【日本史】GHQに焚書された書籍 (536レス)
上下前次1-新
109: 09/20(金)21:27 AAS
p93(二)松平定信勤倹貯蓄をすすめる
家治の薨後、家斉が職をつぐ。はじめ吉宗は家重の二人の弟宋武・宋尹を田安・一橋の門内に十万石を給して住まわせ、家格を三家に準じさせた。家重はまたその子重好を清水門内に住まわせた。八省の卿に任命されたから、世にこれを三家に対して三卿といった。家斉はこの一橋宋尹の子治斉(ハルマサ)の子である。
110(1): 09/20(金)21:38 AAS
AA省
111: 09/20(金)21:43 AAS
>>110
家斉が11代
112: 09/21(土)06:16 AAS
家治の息子が突然死んだのは一橋治斉か田沼意次の仕業じゃないかと言われているし、実際家斉は生涯墓参りを欠かさなかったり、本当は弟の一橋家ではなく兄の田安家の定信の方が順番的に将軍になる家なのに、事前に田沼意次が取り持って松平家の養子になったり、治斉は将軍の父となって豪奢を極めただけでなく、島津やバックのオランダと組んで開国工作に加担したんじゃないかという疑惑の過程を日本史近代板のフリーメーソンスレに書いた。
フリーメーソンのティチングから画策して、結局開国したのもフリーメーソンのペリーだったし、太平洋戦争でもルーズベルト、トルーマン、ハル、マッカーサーはフリーメーソンだし、フリーメーソンによって解体されてるのは欧州だけでなく日本もそう。
113: 09/21(土)08:12 AAS
p94
家斉は時に年十四であったから、田安宋武の第三子で奥州白川松平氏を継いでいる定信をあげて老中上座とし、大いに前代の弊政を改めようとした。
その頃は三都や国々で「打ちこわし」が盛んに行われた時である。定信が老中に就任するに当たっては、大いなる決心が必要であった。定信の決心は天明八年正月二日、江戸本所吉祥院の歓喜天に奉納した願文によっても知ることができる。
その願文には「越中守、一命はもちろんのこと、妻子の一命も奉納いたします。そして必死に奉心願います事柄は、右の一つ一つの箇条が相調わず下々は困窮しており、御威信御人徳が細部まで行き届かず、人々が崩壊いたしましてございますならば、ただ今のうちに私が死去いたしますように申し上げ願います」と言っている。
従って定信老中七年間というものは身をもって範を垂れる主義で政治を行った。
幕府の費用は一般には十分の五を節約し、大奥の費用は三分の二を減じ、大名にも三年間特別な倹約を令して、老中の招請・手紙・贈答などを禁じ、人民にも勤倹をすすめることが次第に厳しく、私の贈り物を禁じ、衣服調度の新製を停め、嫁娶、造営修繕はもっぱら倹約を旨とし、果ては櫛・かんざし・煙草入・羽子板の類いにまで干渉して華美に流れるのをとめた。
前代のインフレ政策に対する定信の緊縮政策だと言われる。このために定信は在職中に三十三万八千両という大金を余らせたという。従って定信は諸大名に対して、支那の常平倉の制にならって、備荒貯蓄をすすめ、寛政二年に令して今後五ヶ年収穫一万石ごとに、籾五十石づつを蓄えさせた。五ヶ年計画はここでも実施されている。
翌三年には江戸市中に令し、七分金といって町内費を節約して七分を積み立てさせ、貧民救済に充てさせた。この金が積もり積もって明治七年には一百七十万両となっていたので、東京都の共有金となって働いているという。
114(1): 09/21(土)08:12 AAS
※東京都の共有金となって学校や道路を整備した
※金1両=金4分なので、江戸中期1両4万円で計算すると金7分は7万円。しかし幕末にはインフレを起こして1両1万円以下の価値になったので、金1両=4千円で計算すると68億円
※定信があまらせたお金、1両4万円で計算すると135億2千万円
「なお、日本銀行金融研究所貨幣博物館のサイトによると、江戸時代の各時期における1両の価値は米量価で換算した場合、江戸初期で約10万円前後、中〜後期で4〜6万円、幕末で約4千円〜1万円ほどに相当する」
外部リンク:ja.m.wikipedia.org
115(1): 09/21(土)15:19 AAS
p95(三)文武の両道を励ます
定信はまた士気を振起しようとして、天明七年弓馬・剣術・槍術・柔術などに秀でた者を書き出させたことがある。また幕府の武器にも大修理を加え、市内四ヶ所に大的を設け、王子に砲術の練習所を開き、たびたび遠乗り・狩猟を催して武芸をすすめ、寛政三年からは、武士の免許を有する諸士の武芸を親閲することもはじめられた。こうして武芸の達人は江戸に集まって道場を開き、柔弱の風もやや改まった。
定信はまた風儀を正すという基は学問・教育の奨励にあるとし、天明七年旗本に文武を励むべきことを命令し、また老中列座で旗本の儒学の考試を行い、その成績によって抜擢することともした。柴野彦輔(栗山)岡田恕(寒泉)尾藤肇(二洲)は前後に召し出されて幕府の儒員となった。これを寛政の三輔といったり、寛政の三博士といったりする。
聖堂においては林大学頭信敬が時々出席して講釈をするほか、これらの儒員も定日に講釈を開いて、誰にでも随意に聴聞させた。ここにおいて聖堂は学校とかわったのである。
寛政二年当時朱子学は幕府の学問であってこれを正学、他の学を異学ということは徳川実紀にも見えている。これを寛政異学の禁というのであるが、これは朱子学の試業を経た者でなければ仕官しないことにしたので、他の学に対して絶対的な圧迫を加えたのではなかったから、古学や陽明学も行われ、塙保已一の和学講談所なども起こっている。
この頃諸大名においても学校を興し、学問教育を奨めた者は多く、その主なものを挙げると米沢の興譲館・鹿児島の造士館・佐賀の弘道館・仙台の養賢堂・萩の明倫館・熊本の時習館・金沢・名古屋の明倫堂などである。
定信はまたしきりに孝子・節婦を表彰して徳義をすすめたので、あんなにも乱れていた風俗も大いに改善された。当時の人は西に聖天子(光格天皇)がいらっしゃり、東に賢明が出る」と言って喜びあった。世にこれを当時の年号によって寛政の治といっている。
116: 09/21(土)20:40 AAS
p97(四)文化文政時代の文芸
いつの時代、いかなる政策にも反対者はいるもの
永久に このようなきびしい御代ならば 長生きしても楽しみはなし
白河の 清い流れに住みかねて 元の濁りの田沼恋しき
世の中に 彼(蚊)ほどうるさい者はない 文武(ブンブン)といって夜も眠れず
省10
117: 09/21(土)21:11 AAS
十返舎一九は滑稽小説をよくし東海道膝栗毛、江の島土産などこの種の著述は数十種、天保二年七月二十九日没した。
曲亭馬琴は滝沢馬琴のこと、和漢の学にくわしく、小説家であろうとして山東京伝に師事し、文化二年椿説弓張月を、十一年に至り南総里見八犬伝を著し二十年間にして成功した。終わりの頃は失明したので妻に口授して完成した。嘉永元年十一月六日、年八十二で没した人である。
この時代にはなお山東京伝や柳亭種彦の小説、加藤千蔭・村田春海・香川景樹の歌など、ほとんど文化に酔った形であった。
この時代の文化を概論すれば、階級的であって、上の方は保守的、下の方は進歩的であったが、野卑なところもある。伝統の執着が抜けないで、個性が十分に発揮されていない。勧善懲悪主義にとらわれている傾きがある。
※南総里見八犬伝の終わりの頃に曲亭馬琴はついに失明したのだが、妻ではなく息子の嫁に口述筆記をさせて完成させた。勧善懲悪の八犬伝が空前の大ブームになって、馬琴がどこに行っても八犬伝があったことを前書きとかで書いている。凧の図柄や腹巻きなどの八犬伝グッズも充実。それでその後の小説は馬琴のまねしてなのか勧善懲悪ものばかりになっていて、坪内逍遙が勧善懲悪ものにうんざりしてボロクソに批判している。その後は勧善懲悪の反動のような明治の文豪の作品になっていく。八犬伝の1巻の前書きに、この物語を通して婦女子や子供に勧善懲悪を教えるために作ったと動機を語っている。
118: 09/22(日)00:26 AAS
p99
絵画の方では吉宗・家重・家治・家斉の初期にかけて明清画派が出現した。祇南海・池大雅・与謝野蕪村のようなそれである。これは清の伊孚九等によって伝えられ、支那南宋画の一派で、水墨を主として風雅な趣を重く見るものが、文人の間で流行したから文人画ともいう。
この明清画派に刺激を受けて大成したものは写生画派である。円山応挙は丹波の人、諸家の画風から出て、ついに一格を成し、写生画派として円山派の祖となる。その技が最も熟したのは家斉の初期天明頃で、遺品としては鯉魚の絵の他が多い。挿絵には虎が出ている。寛政七年七月十七日卒した。
喜多川歌麿は宝暦三年江戸で生まれ、文化二年五月二日没した人。浮世絵師である。浮世絵は肉筆のほかに版画が発達して、まま版画の別名かのように見られる位である。版画は錦絵と版元の挿絵との二種ある。
浮世絵は前にも述べたが、歌麿をもって最も傑出したものとする。おおよそ鎖国中太平の続くままに、文化の消化創造が行われたもの、今日は世界的鑑賞の材料となっている。
119: 09/22(日)08:13 AAS
p99(五)文化文政時代の裏面
化政時代には見るべく誇るべき文化も十分にあるが、上下はただ安逸奢侈に耽って、士風はおのずからくずれ、武士にして女師匠の元へ歌や三味線の稽古に行く者もあり、遊情安逸に流れた結果、町人から借財をしてようやく体面をつくろうというように、経済的な現実暴露を庶民の前に展開したのであるから、早晩当代の社会構成が崩れなくてはならない形勢になってきた。
武士でなくても一般でも遊情安逸をむさぼったから、ひいては射幸心を助長し、富くじ大流行の世であった。
将軍家斉にしても大奥の女中一千人、上下あげて感傷的・享楽的な世相を構成し、弾力性に乏しい、いわゆるらん熟味に富んだ退廃味がみなぎり盛んになった時代であった。
こうして天保初年から再び凶作が続いて、米価は次第に騰貴し、四年には陸奥・出羽に飢饉が起こり、五年に至ってますます甚だしく、江戸では餓死する者が多く、七年はまた大風雨が続いて、諸国一般に凶作であったが、遊情で無能な官吏は、救念の方法をもとらないので、ついに暴力に訴えて窮民を救おうとする者が出てきた。大塩平八郎の乱はそれである。
大塩は大阪町奉行の与力であったが、陽明学者で実行をたっとび、文政の末から隠居して洗心洞書院において門人に教授していた。天保八年二月上書して官米を使って窮民救助のことを建白したが、町奉行はこれを取り上げなかったので大いに怒り、窮民を救うと称し、その徒党と共に乱を行い、火を大阪中に放った。城代・町奉行はこれを防ぎ、三日で鎮め、平八郎は自殺した。実に一葉落ちて天下の秋を知る。江戸幕府の衰運も次第に表面に表れてきた。
※与力=行政・司法・警察などの任に当たった職業
120: 09/22(日)12:15 AAS
p100(六)天保の改革
家斉は大塩の乱後まもなく西丸に隠退し、世に大御所と称したが、治世五十一年間であった。次第に幕政改革の必要を感じる時に当たって、天保八年四月、庶子家慶が職を継いだ。この時より以前天保五年水野越前守忠邦は老中であり、以前から経世の志がある。今や将軍の代替を見るに及んで、かねての抱負を実現しようとし、たびたび倹約の令をしき、武芸を奨励したのを世に水越天保の改革というが、その法令はあまりに細かく取り締まりも厳しかった。
天保十三年四月八日の令をあげて見ると次のようである。
一、野菜ものなど季節がいたらない内に売買いたしてはならない旨を前々からお触れいたします
うながすけれどもこれが有るところ
近来初物を好みます事柄が増長いたし(中略)もし背く者においてこれがあるならば吟味の上厳重に罪科を申し付けなければならないのでございます
この調子で髪を結うには藁を用いること、贅沢な下駄を履いた者は獄に投じること、衣服のこと、櫛かんざしのこと、煙管のことまで規定した。
これによって忠邦は怨みをうけ、天保十四年閏九月十三日「御勝手取り扱いの儀につき、不行き届きの儀、これがある 老中職御免云々」という理由で職を免じられることとなった。この日府内の人民数百人は忠邦の邸内に集まり、瓦礫を投じ、夜に至ってますます甚だしかったという程、険悪な世の中になっていた。
こうして忠邦の改革も失敗に終わり、幕政中興の業は全く破れ、幕府衰亡の兆しはすでにこの時に現れるに至った。
121: 09/22(日)14:06 AAS
p101 学習参考
(1)挿絵解説
「昌平校」は昌平誌所載のものによる。林道春が寛永年間上野に設けた孔子の廟を、元禄三年綱吉が湯島に移して規模を大きくし、綱吉自ら大成殿の扁額を書いた。この大成殿はその後何度も焼けたので、寛政十一年造営復旧したが、この図はその頃の光景である。
大成殿は今日の東京帝大・東京高師・東京女高師の前身で、この地は東京女高師の地である。殿社にはそれぞれ名がついているから拡大鏡を使って読むと便利である。
「円山応挙の画」は讃岐金刀比羅宮蔵襖絵によったもの。原図は応挙四十六歳の時の作で、彼の特徴が最もよく現れた大作である。応挙は諸家の画風を合わせ、ついに一格をなし、円山派を開いた人。その周到な写実を味あわせるがよい。諸家を合わせて一格を完成するところ、絵画も次第に日本的独自的なものになったことも注意しなければならない。
(2)指導要領
幕府の一張一弛、ついに衰運に傾くに至った次第を知らせるのであるが「江戸幕府が衰亡に傾かなければならなかったのはどこにあるか」というようなことが中心の問題となる。
それで政治のこと、経済のこと、風俗のこと、文化のことなどが取り扱われ、同時に各立場の人となって見て、各その処すべき道はどこにあったかを考察させるのがよいと思う。
次には「どんな社会ができたら最もよいのであるか」が問題となる。これは教材の批判から自然に出きることなので、例えば田沼時代の政治は悪いと言えば、どんなのがよいかと問いたくなるし、定信の政治がよかったとすれば、これよりもよい方法がないかと問いたくなる。文化文政の時代、天保改革の時代全てそれである。こうして学習者は、常に理想の社会はどんなものであるかを求めていかねばならない。
ちなみに考古的よりも考現的にということはこの教材でもまた真理である。
122: 09/22(日)19:37 AAS
p103 第四十一 尊皇論と国学の勃興
学習目的
朝廷と幕府との関係につき歴史的に理解をさせ、かつ正当な観念を得させ、江戸幕府が朝廷に対し申し上げる態度から、尊皇論がだんだん起こり、国学の勃興は数多の尊皇家を輩出するに至り、やがて王政復古の大業を起こす原動力となって行く次第を学ばせ、国体観念を養うのを中心としながら他の文化にも触れる。
学習事項
(一)朝廷と幕府との関係
省7
123: 09/22(日)19:37 AAS
(二)江戸幕府の朝廷に対し申し上げる政策
江戸幕府は皇居の造営をした。例えば家康が慶長十年禁裏の規模を大きくし、新宮殿の造営をしようとする計画を立て、仙洞御所は十二年末落成、禁裏も十八年に竣工している。また松平定信の時、焼失後の皇居を寛政二年に増営した。それが嘉永七年に再び炎上したので、安政三年にまた建てられた。これが今の皇居である。
幕府はまた御陵の修築もした。久しきにわたる戦国兵乱のため荒廃していた御陵を、徳川綱吉が旧記に照らし合わせて遺蹟を捜索させ、これを修復した事実がある。
朝儀の復興をしたこともある。例えば東山天皇の御代に将軍綱吉が、天皇の即位の年つまり貞享四年十一月、大嘗祭を復興し、元禄七年には加茂の葵祭を復興したかのようなそれである。
宮家を建てたことは将軍家宣の時である。新井白石の建議により東山上皇の皇子秀宮直仁親王を閑院宮と申し、ここに四宮家を数えるに至った。
御料献上のことはたびたびあった。家康の時に一万石、家光の時にも一万石を皇室御料とし、寛永七年三千石を上皇の湯林邑として献じ、後でまた七千石を進めた。その後次第に献上によって御料は増し、寛永三年(綱吉の時)には御料の合計は十二万石以上に達した。しかし幕府の天領は普通「幕府八百万石」というから比較にもならないものである。
124: 09/22(日)23:25 AAS
p106
こうして幕府は表で朝廷を尊崇して、内で朝廷を畏れ申し上げ、陰で朝廷の御権勢を抑制申し上げ、幕政を維持し発展させようとしたあとが歴然としている。
慶長五年関ケ原の役後、奥平昌信に命じて京都の制法を掌(と)らせたところ京都御所司代にはじまり、翌年板倉勝重がこの職に任じられ、以来、京都所司代は禁闕守衛・官用弁理・京都町奉行や奈良・伏見町奉行の管理・訴訟聴断・社寺総掌と中々の重役で慶長三年まで続いた。この職は鎌倉幕府の京都守護、北条氏の六波羅探題にも相当するものであった。
また大阪役ののちすぐに元和元年七月十七日禁中並公家中御法度を作り、
一、天子の諸芸能の事第一は御学問である
を始めとして全部で十七条あるが、これによって朝廷の御事に干渉し申し上げることも少なくなかった。
徳川氏はまた藤原氏の例にならい、皇室の外戚となって幕府の基を固めようとし、元和六年秀忠の第七女和子(東福門院)を後水尾天皇の中宮といたし申し上げ、後に興子内親王が御誕生遊ばされ、寛政六年わずかに七歳になる興子内親王は即位しなさり、これを第百九代明正天皇と申す。
我が国では推古天皇をもって女帝の始めとし、その時から皇極(斉明)持統・元明・元正・孝謙(称徳)天皇が立ちなさったが、奈良時代から久しく絶えていた女帝の例がここにまた開かれ、明正天皇の後では後桜町天皇が女帝として立たせられた。この間第百八代後水尾天皇は、幕府の専横を憤りなさることがあり、次いで第百十代後光明天皇は大いに幕府をおさえて皇威を張ろうとしなさったが、御志成らずして、御在位わずかに十二年、御宝寿は実に二十二の御壮齢をもって崩じなさってからは、幕府はもはや憚るところもなくなった。
125: 09/23(月)08:12 AAS
p107(三)尊皇論だんだん起こる
水戸の藩主徳川光圀は尊皇の志高く、大義名分を明らかにする国体史編纂の大計画を立てた。光國が修史の事業を起こしたのは明暦三年(家綱の時)で、江戸駒込の下屋敷に史局を設け、諸国から学者を集めて、古書記録を捜索して国史を撰修した。後にこれを小石川の本邸に移し、名を彰考館と称し、のち光國が水戸西山に退隠するのに及んで、元禄十一年彰考館は水戸に移った。この後は水戸と江戸の両方で事業を継続した。しかし文政年間には水戸だけでしていた。
光國の集めた学者は人見卜幽・辻了的・栗山潜峯・三宅観瀾など主として山崎闇斎の学派の人々であった。
この書は神武天皇から後小松天皇に至る全部巻数三百九十七巻、それを本紀・列伝・志・表の四部にわけてある。本紀は天皇紀、列伝はその他の伝記、志は官職制度など、表は系図その他の表である。この間大義名分を正し、神功皇后を摂政としたこと、弘文天皇をお立て申し、吉野朝廷を正統としたことは、三大特筆といって有名である。
元禄十年に本紀はだんだん脱稿し、皇妃・皇子・皇女の三伝が成り、元禄十三年十二月に光國は薨じた。年七十三。私に謚して義光という。
光國の養子綱条はまた業をつぎ、正徳五年本書に命名して大日本史といい、享保元年列伝脱稿、この時から歴代の藩主は相ついで修撰に励み、約二百年ののち明治九年十二月徳川國順は大日本史全部を進献して乙夜の覧に提供した。
この書の編纂に関して、水戸藩でにおいて毎年五千石の米を経費に充てていた。これがやがて国民の尊皇心をひき起こすのに大いなる力となったのである。
※乙夜の覧=天皇が読書すること
126: 09/23(月)12:25 AAS
p108
尊皇の大義を説いた者に山崎闇斎がいる。闇斎は京都の人で元和四年から天和二年までいた人で、はじめ妙心寺にいたが、後に土佐の谷時中に朱子学を学び、別に吉川惟足に吉田派の神道秘伝を受け、別に垂加流の神道を唱えた。その尊重するものはいわゆる神道五分書、日本書紀神代の巻であるから、尊皇愛国の精神を鼓舞することが多かった。闇斎は江戸で教授したこともあり、会津の保科正之に仕えたことがある。門下ないし学統を受けた者の中からは、尊皇論者が続出するという有り様であった。
竹内式部や山懸大貳なども闇斎の学を奉じる人々であった。式部は越後の人で、京都に出て徳大寺家に仕え、闇斎の高弟玉木葦斎について、垂加流の神道を学び、兵学武術にも通じ、浅見絅斎の靖献遺言や栗山潜峰の保建大記の説をとって大義名分論を唱え、皇室の衰運を回復して幕府を抑制しようとすることを述べた。
公卿が聴聞する者は多く、門弟は七、八百人もいた。その人の学説は第百六代桃園天皇の天聴に達するに至ったが、すぐに幕府に忌まれて追放され、関係した公卿十五人以上も罰せられた。これが宝暦九年で、将軍家重の時である。あとまた八丈島に流され、船中病になって、途中三宅島で没した。年五十六であった。
山懸大貳は甲斐の人で、闇斎の高弟三宅尚斎の門人加加美桜塢に学び、大義を明らかにし、兵学・儒学・天文地理・有職故実などの諸学に通じ、最も兵学に通じていた。宝暦六年江戸八丁堀で弟子に教えるのに従い学ぶ者は数百人もいた。柳子新論を著して皇室が衰えたのを嘆き、激しく幕府を攻撃した。
藤井右門は越中の人、大貳に推服して、京都から来て大貳の家に寓居するとき、大貳の説を受け継いで述べ、甲府及び江戸の攻撃法を説いたので、大貳は斬られ、右門は獄門に処せられた。時に大貳は四十二、右門は四十八、明和三年将軍家治の世であった。
127(1): 09/23(月)12:59 AAS
p109(四)国学勃興と尊皇思想
このように、天下に率先して尊皇の大義を唱えた者は、たちまち罪にされるに及んで、公に幕府の不義を唱える者は衰えたが、この思想はおさえられるはずもなく、かえって国学の勃興と共に根強く尊皇の思想が培われ出した。
さきに水戸光國が国史の勉強をはじめた頃に僧契沖がいた。契沖は寛永十七年摂津尼ケ崎の藩士下川元全の子として生まれ、十一歳で出家し、諸所を周遊したが、博学にして特に古語に詳しかった。
契沖が大阪近くの今里妙法寺にいる頃、水戸光國は万葉集の善註がないのを恨み、下河辺長流に命じ註釈のことにかからせていたが、長流はその業を終えないで卒したので、光國は、契沖が長流の親友であり、かつ学徳ともに高いのを慕ってこの人を招聘しようとしたが、契沖は辞退して行かなかった。
しかし契沖は密かに光国の志に感じ、万葉集代匠記二十巻、総訳二巻をつくってこれを光圀に献上すると、光圀は大いに喜び、白金一千両、絹三十疋を贈ってその志に報いた。すでに契沖は大阪高津に、よい土地を占って移り住み、室を円珠庵と名づけ、俗客を絶って清修自適し、元禄十四年六十二年で寂した。
この万葉代匠記は万葉註釈書のうちでも特に傑出したもので、著者の自筆本が今日に残っているから、直接契沖の学説を伺うこともできる。
この時から国学の研究が盛んになり、享保八年には荷田春満が伏見稲荷山の祠官の家に生まれ、もっぱら国史国典によって国体の真髄とそれに付随した神道とを明らかにしようとすることを主張し、国学の学校を京都に建てることにしていたが果たさずに死んだ。元文元年六十九であった。春満は国史・律令にくわしく、神代巻・万葉集に創見あり、加茂真淵はその門人である。
ふみ分けよ 大和にはあらぬ唐島の
あとを見るのみ 人の道かは ー春満ー
※日本人なら朱子学だけじゃなく日本の書籍を読もうよ!みたいな歌
省2
128(1): 09/23(月)13:32 AAS
ふみ分けよ をわきまえると訳してあるのが多いが、文(ふみ)を区別するという意味と思う。
国文と漢文を区別して理解していく
履歴の履は履(ふ)むという意味で人の踏んで来た道これから踏みゆく道
わきまえるの意味も似ていて
1 物事の違いを見分ける。弁別する。区別する。
2 物事の道理をよく知っている。心得ている。
3 つぐなう。弁償する。
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