「日本」は「百済」の南遷国 Part17 (939レス)
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1: 08/14(水)08:43 AAS
白村江の戦いで唐に敗れた百済王子扶余勇は、九州北部に南遷し、
大宰府を中心とした51kmの羅城の小国を築きました。
扶余勇は国号を「南扶余(百済)」から「日本」に改めました。
この小国は東に展開し、近江まで進出しました。
この扶余勇を日本書紀は天智天皇と諡号しました。

参照サイト「国際的視点からの古代史考 扶余勇=天智天皇」
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(1): 08/14(水)10:31 AAS
東夷王とは倭国王のことだった『漢書 王莽伝』〜中国の史書から見た倭人

越裳氏重譯獻白雉、
黄支自三萬里貢生犀、
東夷王度大海奉國珍、
匈奴單于順制作、去二名

『漢書 王莽伝』より
越裳は重ねて使者を通じ、白雉を献じた。
黄支は三万里を経て、生きたサイを貢いだ。

東夷王は大海を渡り、希少な品々を奉った。
匈奴単于は、(中国に)順じ、二字名を改めた。
3: 08/14(水)10:32 AAS
王莽(前45〜23)は、前漢の政治家でしたが、権力を握り、漢の高祖の霊より
禅譲を受けたとして、漢に代わり「新」王朝(8〜23)の皇帝に即位しました。

周代の治世を理想とし、儒教を重んじた政治は現実的ではなく短期間で破綻していきます。
王莽は、「華夷思想」に基づいて匈奴や高句麗など周辺民族の王号を
剥奪したとされています…

新朝は、東夷諸族に新たな印綬を配布しますが、高句麗王は高句麗候に格下げされ、
更に命令に背いたとして、国名を「下句麗」と改めさせました。
王莽は、儒教、礼を重視していましたので、高句麗を「礼無し」と見たのでしょう。

一方、冒頭の伝にあるように、東夷王は王位を剥奪されてはいません。
大海を渡って珍奇な(価値の高い)物産を奉る東夷王は、礼のある王だったのでしょう。
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(2): 08/14(水)10:33 AAS
ところで、海を渡ってやって来る東夷王って誰のこと?

三國志魏書烏丸鮮卑東夷伝に記される東夷諸族とは、夫余・高句麗・東沃沮・挹婁
・濊・韓(馬韓・辰韓・弁辰)・倭人であり、烏丸・鮮卑を含めた『九夷』のうち、
「大海を渡って来る東夷」は、倭人しかありません。

三國志東夷伝において倭「人」と人がつくのは倭人だけです。
東夷諸族の中で、最も文化度が高く、東夷のリーダー格であるのは「倭人」だと、
中国は認めていたのでしょう。

これまで王莽は周辺民族に対し“差別的”だから高句麗の王号を剥奪したように
言われてきましたが、東夷諸族にそれぞれ王号を与えるのではなく、

その盟主的存在である倭国王だけに「東夷王」を与えるよう改革したに過ぎない…
省1
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(1): 08/14(水)10:34 AAS
東夷九部族のなかで唯一倭国王だけに「東夷王」と王を名乗る事が許された。

なるほど。
6: 08/14(水)11:05 AAS
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省12
7: 08/14(水)11:08 AAS
またこれを裏付けるように大韓民国釜山広域市江西区の加徳島にある

「約6300年前」の獐項遺跡からは、伽耶と同様にD-116.1(D1a2a1)
のY染色体を持つ縄文系人骨が出土している。

獐項遺跡からは日本産翡翠の装身具をはじめ48体の人骨が出土し、
科学分析が可能であったのは17体で、うち1体からはヨーロッパ系の母系とも
共通するミトコンドリアDNAのハプログループHが検出されている。
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(1): 08/14(水)11:10 AAS
ミトコンドリアDNAのハプログループH 、
インドにはmtハプログループH が多い。アーリアンの血統だろうか。

4世紀 金官伽耶時代、大成洞(テソンドン)古墳の伽耶首露王と
インド阿踰陁(アユダ)国の王女で、許黄玉という。

インドの太陽神「スーリア」と方保田東原遺跡の巴形銅器
画像リンク[png]:blogimg.goo.ne.jp
9: 08/14(水)11:12 AAS
福岡スダレ遺跡からは弥生時代中期(BC300年頃)の中東や、南インドで流行った
「子持ち壺」が出土してるから、交流、関わりは有ったんだろうな。

外部リンク:adeac.jp
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(1): 08/14(水)11:13 AAS
>南越国内の遺跡から出土した「巴形模様が刻印された」青銅、鼎。

広東省・恵州(香港北部の市)・缚娄古国遺跡 始于春秋時期 3000年前
画像リンク[jpg]:i1.kknews.cc
画像リンク[jpg]:www.people.com.cn
11: 08/14(水)11:31 AAS
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省9
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