戦国時代の始まり?享徳の乱について (759レス)
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177: 2024/04/06(土)06:47 AAS
大航海時代は考えてみれば小麦作が原因かもね
収穫量が少なすぎて畜産で補ったことよりの香辛料の需要
東アジアでは稲のせいで大航海時代に発展しなかった?
まあ享徳の乱の時代は倭寇真っ盛りだったが
178(1): 2024/04/06(土)20:49 AAS
谷口雄太は
足利氏は上からの改革
血統でなく力があれば、本来は足利一門でなければ就けられなかった地位にも就けるような
改革によってかえって足利氏の貴種性を失った
足利氏の権威をなくしていったと言う説だしてるけど
災害や飢餓の多発する世の中とそれへの対応不足も
足利氏のイメージや貴種性を落としていっただろうな
179(1): 2024/04/07(日)06:28 AAS
足利氏自体が象徴に収まらずに執行者としての意識を持ち続けたことが逆に権威の失墜をもたらしたという説も
つまり斯波氏なら朝倉、甲斐氏、細川氏なら三好氏、赤松氏なら浦上氏などと接触を持ったことにより下剋上を推進したとも
180: 2024/04/07(日)17:56 AAS
>>178 >>179
そういうことはあるかもしれない。
その伝で行くと古河成氏などは自ら進んで権威も貴種性もかなぐり捨てた者と云えるか。
鎌倉に超然的権威として存在することを已めてリアルな所領の在地権力体を志向、
発給文書の厚礼化に見る如く自らの存在を「低下」させつつ在地の直接行政にも手を染めた。
それは慥かに失墜ではあったかもしれないが上杉による「下剋上」を中断せしめることにもなった。
結果的に戦国大名として生き残る道をも開いた。
同時期の前時代的権威から脱却しきれない室町将軍の止め処無き衰弱、
省6
181(1): 2024/04/07(日)18:12 AAS
権威の失墜を招いたていう以前に
何で足利一門は弱くなったんだろ
権威はあるけど力は他の大名系のほうが上なんてことになったんだろう
182(1): 2024/04/07(日)18:21 AAS
享徳の乱で足利氏の支配範囲は縮まった
権威的影響範囲は関東全域に及んでいたが関東諸侯は「邪魔じゃなければ尊重しよう」という宗教的存在は認めていた
公方の量産(堀越、小弓)によって権威は低下し、
完全に崩壊したのは河越夜戦で北条包囲網が崩壊した時か
183: 2024/04/07(日)19:28 AAS
>>181
関東は持氏期よりもむしろ成氏期や政氏期の方が実体権力としては強化された。
何度も書いてきたように、自然環境条件や社会状況に曲がりなりにも適応したからだろう。
京都の方はそもそも実体が貧弱。
直轄領や暴力装置が諸大名に比べて圧倒的に大きいわけでもないし、
在地性がゼロだから戦争についても災害についても即応機動機能が低い。
安全保障も災害対策も碌にしない権力体は信頼も威信も喪って行くしかない。
184(1): 2024/04/07(日)19:37 AAS
>>182
> 享徳の乱で足利氏の支配範囲は縮まった
実体規模としてはむしろ拡大したと見ている。
鎌倉に鎮座していた時期は制度として関東全域を所掌していただけで、
実体としては山内、扇谷、長尾一族、小山、…等の支配地域が過半を占めていた。
改めて「鎌倉殿」の支配地域は?と問えば実に稀薄なものでしかなかったろう。
古河に移ってからは
一円的に集中する直轄領、簗田や野田等の奉公衆、股肱の臣たる小山、千葉、武田、里見等の所領等、
利根川左岸一帯が実効勢力範囲として確立されたと云えるのではないか。
省1
185(2): 2024/04/08(月)07:10 AAS
>>184
遵行を執行できずに要請レベルに留まったところに権力の低下が見られる
関東諸侯は「意見は尊重しよう」という認識はあったが紛争で利害が相反した場合は別の大義名分を使って実力で解決する選択肢を持っていた
永享の乱期は幕府/関東管領/鎌倉公方のどれかから大義名分を獲得でき、その後は内紛で分裂した各鎌倉公方から相反する大義名分を獲得できた
186: 2024/04/09(火)18:25 AAS
諸侯は「隣国に大義名分を振りかざされて袋叩き」になるのを最も嫌う
享徳の乱も応仁の乱も片方に付けばもう片方を攻める格好の大義名分が手に入るわけだ
乱が収まらなかったのはいつまで経っても陣営が2つに別れたままだったからである
これは関東も畿内も同じ
187(1): 2024/04/10(水)14:05 AAS
足利氏に反抗する勢力は
神輿として別の足利氏の一族を担いで反抗するが
神輿として使われて内乱がおこるたびに権威に疑いを持つ人間が増えていっただろうね
188: 2024/04/10(水)14:37 AAS
>>187
内紛が片付いて1つになればまだ遵行も要請だけとは言えある程度の強制力はあるんだけど内紛が長期化して公方が2人になったままだと自分が有利な方に付くでしょうね
189(2): 2024/04/10(水)19:46 AAS
>>185
見解の相違かな…。
室町幕府制度下の遵行と云うシステムは「権威という虚妄のコード」を共有するサークル内に於いてのみ成立する、謂わばゴッコ遊びだろう。
落語の『だくだく』みたいなものだ。
それこそが共同幻想と云うものではあるのだが。
その虚妄のサイズが即ち権力の規模だと解釈するならば、
鎌倉殿が古河の戦国大名に遷移したことで慥かにそれは縮小した。
小生は「権力」≒「暴力」との見解を採る。
共同幻想は実体無き虚妄だ、王様は裸だと喝破してしまった者たちに対して共同幻想はもはや権力(強制力)たり得ない。
省8
190: 2024/04/10(水)22:21 AAS
>>189について誤解を招きかねない文言があったので訂正。
「鎌倉時代」とあるが、
これは鎌倉幕府時代のことではない。
「御所が鎌倉に在った時代」即ち基氏期から持氏期を意味する。
念の為。
191: 2024/04/11(木)07:08 AAS
>>189
こういうものには十人十色の見解があるので特に否定はしない
基本的には権威は宗教的なものなので暴力ではないことには賛成だ
ならば天皇と同等に収まれば良かったのに執行機関として維持しようとしたところ、内紛は発生するは権威の失墜は発生するは逆に諸侯に大義名分を与えるだけの存在になってしまった
成氏は武勇戦略の才があったために地方権力として維持出来た
それならば畠山義就も同等だろうし、後世は武勇戦略の差で後北条氏の傀儡となった
192(1): 2024/04/11(木)07:12 AAS
つまり「初めから小さい天皇になりきる」という選択肢もあった
成氏が1番嫌がる選択肢だろうけど
他の守護大名と同じく大きな権力を有しそれを維持しようとする戦略は結果だけを知る我々にとっては時勢に抗ったが時勢に乗れなかったように見える
193(1): 2024/04/11(木)15:47 AAS
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実力ないけど権威はあるという枠なら
すでに天皇家があるからなあ
経済力、武力で成り上がった勢力の実力なくなった時点で滅びたり
他の家の家臣になったりするのは避けられないのでは
平家や鎌倉幕府や豊臣や徳川も
堯の禅譲伝説が日本にはなかったのは天皇家には幸いしたな
大国主の国譲りが実はそういう話だったのかもしれないが
194: 2024/04/11(木)18:36 AAS
禅譲が無いのは日本の文化的特性と思う
文化=宗教で、それがほぼ単一だから排除までする必要が無かった
既存の権威を借りるだけで良かったので殺す必要が無かった
一方大陸はユーラシアンステップの影響でカリスマだがサイコパスな君主が良く出てきており、文化的に異なる王朝は血統毎リセットするしかなかった
権威の使い回しは多文化多民族の為に出来なかった
自分が新しい「天子」になるしかなかった
195: 2024/04/13(土)19:27 AAS
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豊臣羽柴家は大阪城明け渡すか大阪城だけ領有する公家のようになれば生き残る道はあったかもしれない
足利後裔の喜連川のように有名無実だが生き残ったような形で存続する可能性も
196: 2024/04/13(土)19:51 AAS
享徳ノ乱の話をしてくれ。
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