戦国時代の始まり?享徳の乱について (759レス)
上下前次1-新
448: 2024/07/02(火)08:21 AAS
1447年(文安4年)、14歳の遺児である永寿王は、鎌倉公方を継承し、鎌倉へ下向しました。これが後の足利成氏です。しかし、成氏は父・足利持氏を殺害した上杉家を憎んでおり、関東管領・上杉憲忠(父は上杉憲実)との関係改善は叶いませんでした。
山内上杉氏では、若年の上杉憲忠に代わって、長尾景仲が関東管領代として政務を執っていました。一方、扇谷上杉氏では、上杉持朝が上杉憲実派の中心人物として家督を嫡子・上杉顕房に譲っていました。顕房も若かったため、太田資清が政務を代行していました。扇谷上杉氏の勢力基盤は南関東にありました。
対する足利成氏は、反上杉勢力である結城氏、小山氏、宇都宮氏、佐竹氏、千葉氏らの奉公衆と結んで北関東を基盤としていました。
449: 2024/07/02(火)08:22 AAS
1450年(宝徳2年)、上杉氏の有力家臣であった長尾景仲と太田資清らは、足利成氏の御所を襲撃しました。これが、江ノ島合戦と呼ばれる戦いです。この戦では、千葉氏は成氏側に参陣していました。戦の結果、長尾一族の所領は没収されます。上杉憲忠は、この状況を「家臣の謀反である」と成氏に訴え、両者の間で和睦が成立しました。
450: 2024/07/02(火)08:26 AAS
1454年(享徳3年)、和睦が成立したものの、関東管領の上杉憲忠は長尾一族の所領返還を鎌倉公方の足利成氏に嘆願しましたが、成氏はこれを許可しませんでした。そこで、長尾景仲は寺社の所領を奪って一族に与えました。
成氏は景仲の処罰を憲忠に要求しましたが、憲忠はこれを拒否しました。
12月、上杉側の陰謀が密告されると、成氏は家臣の多賀谷氏家と結城成朝に命じ、300騎で突如上杉憲忠邸を襲撃しました。憲忠主従22人は防戦空しく討ち死にました。ここに、30年間にわたる享徳の乱が勃発しました。
上杉側は京都に使いを送って「足利成氏討伐軍」の派遣を要請し、成氏も「京都に対しては謀叛の意図はありません」と釈明の使者を送りました。しかし、幕府は「成氏が私的な恨みから憲忠を討った」として、成氏討伐を決定しました。
451: 2024/07/02(火)08:29 AAS
1455年(康正元年)1月、足利成氏は1000騎を率いて高安寺に進軍しました。これを察知した上杉方は2000騎で分陪河原に出陣しました。足利成氏は猛攻を仕掛け、上杉憲秋(父は上杉禅秀)は重傷を負い、高旗寺(現在の高幡不動尊)で自害しました。
6月、足利成氏は上杉軍との戦いのため下総古河に入りました。その留守に乗じて、追討軍の駿河守護・今川範忠軍が鎌倉に侵攻し、御所や神社仏閣を焼き払いました。鎌倉はその後、復興されることはありませんでした。
鎌倉を回復できなかった足利成氏は古河を居城とし、これが古河公方の起源となりました。房総半島3国は、古河公方となった足利成氏の勢力圏となりました。足利成氏は幕府の改元に従わず、享徳年号を使い続けました。
452: 2024/07/02(火)08:29 AAS
>>447
うーん小氷期が原因なら近隣諸国の政治体制の変化も述べていただきたい
あと本格的な小氷期は寧ろ近世の方が本番かと
テムズ川が凍ったり
453: 2024/07/02(火)08:30 AAS
1457年(長禄元年)10月、将軍足利義政は、代々九州探題を務めてきた名門の渋川氏出身である渋川義鏡を大将として、関東へ出兵させました。名門の将軍の関東下向に、足利成氏に味方していた勢力も次々と降伏し、戦局は一気に逆転しました。
12月には、将軍足利義政の弟で、天竜寺住職の香厳院殿を還俗させ、足利政知(23歳)と名乗らせました。
454: 2024/07/02(火)08:32 AAS
1458年(長禄2年)、幕府は新しい鎌倉公方として足利政知(将軍足利義政の弟)を派遣し、足利成氏を討伐しようとしました。しかし、政知は先に派遣されていた渋川義鏡と上杉氏との対立もあり、鎌倉に入ることができず、伊豆北条氏の本拠地である堀越にとどまりました。これが、堀越公方の起源となります。結果的に、2人の鎌倉公方が存在することになりました。
455: 2024/07/02(火)08:33 AAS
年表を書いたほうがマシだな
余計な記載が多い
456: 2024/07/02(火)08:35 AAS
1473年(文明5年)、扇谷上杉氏では上杉定正が当主となりました。執政は太田道灌です。
一方、山内上杉氏では上杉顕定が当主を務めていました。執政は長尾忠景です。
457: 2024/07/02(火)08:36 AAS
1476年(文明8年)、上杉氏は内紛の危機に直面し、足利成氏との和睦を模索しました。しかし、武蔵千葉氏の勢力拡大を懸念した千葉孝胤は、和睦に反対し、長尾景春(山内上杉氏の家臣・長尾忠景の甥)と結んで対立しました。
1479年(文明11年)、扇谷上杉氏の重臣・太田道灌は、千葉孝胤を討伐すべく出陣しました。
458: 2024/07/02(火)08:36 AAS
1482年(文明14年)、室町幕府は、足利成氏と和睦を結びました。
459(4): 2024/07/02(火)08:38 AAS
試しにやらせて見たが、中身が全く無かったな
古河城の落城の記載は必要だろう
享徳の乱 年表
1454年(享徳3年)12月27日:享徳の乱の発端。関東管領上杉憲忠が鎌倉府の内紛に巻き込まれて謀殺される。これにより、関東地方は混乱状態に入る。
1455年(康正元年)1月:上杉氏と古河公方(足利成氏)との対立が激化。成氏は鎌倉を離れ、古河(現埼玉県古河市)に拠点を移す。
1455年(康正元年)7月:関東の諸勢力が成氏と上杉氏のどちらにつくかで二分され、各地で小競り合いが発生する。
1457年(長禄元年)4月:上杉氏側が江戸城を築城し、関東地方での支配を強化し始める。
1460年(寛正元年)各地で戦闘が断続的に続く。足利成氏は古河城を拠点に抵抗を続ける。
1471年(文明3年)上杉顕定が関東管領に任命され、上杉氏が優位に立つ。
1477年(文明9年)7月:室町幕府が調停に乗り出し、上杉氏と成氏との間で和議が成立。しかし、成氏は完全には従わず、戦乱は続く。
省3
460: 2024/07/02(火)11:49 AAS
>>459
なんの話? @阿波
461(1): 2024/07/02(火)11:50 AAS
スレの贅六荒らしはしつこいな
しばらくは続くんじゃないかな
462: 2024/07/02(火)14:37 AAS
>>459
見にくいし、分かりずらい
463: 2024/07/02(火)15:08 AAS
それ以前に、長尾景春の乱の記載すらない
出来損ないだよ
464: 2024/07/02(火)16:30 AAS
平原は卑弥呼の墓になり得ない
まず径百余歩で脱落。加えてあそこは伊都国の比定地であって邪馬台国ではない
465: 2024/07/02(火)16:30 AAS
>>459
こいつの文はAIでも無かろう
AIの方がまだ価値のある文を書ける
466: 2024/07/02(火)16:36 AAS
全長ではなく短い方の辺が百歩
ていうかこれ大きいという概念的な数字なのでは
467: 2024/07/02(火)16:49 AAS
>>459
1471年(文明3年)に上杉顕定が関東管領に任命されたのは事実ですが、その時点では上杉氏が優位に立っていたとは言えません。むしろ、関東管領職をめぐる争いは激化しており、上杉顕定は就任直後から敵対する勢力との戦いを強いられました。
上下前次1-新書関写板覧索設栞歴
あと 292 レスあります
スレ情報 赤レス抽出 画像レス抽出 歴の未読スレ AAサムネイル
ぬこの手 ぬこTOP 0.008s