[過去ログ] 「日本」は「百済」の南遷国 Part17 (1002レス)
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1: 2024/08/14(水)08:43 AAS
白村江の戦いで唐に敗れた百済王子扶余勇は、九州北部に南遷し、
大宰府を中心とした51kmの羅城の小国を築きました。
扶余勇は国号を「南扶余(百済)」から「日本」に改めました。
この小国は東に展開し、近江まで進出しました。
この扶余勇を日本書紀は天智天皇と諡号しました。

参照サイト「国際的視点からの古代史考 扶余勇=天智天皇」
2
(1): 2024/08/14(水)10:31 AAS
東夷王とは倭国王のことだった『漢書 王莽伝』〜中国の史書から見た倭人

越裳氏重譯獻白雉、
黄支自三萬里貢生犀、
東夷王度大海奉國珍、
匈奴單于順制作、去二名

『漢書 王莽伝』より
越裳は重ねて使者を通じ、白雉を献じた。
黄支は三万里を経て、生きたサイを貢いだ。

東夷王は大海を渡り、希少な品々を奉った。
匈奴単于は、(中国に)順じ、二字名を改めた。
3: 2024/08/14(水)10:32 AAS
王莽(前45〜23)は、前漢の政治家でしたが、権力を握り、漢の高祖の霊より
禅譲を受けたとして、漢に代わり「新」王朝(8〜23)の皇帝に即位しました。

周代の治世を理想とし、儒教を重んじた政治は現実的ではなく短期間で破綻していきます。
王莽は、「華夷思想」に基づいて匈奴や高句麗など周辺民族の王号を
剥奪したとされています…

新朝は、東夷諸族に新たな印綬を配布しますが、高句麗王は高句麗候に格下げされ、
更に命令に背いたとして、国名を「下句麗」と改めさせました。
王莽は、儒教、礼を重視していましたので、高句麗を「礼無し」と見たのでしょう。

一方、冒頭の伝にあるように、東夷王は王位を剥奪されてはいません。
大海を渡って珍奇な(価値の高い)物産を奉る東夷王は、礼のある王だったのでしょう。
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(2): 2024/08/14(水)10:33 AAS
ところで、海を渡ってやって来る東夷王って誰のこと?

三國志魏書烏丸鮮卑東夷伝に記される東夷諸族とは、夫余・高句麗・東沃沮・挹婁
・濊・韓(馬韓・辰韓・弁辰)・倭人であり、烏丸・鮮卑を含めた『九夷』のうち、
「大海を渡って来る東夷」は、倭人しかありません。

三國志東夷伝において倭「人」と人がつくのは倭人だけです。
東夷諸族の中で、最も文化度が高く、東夷のリーダー格であるのは「倭人」だと、
中国は認めていたのでしょう。

これまで王莽は周辺民族に対し“差別的”だから高句麗の王号を剥奪したように
言われてきましたが、東夷諸族にそれぞれ王号を与えるのではなく、

その盟主的存在である倭国王だけに「東夷王」を与えるよう改革したに過ぎない…
省1
5
(1): 2024/08/14(水)10:34 AAS
東夷九部族のなかで唯一倭国王だけに「東夷王」と王を名乗る事が許された。

なるほど。
6: 2024/08/14(水)11:05 AAS
.
 
 
 
 
 
 
 
 
 
省12
7: 2024/08/14(水)11:08 AAS
またこれを裏付けるように大韓民国釜山広域市江西区の加徳島にある

「約6300年前」の獐項遺跡からは、伽耶と同様にD-116.1(D1a2a1)
のY染色体を持つ縄文系人骨が出土している。

獐項遺跡からは日本産翡翠の装身具をはじめ48体の人骨が出土し、
科学分析が可能であったのは17体で、うち1体からはヨーロッパ系の母系とも
共通するミトコンドリアDNAのハプログループHが検出されている。
8
(1): 2024/08/14(水)11:10 AAS
ミトコンドリアDNAのハプログループH 、
インドにはmtハプログループH が多い。アーリアンの血統だろうか。

4世紀 金官伽耶時代、大成洞(テソンドン)古墳の伽耶首露王と
インド阿踰陁(アユダ)国の王女で、許黄玉という。

インドの太陽神「スーリア」と方保田東原遺跡の巴形銅器
画像リンク[png]:blogimg.goo.ne.jp
9: 2024/08/14(水)11:12 AAS
福岡スダレ遺跡からは弥生時代中期(BC300年頃)の中東や、南インドで流行った
「子持ち壺」が出土してるから、交流、関わりは有ったんだろうな。

外部リンク:adeac.jp
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(1): 2024/08/14(水)11:13 AAS
>南越国内の遺跡から出土した「巴形模様が刻印された」青銅、鼎。

広東省・恵州(香港北部の市)・缚娄古国遺跡 始于春秋時期 3000年前
画像リンク[jpg]:i1.kknews.cc
画像リンク[jpg]:www.people.com.cn
11: 2024/08/14(水)11:31 AAS
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省9
12
(2): 2024/08/14(水)11:33 AAS
『宋書』では「弁辰」が消えて、438年条に「任那」が見え、
451年条に「任那・加羅」と2国が併記される。その後の『南斉書』も併記を踏襲している。

広開土王碑文(414年建立) : 永楽10年(400年)条の「任那加羅」。
『鳳林寺真鏡大師宝月凌空塔碑文』(924年成立):大師の俗姓について
 「任那の王族に連なる新金氏」としている。

『宋書』倭国伝のなかで451年、南朝宋の文帝が倭王済(允恭天皇に比定される)に
「使持節都督・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事」の号を授けた記述や

478年、南朝宋の順帝が倭王武(雄略天皇に比定される)に
「使持節都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事安東大将軍倭王」
の号を授けたと記述している。
13: 2024/08/14(水)11:35 AAS
一般的な認識は、任那日本府の淵源を『日本書紀』神功紀にある「官家」に求め、
任那日本府は伽耶地方=任那地方を政治的軍事的に支配したとするものである。

そのため三韓征伐のモデルとなった朝鮮半島への出兵を4世紀半ば
(神功皇后49年を干支2巡繰り上げたものと見て[369年]と推定する)とし、
以降、当地域は倭王の直轄地であったとした。
14
(1): 2024/08/14(水)11:37 AAS
.
 
 
 
 
 
 
皇族のY染色体(D1a2a1)が4世紀 までは遡る事が証明されたな。

半島中部の松菊里遺跡や、福岡県平原遺跡・吉武高木遺跡の王墓から(D1a2a1)が
発見されれば完璧なんだが。酸性土壌の九州では古くなるほど人骨は難しいか。
省1
15: 2024/08/14(水)11:42 AAS
「魏志 馬韓伝」、にある国々で下の8か国はすでに、
卑弥呼時代(3世紀)には、邪馬台国の軍事勢力圏に入ってたと考えられる。

これらは邪馬台国時代の軍事的長(卑奴母離)を(卑離)と記録者が省略化したのだと思う。

卑離(ヒリ)国
占離卑(センリヒ)国 ←(単に写し間違いと思われる)
監奚卑離(カンケイヒリ)国
内卑離(ダイヒリ)国
辟卑離(ヘキヒリ)国
牟盧卑離(ボウロヒリ)国
如来卑離(ジョライヒリ)国
省1
16: 2024/08/14(水)11:43 AAS
ヒナモリ(卑奴母離、比奈毛里、鄙守、比奈守、夷守)は、

3世紀から4世紀頃の日本の邪馬台国の国境を守備する軍事的長の名称。
後に地名、駅名、神社名等に残る。
またヒナモリの「モリ (守) 肥後守ひごのかみ」などカバネとしても使われた。

邪馬台国時代の軍事的長。
『魏志倭人伝』は、邪馬台国に属する北九州の対馬国、一支国、奴国、
および不弥国の副官に「卑奴母離」(ヒナモリ)がいたことを伝えている。

これらの国々は邪馬台国の外国交易ルートに位置し、
外敵や賊に対する守りを固めるために置かれた男子の軍事的長の称号と考えらる。
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(2): 2024/08/14(水)11:47 AAS
4世紀は高句麗によって楽浪郡を滅ぼされ(313年)中原の支配から解放され
伯済國は百済へと斯盧國は新羅へと纏まって建国して行ったんだろう。

南部の倭人地域は混乱したが卑奴母離(ヒナモリ)などの
一定の軍事力は保持してただろうが、北部から高句麗勢の軍事力をバックに

南下政策をとった過程で倭国の勢力地域も侵され高句麗、百済、新羅、倭国の
四ツ巴、戦闘状態の天地が引っくり返る様な状態な時代だった。
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(2): 2024/08/14(水)11:48 AAS
そこで、登場したのが「神功皇后」で息長氏の先祖が新羅王アメノヒボコ。

おいっ、待てよ、新羅は我が先祖の領地だぞよと、
昔の三韓の領地を還せと、返還しないなら征伐だと、その過程が例の下の好太王碑文。

百済・新羅はもと高句麗に服属する民で、これまで高句麗に朝貢してきた。
ところが、倭が辛卯の年(391年)以来、海をこえて襲来し、
百済や新羅などを破り、臣民とした。百済とは七支刀を送り同盟関係が出来てた。

そこで好太王は、396年にみずから水軍をひきいて百済を討伐した。
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(1): 2024/08/14(水)11:48 AAS
この過程を表したのが例の、倭王武の上表文。

478年,中国南朝の宋に倭王武(雄略天皇)が送った上表文。
「宋書」倭国伝にみえる。
武は上表で、東は毛人(えみし)55国を、西は衆夷(しゅうい)66国を征服して国内を統一、

さらに海北の朝鮮半島南部95国を平定したと誇示したうえで、

475年に百済(くだら)の21代蓋鹵(がいろ)王を殺した高句麗に対抗するため、
「使持節、都督倭・百済・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓七国諸軍事、
安東大将軍、倭国王」の称号を求めた。
が、すでに宋に朝貢している百済を除いた称号は認められた。
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(1): 2024/08/14(水)11:52 AAS
七支刀。
日本書紀等の史書では、百済が倭に対して複数回朝貢し人質を献上していたことが
記述されているが、この七支刀献上に関して、
日本書紀神功皇后摂政52年条に、百済と倭国の同盟を記念して神功皇后へ
「七子鏡」一枚とともに「七枝刀」一振りが献上されたとの記述がある。

紀年論によるとこの年が372年にあたり、
年代的に日本書紀と七支刀の対応および合致が認められている。
銘文の冒頭には「泰□四年」の文字が確認でき、「泰」は「太」と音通するため。
東晋の「太和四年」(369年)とする説(福山敏男、吉田晶、浜田耕策ら)。
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