてみるとよく解るんじゃないか。
「動乱が各地の家にあった」ことの、更にその根本原因がより深刻化していたからだと推測される。
時代は>>3に書いた惨状が標準仕様で在地はただ生きて行くことさえ困難な状況だった。
その上にヤレ永享ノ乱だソレ結城合戦だと駆り出されてヒトモノカネを搾り取られた大名群の各領国が荒廃を極めたことは想像に難くない。
それを早急に何とかしなきゃ大名権力体そのものが斃れる。
斃れても幕府が喰わせてくれる訳じゃ無いのに性懲りも無くまた動員とは正に「死ね」と云うに等しい。
ヤイこらヨシマサ黙って聞いてりゃ巫山戯た御託ばっかり並べやがってシゲウジだかゲジゲジだか知らねえがそんなに気に入らねえなら手前ェが行きゃァがれこちとら関東なんぞで遊んでられるほど暇なお兄ィさんたぁお兄ィさんが違うんでぃ篦棒メと、
関係者は尻を捲って啖呵の一つも切りたかったことだろう。
省1
20(1): 02/22(木)15:08 AAS
越後上杉家の越山はこの時代からあった
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