戦国時代の始まり?享徳の乱について (759レス)
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27: 2024/02/24(土)19:50 AAS
>>26
一本ざっと斜メに観てみたが…。
結局「誰某が〇〇の戦で何某に勝った負けた」レベルの話を羅列しているだけで、
そんなことは年表でも見れば書いてあるよとしか云えない。

何故その事案が発生したのか、結果として何が生まれたのか、
自然環条件・生産状況・社会関係・権力形態等と関連付けた構造的考察から本質を抽象する作業こそが肝要だろうに。
享徳ノ乱に始まる関東戦国前半期などはその恰好の題材なんだから、
折角一本20分以上ある動画を拵えるならそこまで踏み込んで頂きたかった。
 
28
(1): 2024/02/24(土)22:35 AAS
>>23
桐生佐野大炊助直綱のことなら、
一般には先に管領方に寝返った近隣の岩松等からの激しい攻勢に堪えかねて…と云う。
 
しかし私見では、
文正元年(1466)という時期からみて寛正大飢饉の余波としての事案ではないかと考えている。
もともと享徳ノ乱に於いては各氏の内訌に御所vs管領の大構造を引き込む事例が頻発するが、
論外の大飢饉を受けて各氏の所有する社会資源の総量が年々縮減する中、
宗家と庶流の紛争は「ゼロサムゲーム未満」、つまり縮むパイを取り合う陰惨熾烈の度合を高めて行ったと推測される。
この生物学的危機の前に「直臣」なる共同幻想は平時の重味を喪失していたことだろう。
省4
29: 2024/02/25(日)01:45 AAS
しかし佐野も実に解りづらい。
 
桐生の動向とは別に文明三年(1471)には室町将軍足利義政の調略を受けて宗家も管領方に変わったようだ。
但しその当主の実名が解らない。
そして翌年には早くも御所方に出戻ったがその経緯が解らない。
この間の宗家と桐生の関係が解らない。
「佐野伯耆守盛綱」なる名前は認められるが乱勃発の頃の驍勇「佐野伯耆守」「佐野宮内少輔」との関係が解らない。
しかも実名が盛綱である当主は時代を変えて複数いるから余計に解らない。
 
しっかり理解している賢者の教えを請いたい所だ。
省1
30: 2024/02/25(日)22:37 AAS
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江戸時代に改易された家だから系図もあんまり正確じゃないそうだな
移封や改易なしに室町から江戸時代にかけて存続できた大名って
下野だと大関や大田原ぐらいじゃないか
31: 2024/02/27(火)00:35 AAS
黒田基樹氏によると享徳ノ乱から長享ノ乱に関わる時代の桐生佐野の当主は
 直綱-重綱-助綱-直綱-重綱

一方、
同時代と見られる宗家佐野の当主は
 盛綱-秀綱-泰綱-豊綱
…辺りのようだが盛綱の父或いは祖父に重綱があり、
江戸時代初期に直参旗本となった者に盛綱があると云う。
 
お前らやる気あんのかよ真面目にやれよと小一時間問い詰めたい。
 
32
(1): 2024/02/29(木)01:09 AAS
享徳三年(1454)十二月二十七日、足利成氏による山内憲忠謀殺。
以後三十年に及ばんとする大乱の火蓋を切った一挙は、
これに接する同年十一月二十三日と十二月十日、二度にわたって関東を襲った大地震と津波に誘発されたものと謂われる。
 
寛正期(1460~1466)から文正期(1466~1467)に顕著な有力國衆の帰趨動揺は、
>>28に書いた如く寛正大飢饉によって規定されたものである蓋然性が想定される。
 
文明九年(1477)春先、
太田道灌は豪雨による多摩川氾濫で対長尾景春戦略の変更を強いられたが、
結果としてこれが道灌の神憑りとも云うべき驀進を生んで行くことになる。
省9
33: 2024/03/01(金)11:42 AAS
雪による決戦→講和の流れは熱しやすく冷めやすい日本人ぽいとも思ったり
34
(2): 2024/03/01(金)11:46 AAS
イフを考えてもしょうがないが鎌倉公方が関東をガッチリ平定して徳川家康みたいに大勢力として割拠できたのかどうか
大抵は継承戦争で弱体化していってるけれども
酷いときには親子間でさえ内紛起こしてるし
35: 2024/03/01(金)12:12 AAS
桐生佐野の一門は小弓公方家に臣従して娘から豊臣秀吉側室を得て喜連川藩成立の礎になるんだな
子孫は喜連川藩家老となる
36
(1): 2024/03/02(土)23:20 AAS
>>34
享徳ノ乱を通じて古河は利根川左岸に根付いた地域権力として確立しかかっていたが、
当時の自然環境条件、生産技術、交通技術、経済状況、暴力装置の規模、…、等々から考えてその先の展望は開き難かったのではないか。
足利と徳川の間には百四十年の時間が横たわっている。
現代なら容易なことが明治前期にはどうだったかと云うことだろう。
 
37: 2024/03/03(日)17:49 AAS
>>36
もしイフを立てるとしても享徳の乱後では関東支配が限定的になり過ぎて無理なんだろうな
38
(1): 2024/03/03(日)23:21 AAS
関東抑えたとしても後継者争いの規模が大きくなるだけ
執権北条氏の争いや他氏排斥事件は標的の暗殺や急襲による
比較的小規模で短期間の戦いで終わってたが
足利氏の内紛は長期化、大規模化しやすい
39: 2024/03/04(月)00:07 AAS
>>38
そういう次元の話じゃないんだが…。
 
戦争は「構造」だ。
長期化・大規模化するならそこにそれだけの構造があると云うことであって北條だの足利だのは識別記号に過ぎない。
また後継争いの内訌だとか御所管領の権力闘争だとかも事案の末端形状でしかない。

享徳ノ乱はその構造が見える恰好の事例なのに、
軍記レベルで思考停止してしまうのは実に勿体ない。
 
40
(1): 2024/03/04(月)15:20 AAS
内乱が大体の原因と思うな
領土紛争も継承争いも内乱の一種かなと

やっぱ江戸幕府の強制力は凄かった
紛争全部強制力で治めてくれる
江戸幕府自らが継承争いしてたら260年も平和は続かなかったろうな

しかし足利義政期は将軍自体の継承争いは無かった
なのに強制力は弱かったね 斯波氏も言うこと聞かないし
年少だったからか義教暗殺の余波なのか
41: ネトウヨボクメツ隊! 2024/03/04(月)19:46 AAS
室町幕府は京都の将軍の権威=統治力という体制だったからな
足利義教のような強い人物が将軍で無ければ統治力が失われてしまう
これは韓国や中国といった中央集権体制を整えた国々からみたら丸で政府の体をなしていない
42
(3): 2024/03/04(月)20:30 AAS
>>40
ではその「内乱」が何故あれほど長期にわたって頻発したのか、と。
享徳ノ乱だけでも三十年。
ヒトが生物である以上は余程の理由が無ければそんなに自らの個体生命と遺伝子を断絶の危険に曝し続けたりはしない。
そこが根本だろう。
 
43
(1): 2024/03/05(火)07:03 AAS
>>42
やっぱ強制力は大きいと思うよ

今も強制執行できる警察力あるし江戸幕府もあった
紛争を解決できる司法と言えるものも存在する

一方室町時代の執行力は地域限定的
44
(1): 2024/03/05(火)07:11 AAS
国民はルールが恣意的(不平等)と見なせば言うことを聞かなくなって紛争の解決を国に委ねず個々にやりだす
室町時代はおそらくは国のトップの将軍(あるいは管領などのナンバー2)がそう見えたので戦乱が続いたのだと思うわ
45
(1): 2024/03/05(火)07:17 AAS
1番恣意的に見えるのは国のトップが継承争いをすることで、南北朝の先例や将軍自身の継承戦争、管領、諸勢力の継承戦争については片方に肩入れし成功すればひっくり返せる
46
(1): 2024/03/05(火)07:21 AAS
斯波家一つを見るだけで二つの派閥が片方優勢にはなるがある時期を越えるともう片方が優勢になるを繰り返している
劣勢でもいつか勝てると思ってたら諦めない
状況がコロコロ変わり戦乱が終わらないわけだ
これは細川家、将軍家にも言える
鎌倉公方家も相手を関東管領に変えたり身内に変えたりして続けている
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