戦国時代の始まり?享徳の乱について (759レス)
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21(2): 2024/02/22(木)21:45 AAS
>>20
慥かにそれはそうなんだが。
享徳ノ乱で越山していたのは真正の越後上杉房定とその子定昌で、
永禄以後に越山したのは同じく越後上杉房定の子房能を弑殺した越後府内長尾為景の子である景虎だ。
とは云え景虎は山内上杉家督を継承したわけで、
しかし当時の山内上杉はまたしても越後上杉房定の子である顕定の入嗣によって実質的に越後上杉になっていた。
この殊更にわざとらしく錯綜した経緯にはクロフツの『樽』や鮎川哲也の『黒いトランク』の如き巧妙なトリックの存在が匂う。
うむ、何だかよく分からない。
省1
22(1): 2024/02/23(金)04:13 AAS
初期の上杉勢の敗勢を覆して、講和の仲介となった上杉房定と
中盤古賀公方を圧倒して古賀を一時でも占領した長尾景信はもっと注目されるべき
太田道灌は長尾景春の乱鎮圧では目立ったが享徳の乱ではあくまで景信らの配下
23(1): 2024/02/23(金)20:59 AAS
>>13
桐生佐野氏は直臣なのに何故寝返ったの
24(1): 2024/02/23(金)21:03 AAS
上条上杉とか能登畠山とか長尾臣下になっていったのは幸せだろうな
結城氏とかももはや家名の存続のみ願うようになっていった感がある
25: 2024/02/23(金)21:31 AAS
>>22
戦争の表面的な経緯だけを追えばその見方も解らないではない。
しかし享徳ノ乱の構造的本質、即ち「権力構造の変革」に関して担った機能を考察すれば太田道灌家宰期扇谷権力体の画期性は疑いを容れない。
長尾景信は山内権力体の地域権力化についてはむしろ反動として機能したと思われる。
上杉房定や太田道灌と同列に論じられるものではないだろう。
26(2): 2024/02/24(土)18:39 AAS
外部リンク:www.nicovideo.jp
この動画群 参考になる
27: 2024/02/24(土)19:50 AAS
>>26
一本ざっと斜メに観てみたが…。
結局「誰某が〇〇の戦で何某に勝った負けた」レベルの話を羅列しているだけで、
そんなことは年表でも見れば書いてあるよとしか云えない。
何故その事案が発生したのか、結果として何が生まれたのか、
自然環条件・生産状況・社会関係・権力形態等と関連付けた構造的考察から本質を抽象する作業こそが肝要だろうに。
享徳ノ乱に始まる関東戦国前半期などはその恰好の題材なんだから、
折角一本20分以上ある動画を拵えるならそこまで踏み込んで頂きたかった。
28(1): 2024/02/24(土)22:35 AAS
>>23
桐生佐野大炊助直綱のことなら、
一般には先に管領方に寝返った近隣の岩松等からの激しい攻勢に堪えかねて…と云う。
しかし私見では、
文正元年(1466)という時期からみて寛正大飢饉の余波としての事案ではないかと考えている。
もともと享徳ノ乱に於いては各氏の内訌に御所vs管領の大構造を引き込む事例が頻発するが、
論外の大飢饉を受けて各氏の所有する社会資源の総量が年々縮減する中、
宗家と庶流の紛争は「ゼロサムゲーム未満」、つまり縮むパイを取り合う陰惨熾烈の度合を高めて行ったと推測される。
この生物学的危機の前に「直臣」なる共同幻想は平時の重味を喪失していたことだろう。
省4
29: 2024/02/25(日)01:45 AAS
しかし佐野も実に解りづらい。
桐生の動向とは別に文明三年(1471)には室町将軍足利義政の調略を受けて宗家も管領方に変わったようだ。
但しその当主の実名が解らない。
そして翌年には早くも御所方に出戻ったがその経緯が解らない。
この間の宗家と桐生の関係が解らない。
「佐野伯耆守盛綱」なる名前は認められるが乱勃発の頃の驍勇「佐野伯耆守」「佐野宮内少輔」との関係が解らない。
しかも実名が盛綱である当主は時代を変えて複数いるから余計に解らない。
しっかり理解している賢者の教えを請いたい所だ。
省1
30: 2024/02/25(日)22:37 AAS
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江戸時代に改易された家だから系図もあんまり正確じゃないそうだな
移封や改易なしに室町から江戸時代にかけて存続できた大名って
下野だと大関や大田原ぐらいじゃないか
31: 2024/02/27(火)00:35 AAS
黒田基樹氏によると享徳ノ乱から長享ノ乱に関わる時代の桐生佐野の当主は
直綱-重綱-助綱-直綱-重綱
一方、
同時代と見られる宗家佐野の当主は
盛綱-秀綱-泰綱-豊綱
…辺りのようだが盛綱の父或いは祖父に重綱があり、
江戸時代初期に直参旗本となった者に盛綱があると云う。
お前らやる気あんのかよ真面目にやれよと小一時間問い詰めたい。
32(1): 2024/02/29(木)01:09 AAS
享徳三年(1454)十二月二十七日、足利成氏による山内憲忠謀殺。
以後三十年に及ばんとする大乱の火蓋を切った一挙は、
これに接する同年十一月二十三日と十二月十日、二度にわたって関東を襲った大地震と津波に誘発されたものと謂われる。
寛正期(1460~1466)から文正期(1466~1467)に顕著な有力國衆の帰趨動揺は、
>>28に書いた如く寛正大飢饉によって規定されたものである蓋然性が想定される。
文明九年(1477)春先、
太田道灌は豪雨による多摩川氾濫で対長尾景春戦略の変更を強いられたが、
結果としてこれが道灌の神憑りとも云うべき驀進を生んで行くことになる。
省9
33: 2024/03/01(金)11:42 AAS
雪による決戦→講和の流れは熱しやすく冷めやすい日本人ぽいとも思ったり
34(2): 2024/03/01(金)11:46 AAS
イフを考えてもしょうがないが鎌倉公方が関東をガッチリ平定して徳川家康みたいに大勢力として割拠できたのかどうか
大抵は継承戦争で弱体化していってるけれども
酷いときには親子間でさえ内紛起こしてるし
35: 2024/03/01(金)12:12 AAS
桐生佐野の一門は小弓公方家に臣従して娘から豊臣秀吉側室を得て喜連川藩成立の礎になるんだな
子孫は喜連川藩家老となる
36(1): 2024/03/02(土)23:20 AAS
>>34
享徳ノ乱を通じて古河は利根川左岸に根付いた地域権力として確立しかかっていたが、
当時の自然環境条件、生産技術、交通技術、経済状況、暴力装置の規模、…、等々から考えてその先の展望は開き難かったのではないか。
足利と徳川の間には百四十年の時間が横たわっている。
現代なら容易なことが明治前期にはどうだったかと云うことだろう。
37: 2024/03/03(日)17:49 AAS
>>36
もしイフを立てるとしても享徳の乱後では関東支配が限定的になり過ぎて無理なんだろうな
38(1): 2024/03/03(日)23:21 AAS
関東抑えたとしても後継者争いの規模が大きくなるだけ
執権北条氏の争いや他氏排斥事件は標的の暗殺や急襲による
比較的小規模で短期間の戦いで終わってたが
足利氏の内紛は長期化、大規模化しやすい
39: 2024/03/04(月)00:07 AAS
>>38
そういう次元の話じゃないんだが…。
戦争は「構造」だ。
長期化・大規模化するならそこにそれだけの構造があると云うことであって北條だの足利だのは識別記号に過ぎない。
また後継争いの内訌だとか御所管領の権力闘争だとかも事案の末端形状でしかない。
享徳ノ乱はその構造が見える恰好の事例なのに、
軍記レベルで思考停止してしまうのは実に勿体ない。
40(1): 2024/03/04(月)15:20 AAS
内乱が大体の原因と思うな
領土紛争も継承争いも内乱の一種かなと
やっぱ江戸幕府の強制力は凄かった
紛争全部強制力で治めてくれる
江戸幕府自らが継承争いしてたら260年も平和は続かなかったろうな
しかし足利義政期は将軍自体の継承争いは無かった
なのに強制力は弱かったね 斯波氏も言うこと聞かないし
年少だったからか義教暗殺の余波なのか
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