戦国時代の始まり?享徳の乱について (759レス)
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360: 2024/06/11(火)03:34 AAS
諸侯は「大義名分を振りかざされて袋叩きに合う」ことを最も嫌う。弑逆は確かに大義名分となり得るが、必ずしも敵対者を無害にする必要はなく、むしろ権力闘争や勢力争いの手段として利用されることもあった。室町時代の抗争には様々な原因があり、対立候補を立てる以外にも、領土争い、守護同士の権力争い、将軍と守護の対立など、様々な要因があった。しかし、室町時代は貴種尊重の文化(宗教と言ってもいい)が根強く残っており、権威の正当性を血統によって担保する必要があったため、傀儡公方を立てることが有効な手段とされたのである。後北条もまず傀儡公方を立てることで、周囲の諸侯を牽制し、自らの勢力を拡大することができた。
361(1): 2024/06/11(火)03:37 AAS
長尾氏と太田道灌は、関東管領上杉氏の家宰として、大きな権力を持っていました。しかし、彼らはあくまで家臣であり、上杉氏当主の許可なしに行動することはできません。
結城合戦では、上杉氏と古河公方足利成氏の間で激しい戦いが繰り広げられました。この戦いで、長尾氏と太田道灌は、上杉氏当主上杉憲実の命を受けて戦いました。
成氏は、上杉氏に勝利し、関東管領職を奪取しました。これは、当時の権力構造を大きく覆す出来事でした。
長尾氏と太田道灌は、上杉氏当主の許可を得て結城合戦に参戦しました。しかし、成氏の勝利によって、彼らの権力は大きく失墜することになりました。
362: 2024/06/11(火)03:43 AAS
関東平野は、古くから干拓事業によって多くの湿地帯が農地に変貌してきた。小田原北条氏も相模湾に面した低地を干拓し、新田開発を進めた。江戸時代以降は技術の発展とともに干拓事業が加速し、20世紀前半には関東平野の大部分が農地となった。現代においても、海面上昇対策や都市開発のための干拓事業が進められている。干拓事業は食糧生産の増加や都市開発に貢献してきたが、生物多様性や自然環境の失われるなどの問題も指摘されている。
363: 2024/06/11(火)03:45 AAS
司馬遼太郎の歴史小説「箱根の坂」では、足利氏と後北条氏の統治について、対照的な評価が述べられている。しかし、近年では、両者とも単純な善悪で評価することはできないという見方が主流となっている。
足利氏は血統による支配という限界があったものの、守護職制度や御家人制度などを整備し、積極的に統治に力を注いでいた。一方、後北条氏は商業の発展を奨励し、法整備や裁判制度の整備などを行ったが、年貢や兵役などの負担を課すなど、民衆を搾取する側面もあった。
現代的な視点から歴史を捉えるためには、それぞれの時代背景や社会情勢を考慮し、単純な善悪の判断ではなく、より多角的な分析を行うことが重要である。
364: 2024/06/11(火)03:50 AAS
室町時代の人口は、約1000万人だったと考えられています。
この推定は、兵士の人数と当時の兵士人口比に基づいています。当時の守護大名の軍隊規模や足利将軍家の軍隊規模、守護大名の数などを考慮すると、日本全土の兵士の総数は約13万2775人〜19万7750人だったと推定されます。
律令時代の兵士人口比(56人で兵士1人)を基に地方の人口を推定すると、約920万人(740万〜1100万人)となります。都市人口率を4%(40万人)と仮定すると、都市人口は約40万人となり、合計人口は約960万人となります。
一方、ファリス氏は長期的な人口増加率(0.4%/年)を仮定した研究結果(2000年)を引用し、上限推定人口を1050万人としています。
これらの推定値はあくまで目安であり、実際の正確な人口は不明です。しかし、当時の社会情勢や経済状況などを考慮すると、約1000万人という推定値は妥当と考えられます。
365: 2024/06/11(火)10:04 AAS
>>358
いやアンタ荒らしだろ
他のスレにもほぼコピペじみた文章かいてるやん
自分がコピペだろうが
366: 2024/06/11(火)17:45 AAS
>>361
流石にアラが有りすぎる
太田道灌は結城合戦の時に存在感ないし山内上杉氏の家来でもない
367(1): 2024/06/11(火)17:49 AAS
>>357
あなたと同等レベルの知見水準の人はここにはいないよ
私は教科書レベルの知見しか無いし
368(1): 2024/06/11(火)22:03 AAS
>>367
当方>>357。
ここの住人云々ではなくてwikipediaの愚劣を嗤っただけ。
369: 2024/06/12(水)07:24 AAS
>>368
教科書レベルということはWikiレベルですよ
あとは動画見たり
流石に享徳の乱を扱った動画は1本だけです
370(2): 2024/06/12(水)18:17 AAS
斯波氏の本当の没落は応仁の乱ではなく明応の政変だと指摘していたりWikiも興味深い
371(1): 2024/06/13(木)12:36 AAS
画像リンク[jpg]:i.imgur.com
もうすぐ終了です
372: 2024/06/13(木)13:01 AAS
>>371
わざわざありがとう
373(1): 2024/06/16(日)20:08 AAS
>>370
ウィキがというか
ウィキが引用する学者の説
374: 2024/06/17(月)07:00 AAS
>>373
それよ
書籍の通説より最新研究が反映されてる
375: 2024/06/17(月)15:02 AAS
小氷期は1610~1700年代の方も有名みたいね
幕藩体制を揺るがしたとかあるけど盤石な時代だな
画像リンク[jpeg]:i.imgur.com
376(1): 2024/06/18(火)02:35 AAS
>>370
斯波氏は確かに応仁の乱で大きな打撃を受け、守護所のある丹波国の一部を失いました。しかし、その後も周辺地域に勢力を維持し、戦国時代初期には斯波義達が三好氏と同盟して室町幕府管領を務めるなど、一定の影響力を持っていました。
しかし、明応の政変で細川政元が台頭すると、斯波義達は守護職を解任され、斯波氏の本拠地である越前国も朝倉氏に奪われます。この政変を境に、斯波氏は急速に衰退し、戦国時代後期には滅亡しました。
377(1): 2024/06/18(火)02:40 AAS
>>351
「鎌倉公方はまだ飛び地を手放していないように見える」と述べられていますが、これは誤解を招く表現です。実際には、鎌倉公方は15世紀半ばまでに武蔵・上野・下野などの飛び地を失っており、相模も一部しか支配できていませんでした。
378: 2024/06/18(火)03:14 AAS
AIに書かせた駄文のコピペを貼る前にスレタイぐらい読め。
5chに書き込む程度の短文さえ自分で書けない白痴だからスレタイも理解できないのか?
379: 2024/06/18(火)08:32 AAS
>>376
応仁の乱
越前の実効支配を朝倉氏に取られるが、尾張と遠江には支配が及び、また斯波義敏が京都に強いパイプを持っていた
明応の政変
将軍位を足利義澄に取られたせいで完全に中央に対する勢力を失った
守護代の傀儡になっていく
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