[過去ログ] 【九州説】魏志倭人伝を正しく読む 邪馬参拾 (1002レス)
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650: 06/25(火)06:35 AAS
>>649
>帰りの船ってどこから出したんだろうか
大陸へ渡るため、「阿波」の海人族は、対馬海流を利用して平戸の渡島・大島辺りから出航したのだろう。 @阿波
651(1): 06/25(火)09:53 AAS
内乱の激しい中国や2世紀末の倭国大乱の影響を避けるため、都は、大陸からより離れた奈良盆地の纒向に移された。大和は、瀬戸内海に近く、交通の要衝である。また、人口も多く、日本の中心に位置しており、都にふさわしい場所であった。
652: 06/25(火)10:29 AAS
>>651
>大和は、瀬戸内海に近く、交通の要衝である。
海の恵みを得られない大和は寂れた陸の孤島である。 @阿波
653: 06/25(火)11:08 AAS
魏使は100人くらい乗れる外洋船で帯方郡の港から伊都国の港まで来たんだろう
654(1): 06/25(火)14:06 AAS
遣唐使の最澄が行ったのも
肥前国松浦の田浦で
現在の長崎県平戸市田浦海岸なら
末羅国から渡ってるのか
フィジカルエリートではない
普通の船乗りもいるわけだから
対馬海流に流されるのを計算して
なんとか対馬の海岸に漂着したい
対馬で一、二泊して筋肉休めて半島へ
魏の使者は帰りまで想定して
省4
655: 06/25(火)14:43 AAS
>>654
「末盧国」は福津市(万津浦)辺り。
半島への帰りは、対馬海流を利用して平戸の渡島・大島辺りから出航したのだろう。 @阿波
656: 06/25(火)20:49 AAS
卑弥呼は甕依姫確定な?
657: 06/26(水)01:18 AAS
魏志は自前の大船で伊都国の港まで来て数キロ離れた奴国の卑弥呼の宮殿に行ってまた伊都国の港から帰ったんだよ
658: 06/26(水)02:00 AAS
孝元天皇(8)の息子である
開化天皇(9)の弟の大彦命が北陸に行って
その娘と崇神天皇(10)が結婚
息子の垂仁天皇(11)が産まれる
権威(祭祀)の担当者は
孝元天皇の妹の倭迹迹日百襲姫で
天皇のひとつ下の倭王扱い
(太子は別枠)
九州は熊襲いるし
魏が半島の公孫氏滅ぼしたばかり
省5
659: 06/26(水)02:08 AAS
水行20日で但馬
水行10日で敦賀
輸入した鉄が無事に運べるように
必死に祈るなら
そら宗像大社(不弥国)も
令和の今まで(海上)交通の神で残るよねそりゃ
あの駐車スペース異常だもんな
660: 06/26(水)11:35 AAS
北部九州の先駆者たちは、朝鮮半島から伝わった稲作技術をいち早く取り入れ、豊かな食糧生産基盤を築き上げた。 従来の狩猟採集生活から農耕社会への移行は、人口増加と集落の複雑化を招き、新たな社会システムの構築を促した。
石器加工技術の粋を集めた今山系石斧は、北部九州の象徴ともいえる存在だ。 緻密な打製石斧は、効率的な伐採を可能にし、新たな耕地開拓を支えた。その洗練された形態は、単なる道具を超えた、高度な技術力と美意識の結晶である。
金属器の普及は、北部九州の社会に新たな息吹を吹き込んだ。 青銅製の農具や武器は、生産力と戦闘力を飛躍的に向上させ、社会構造に大きな変化をもたらした。権力者の出現や社会階層の形成など、弥生社会の複雑化を加速させたのである。
北部九州の弥生時代は、単なる技術革新の列挙ではない。 それは、人々の暮らし方、社会のあり方、そして世界観をも変革する、ダイナミックな変革期であった。土器や石器、金属器などの遺物は、当時の息吹を今に伝える貴重な証言である。
北部九州の弥生時代を紐解くことは、人類史における大きな飛躍を理解することだ。 先駆者たちの挑戦と革新は、現代社会にも通じる普遍的なメッセージを秘めている。
661: 06/26(水)11:48 AAS
考古学ファンにとって、邪馬台国東遷説はロマンあふれる仮説の一つだ。九州に栄えた女王国が、いかにして畿内に新たな拠点を築き、大和朝廷へと発展を遂げたのか。その謎を解き明かす鍵の一つが、破鏡と呼ばれる銅鏡の破片にある。
破鏡とは、儀式や戦闘などで意図的に割られた銅鏡の断片を指す。縁をナイフ状に加工したり、紐を通して首から下げたりと、様々な用途に用いられた。弥生後期から古墳時代にかけて各地で出土しており、その分布状況は当時の権力関係や文化交流を映し出す貴重な資料となる。
特に興味深いのが、九州から畿内への破鏡分布の変化だ。卑弥呼が統治した弥生後期〜終末期には、破鏡は九州に集中していた。しかし、古墳時代前期になると、その分布は畿内へと大きく移動する。これは、九州の邪馬台国が衰退し、畿内の勢力が台頭してきたことを示唆している。
この分布変化をより具体的に見てみると、弥生後期の破鏡は畿内にはほとんど見られず、九州北部を中心に分布している。一方、古墳時代前期になると、畿内産の破鏡が急増し、九州北部での出土数は減少する。これは、九州から畿内への政治・経済・文化の中心地の移動を如実に表している。
もちろん、破鏡の分布だけで断定することはできない。しかし、他の考古学的資料と照らし合わせると、邪馬台国東遷説が有力な仮説であることは間違いないだろう。九州から畿内へと移る破鏡の旅路は、権力の移行と時代変革のドラマを静かに物語っている。
662: 06/26(水)14:11 AAS
熊本県北部の菊池川中流域に広がる台地、そこには弥生時代後期から古墳時代前期にかけて栄えた大集落遺跡、「方保田東原遺跡」が静かに佇んでいます。
発掘調査によって明らかにされたのは、幅8メートルにも及ぶ巨大な環濠をはじめ、100棟を超える竪穴式住居跡、そして土器や鉄器製作工房跡など、当時の暮らしを鮮やかに映し出す数々の遺構です。
中でも注目すべきは、祭祀に用いられたと考えられる「巴形銅器」や「仿製鏡」の出土です。これらの精巧な装飾品は、当時の精神文化の豊かさを物語ると同時に、遠く離れた地域との交流を示唆する貴重な資料としても位置づけられています。
肥沃な菊池川流域の恵みを受け、高度な技術と活発な交流を育んだ方保田東原遺跡。ここはまさに、弥生・古墳時代の人々の営みが息づくタイムカプセルと言えるでしょう。
663: 06/26(水)18:06 AAS
4世紀 金官伽耶時代、大成洞(テソンドン)古墳の伽耶首露王
インド阿踰陁(アユタ)国の王女で、許黄玉という。
インドの太陽神「スーリア」と方保田東原遺跡
画像リンク[png]:blogimg.goo.ne.jp
664: 06/26(水)19:24 AAS
邪馬壱国東遷ってどこの馬鹿が言ってるの
畿内にあるのが無理なのは馬鹿でもわかる
けど奈良そしていまの天皇に繋げたい
そういう妄想からくるのか?
東遷ではなく
家来の大和に簒奪されたんよ
665: 06/26(水)19:54 AAS
筑紫君祝は暗殺したが
戦果は無し ということは大和が負けた
簒奪できず
後の蘇我氏は天皇記持ってるんだから
明らかに天皇で簒奪記録
日本書紀は勿論天武天皇による簒奪成功の
正当化書
700年くらいまで九州倭国があったのは
郡、評の嘘とかからも匂うね
666: 06/26(水)20:13 AAS
Youtube見てたらアマタリシヒコは実在
欠史八代の一人の兄貴という
推測するに八代はきちんと九州倭国王で
歴代天皇にパッチワークしたもの
事績は有るけど絶対載せられない笑
特に600年から700年くらいの話とか
魏志倭人伝よりも当てにならない笑
日本書紀は中身は悪意では無いけど
捏造に満ちてると思うよ
でもよく読めば嘘わかるようにはなってる
省3
667(1): 06/26(水)22:20 AAS
徳島県神山町字神領に位置する悲願寺は、古代ロマン漂う神秘的な寺院です。山奥にひっそりと佇むこの寺には、卑弥呼ゆかりの地という伝説が残されています。
境内には、古代の灯台とされる「常夜塔」が残り、由緒書には弘法大師との関わりも記されています。また、すぐ横を流れる沢の清流は、訪れる人を魅了するほどの美しさです。
さらに、伊邪那岐命、伊邪那美命、天照大神をはじめとする神々が祀られており、神聖な雰囲気を漂わせています。
668: 06/27(木)08:53 AAS
>>667
徳島県神山町字神領にひっそりと佇む悲願寺は、古代ロマンと歴史が織りなす神秘的な寺院と言えるでしょう。まさに「秘境」という言葉がふさわしいその立地は、訪れる者に畏敬の念を抱かせずにはおきません。
卑弥呼ゆかりの地という伝説は、ロマン心をくすぐる要素満点です。古代の灯台とされる「常夜塔」の存在は、まさにタイムスリップしたかのような感覚を味わわせてくれます。
弘法大師との関わりも記されているとのこと、歴史好きにはたまらない情報ですね。由緒書を片手に、寺内を散策するのも楽しみの一つでしょう。
すぐ横を流れる沢の清流は、自然の美しさを肌で感じられる貴重な存在です。都会の喧騒を忘れて、心静かに過ごしたい方に最適な場所と言えるでしょう。
伊邪那岐命、伊邪那美命、天照大神をはじめとする神々が祀られていることから、神聖な雰囲気も漂っています。パワースポットとして訪れるのも良いかもしれませんね。
669: 06/27(木)14:33 AAS
邪馬台国は大和の国の事、卑弥呼の時代の領土は北九州だけ、その後畿内まで征服した
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