戦国時代の始まり?享徳の乱について (759レス)
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453: 2024/07/02(火)08:30 AAS
1457年(長禄元年)10月、将軍足利義政は、代々九州探題を務めてきた名門の渋川氏出身である渋川義鏡を大将として、関東へ出兵させました。名門の将軍の関東下向に、足利成氏に味方していた勢力も次々と降伏し、戦局は一気に逆転しました。
12月には、将軍足利義政の弟で、天竜寺住職の香厳院殿を還俗させ、足利政知(23歳)と名乗らせました。
454: 2024/07/02(火)08:32 AAS
1458年(長禄2年)、幕府は新しい鎌倉公方として足利政知(将軍足利義政の弟)を派遣し、足利成氏を討伐しようとしました。しかし、政知は先に派遣されていた渋川義鏡と上杉氏との対立もあり、鎌倉に入ることができず、伊豆北条氏の本拠地である堀越にとどまりました。これが、堀越公方の起源となります。結果的に、2人の鎌倉公方が存在することになりました。
455: 2024/07/02(火)08:33 AAS
年表を書いたほうがマシだな
余計な記載が多い
456: 2024/07/02(火)08:35 AAS
1473年(文明5年)、扇谷上杉氏では上杉定正が当主となりました。執政は太田道灌です。
一方、山内上杉氏では上杉顕定が当主を務めていました。執政は長尾忠景です。
457: 2024/07/02(火)08:36 AAS
1476年(文明8年)、上杉氏は内紛の危機に直面し、足利成氏との和睦を模索しました。しかし、武蔵千葉氏の勢力拡大を懸念した千葉孝胤は、和睦に反対し、長尾景春(山内上杉氏の家臣・長尾忠景の甥)と結んで対立しました。
1479年(文明11年)、扇谷上杉氏の重臣・太田道灌は、千葉孝胤を討伐すべく出陣しました。
458: 2024/07/02(火)08:36 AAS
1482年(文明14年)、室町幕府は、足利成氏と和睦を結びました。
459(4): 2024/07/02(火)08:38 AAS
試しにやらせて見たが、中身が全く無かったな
古河城の落城の記載は必要だろう
享徳の乱 年表
1454年(享徳3年)12月27日:享徳の乱の発端。関東管領上杉憲忠が鎌倉府の内紛に巻き込まれて謀殺される。これにより、関東地方は混乱状態に入る。
1455年(康正元年)1月:上杉氏と古河公方(足利成氏)との対立が激化。成氏は鎌倉を離れ、古河(現埼玉県古河市)に拠点を移す。
1455年(康正元年)7月:関東の諸勢力が成氏と上杉氏のどちらにつくかで二分され、各地で小競り合いが発生する。
1457年(長禄元年)4月:上杉氏側が江戸城を築城し、関東地方での支配を強化し始める。
1460年(寛正元年)各地で戦闘が断続的に続く。足利成氏は古河城を拠点に抵抗を続ける。
1471年(文明3年)上杉顕定が関東管領に任命され、上杉氏が優位に立つ。
1477年(文明9年)7月:室町幕府が調停に乗り出し、上杉氏と成氏との間で和議が成立。しかし、成氏は完全には従わず、戦乱は続く。
省3
460: 2024/07/02(火)11:49 AAS
>>459
なんの話? @阿波
461(1): 2024/07/02(火)11:50 AAS
スレの贅六荒らしはしつこいな
しばらくは続くんじゃないかな
462: 2024/07/02(火)14:37 AAS
>>459
見にくいし、分かりずらい
463: 2024/07/02(火)15:08 AAS
それ以前に、長尾景春の乱の記載すらない
出来損ないだよ
464: 2024/07/02(火)16:30 AAS
平原は卑弥呼の墓になり得ない
まず径百余歩で脱落。加えてあそこは伊都国の比定地であって邪馬台国ではない
465: 2024/07/02(火)16:30 AAS
>>459
こいつの文はAIでも無かろう
AIの方がまだ価値のある文を書ける
466: 2024/07/02(火)16:36 AAS
全長ではなく短い方の辺が百歩
ていうかこれ大きいという概念的な数字なのでは
467: 2024/07/02(火)16:49 AAS
>>459
1471年(文明3年)に上杉顕定が関東管領に任命されたのは事実ですが、その時点では上杉氏が優位に立っていたとは言えません。むしろ、関東管領職をめぐる争いは激化しており、上杉顕定は就任直後から敵対する勢力との戦いを強いられました。
468: 2024/07/03(水)02:12 AAS
室町時代中期、将軍足利義政と関東管領上杉憲忠に反旗を翻した足利成氏との間で、享徳4年(1455年)から文明元年(1457年)3月にかけて激戦が繰り広げられました。
戦いの序盤、成氏は上杉憲忠を謀殺し、高幡・分倍河原で激戦を制します。上杉軍は数名の大将を失い、戦況は成氏に傾きます。さらに、成氏は天皇から下賜された「天子御旗」、幕府から下賜された「武家御旗」、そして自身の「御旗」を掲げ、勢いに乗ります。
しかし、上杉軍は反攻に転じ、享徳5年(1456年)に小栗城を陥落させ、北関東で両軍は再び激戦を繰り広げます。上杉方は翌年鎌倉を攻略し、成氏は下総古河へと敗走します。この出来事を契機に、古河公方が成立します。
戦火は千葉氏の本宗家にも及びますが、滅亡するのは文明8年(1466年)のことです。幕府は東常縁を援軍として派遣しますが、成氏軍を撃退することはできませんでした。
天命・只木山から崎西城へと敗走する上杉軍。長尾昌賢は、この戦いで名を上げることになります。
469: 2024/07/03(水)02:19 AAS
岩付城は当時古河公方方に属していた成田氏の手によって築城された城であり、むしろ古河公方の管領上杉氏に対する最前線の城がその後、道灌の子孫である岩付太田氏の手にわたったとする説が出されている。
470(1): 2024/07/04(木)11:51 AAS
この時代は荒ぶってていいね
小大名クラスはアドレナリン出っ放しの毎日だろうな
471: 2024/07/04(木)14:40 AAS
大掾氏、豊島氏、三浦氏が元気な時代
472: 2024/07/04(木)22:36 AAS
>>470
ゲーム脳か?
そんなお気楽な時代じゃないんだが。
戦争か餓死か好きな方を選べ、
但しその選択で己のみならず配下全員の生死が決まる、
と、そういう時代。
そもそも大名家当主はいざ知らず、
実際に戦う者たちはアドレナリンが出るほど飯を喰えていない。
ブルーハーツの歌詞じゃないが、
省3
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