【日本史】GHQに焚書された書籍 (542レス)
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34: 警備員[Lv.4][新芽] 2024/09/11(水)12:34 AAS
>>31
朝鮮通信使は日本では国書や土産物をもってくる来聘という言葉が使われていて朝貢みたいなものと幕府は認識していたが、そういう記憶は抹殺されてユネスコの「世界の記憶」になってるんだな

江戸の韓流 朝鮮通信使<1>鎖国下の日本が熱狂
2016/8/2 18:05
//www.nishinippon.co.jp/sp/item/n/263318/
「一行は約500人の大行列。当時の朝鮮の首都漢城(ハンソン)(現ソウル)から江戸まで、海路と陸路で往来しました。朝鮮にとって自国文化をデモンストレーションする好機です。原色の衣装を着て、竜を描いた大きな旗を掲げ、楽隊の派手な演奏に合わせて各地を練り歩きました。
 海外の風物を目にすることがなかった江戸時代の庶民にとって、それがどれほどの「衝撃」だったか。大坂(現在の大阪)で見物した様子を記した「宝暦物語」(著者不明)によると、通信使の船が通る川岸には「近郷在住の老若男女その数幾千万」。ぎっしり埋まった見物客は「千体仏のごとく」とあります。
中国の先進文化をいち早く吸収していた朝鮮は、漢詩や絵画、武士も重んじた朱子学や医学などの分野で日本に先行していました。庶民の見物とは別に、文化人や裕福な商人たちも通信使に殺到し、書をほしがったり、教えを求めたりしたそうです。」

でも琉球が明からもらえたサツマイモはもらえなかった朝鮮通信使。
来日したときにサツマイモが美味しくて対馬で種芋を分けてもらってる。
35: 警備員[Lv.4][新芽] 2024/09/11(水)12:40 AAS
遠路はるばる日本くんだりまで来て芸を見せたり文化を伝えてた朝鮮通信使は人が良いというか暇人というか。
36: 警備員[Lv.6][新芽] 2024/09/11(水)14:59 AAS
p48
(四)メキシコと交通を開こうとする

家康はまた、当時イスパニア(スペイン)の領地であったメキシコと交通を開こうとした。メキシコはこの頃新(ニュウ)イスパニヤといい、我が国ではノビスパンとかノビスパンャといい、野史は新伊斯把爾亜と書いている。
たまたま慶長十四年六月ルソンを出発したイスパニア船が、途中離船して上総国に乗組員の一部がいた。その中に前ルソン総督ロドリゴという者もいた。彼は家康・秀忠に謁見したのを機に、家康は日本船によって彼らを帰国させ、これによってメキシコとの貿易を開こうとし、安針の造った百二十トンの帆船に、京都の商人田中勝助を乗り組ませ、商品を積み、ロドリゴ一行を乗せて、慶長十五年六月浦賀を出航し、九月メキシコのアカプルコについた。これが日本船の太平洋横断の初めである。
メキシコ総督は、日本との通商には容易に応じなかったが、しかし本国から日本近海の金銀島の探検を命じられていたメキシコは、答礼使としてピスカイノを遣わすことになった。
勝助などはこれと共に十六年四月に浦賀に入港し、葡萄酒・色羅紗・鳥毛の天鵞絨(ビロード)・桑板などをもたらして帰った。
ピスカイノは家康に謁見して時計などを贈ったが、のち彼が近海を測量し、金銀島を探検したので幕府の好意を失い、十八年伊達政宗のローマ遺使の船に便乗して帰国した。
伊達政宗は家康からメキシコとの条約締結促進の内命を受けたので、宣教師ソテロと支倉六右衛門常長を使者とし、百八十人の乗り組みで、慶長十八年九月十五日仙台領牡鹿郡月の浦を出発し、二十一日ルソンに至り、十二月十六日アカプルコについた。
一行はそれよりメキシコ府に至り、さらに翌年五月出発して大西洋を渡り、六月十四日スペインのサン・ルカル港に入り、十月三十日国都マドリードに着し、国王に謁見して通商の交渉をなし、元和元年八月マドリード港を出て、イタリアのゼノアに至り、九月七日ローマに入城、十二日法王に謁見して助力を願ったが、目的を達せずに、元和六年八月二十六日に無事奥州月の浦に帰還した。
七年を要したこの使節もついにメキシコ貿易の成功をみなかったというのは、ルソンの役人自ら日本貿易の利を失うのを恐れて、妨害したからだという。
37: 2024/09/11(水)14:59 AAS
※呂宋(ルソン)
「フィリピン諸島中最大の島。1571年以来,スペイン人がマニラを根拠地に植民地化し,新大陸の銀を資本に中国人と交易した。また日本の朱印船が渡来,日本銀と中国生糸・蘇木・鹿皮・呂宋壺などが取引された。1592年(文禄元)豊臣秀吉の帰服要求を機に,マニラのディラオやサンミゲルに日本町が形成され,徳川家康もメキシコ交易などを目的にルソンとの交渉をもった。しかし1620年(元和6)の平山常陳事件で関係が悪化し,24年(寛永元)フィリピン総督の復交要請を拒否して国交は断絶した。」
「フィリピン群島中最大の島
16世紀後半,イスパニア人がマニラを占領し植民地経営を開始。1584年イスパニア船がルソンから平戸に入港し,以後貿易が進展した。豊臣秀吉は原田孫七郎を派遣して入貢を強要。江戸時代に入り,朱印船の渡航が盛んになるが,キリシタンの入国を防ぐため,1624年幕府は国交を断絶した。マニラ郊外のディラオに日本町があった。」
38: 2024/09/11(水)18:31 AAS
p50
(五)国民の海外渡航

外国人の渡来が次第に盛んになるに及んで、国民が進んで海外貿易に従事する者もおびただしく、慶長九年から元和二年まで十三年間に朱印状を承けた船が百九十八艘、それより寛永元年までの八年間に百七十九艘である。
渡航の方面は安南・占城(シャンバ)・呂宗(ルソン)・暹羅・東京(トンキン)・大泥(バタニア)・順化西洋(ボルネオのブルニ岬以西)・柬埔寨(カンボジア)・迦知安(交趾の一部か)・密西耶(ミサイア・フィリピン群島の中)・莱(ボルネオ)・田弾(ジャワの番丹か)・麻利迦(マラッカ)・交趾・毘那宇(ブナン)・高砂(台湾)などで最も多かったのは暹羅、次いで呂宗・交趾・柬埔寨・安南・東京・西洋ということになっている。
渡航に従事した者で有名な者は、長崎の末次平蔵、大阪の末吉孫左衛門、京都の角倉了以、堺の納屋平蔵で、大名では九州地方の島津(鹿児島)鍋島(佐賀)松浦(平戸)有馬(島原)加藤(熊本)であり、その他近畿地方の寺院なども多く朱印状を手に入れて貿易を試みた。

※安南=ベトナム北部から中部、占城(シャンバ)=ベトナム中部、呂宗(ルソン)=フィリピン、暹羅(シャム)=タイ、東京(トンキン)=ベトナム北部フランス領インドネシア時代の呼称、大泥(バタニア)=ジャカルタのオランダ植民地時代の呼称、迦知安(交趾の一部か)=?、??莱(ボルネオ)=ブルネイ、田弾(ジャワの番丹か)=インドシナ半島沿岸にあったといわれる国、交趾=ベトナム北部トンキン・ハノイ地方、毘那宇(ブナン)=インドネシア
39: 2024/09/12(木)11:55 AAS
p50
(六)海外の日本人

近年黒板博士が実地踏査の結果を発表された。今それをも参考して、当時日本人の海外発展のあとを忍んでみようと思う。
江戸時代の初期御朱印船の渡航先のうち、今の仏領インドシナと思われる地名が四つある。安南・東京・交趾・釈知安それである。
東京は今のハノイで、フランスが東洋植民地の首府としていたところ、交趾は安南の中部以南であるが、釈知安は果たしてどこであるか説は多いが、やはり交趾の一部であろう。この交趾の一部には、最も早く開けた貿易港が二つある。その一つはツーロンで他の一つはフェイホである。
名古屋にある茶屋道晴交趾貿易図(挿絵)は日本船のツーロン入港の状態を書いているが、実地で踏査してみるといちいち符合する。
ツーロン港口に注いでいる河の上方、東南一里半の砂原に、木山・火山・土山・金山・水山と呼ぶ五つの嶺(茶屋の図には達磨座禅岩と記される)があり、合わせて五行山とも石山とも言っている。恐らくこれは昔から航海者の目標となったのであろう。五丘のうち水山が最も大きくて東端にあり、その中央部に華厳洞という洞窟があって、その上に阿弥陀の像が安置してあり、その厨子から一間(約1.82m)ばかりの岩壁が堅四尺横二尺くらいに創られており、そこに碑文を書いて、阿弥陀をつくったことが記され、その末尾に寄進者の名が載っている。
その中に「日本管平三郎字福耶」とか「日本管宗五郎字道真」というような日本人の名が十ばかりも見ることができる。
日本管とは日本人町・日本租界というような意味である。この時は寛永十七年である。
ツーロンと相並んでフェイホは当時日本人が自治制をしいていた所で、アダムスの日記によれば、当時広く日本語でニホンジンマチと呼ばれていた。今も日本橋、日本橋通りというのが残っているし、日本人の墳墓が数多い。
省1
40: 2024/09/12(木)12:09 AAS
山田長政というのは駿河の人、初め台湾当時の高砂(高山国・タカサゴ)へ渡り、それからシャムに行った。当時シャム国王の弟が簒奪をくわだてて国が乱れるや、長政は日本町の壮丁を率いてこれを鎮定した。功により長政は六昆王(リゴール王)に封じられ、国王の婿となり、その後累進して太子の傳(かしづき)となり、国政に預かった。
長政は遠くシャムにいて故郷忘れじ難く、国王に勧めて、元和七年その使節を遣わし、土産を秀忠に奉らせ、長政もその臣、伊藤久太夫を使って書を老中土井利勝に呈し、土産物を贈った。
また寛永三年本邦の商人がシャムに至った時この人に託して、自分の戦艦の額を浅間神社(今は静岡市にあり)に捧げてその冥護を祈った。原本は消失したが模本は残っている。
寛永五年に至り国王が死ぬや、長政ならびに老臣カウハンに遺命して幼主を補佐させたが、寛永十年長政はカウハンに毒殺されて終わった。大正四年には従四位を贈られている。
また濱田弥兵衛は、長崎の貿易商末次平蔵の配下の船長で、しばしば台湾貿易に従来していた。慶長九年の頃オランダ人がここを占領してからは、ここを出入りする船に関税を徴収するなどし、次第にその統治権を確立しようとした。それなのに日本はオランダ人に先んじて、ここに在留するのを理由として、国税などは拒絶していたところ、寛永四年ノイツが総督となるや、弥兵衛の船に対して強固な態度をもって臨んだ。
弥兵衛は大いに怒り、帰ってこれを幕府に訴える。ノイツも幕府に来て台湾占領の顛末を述べ、日本船の台湾渡航を禁じようとすることを請願したが、幕府はこれを拒絶した。
こうして翌五年弥兵衛が再び台湾に至るや、弥兵衛を抑留し武器一切を没収した。ここにおいて弥兵衛は詭計を案じてノイツに面会し、ノイツの胸に剣を突きつけ、その人が没収したものを帰させ、損害の全部を賠償させて帰った。このとき幕府も憤慨して対蘭貿易を禁止しようとしたので、オランダはノイツを日本に引き渡して貿易を元のようにした。ノイツは日本で禁固したが後に釈放した。
こうして我が国人の勢いをかの地で振るい、威を海外に輝かせた者も少なくなかった。

※壮丁=成人男子

400年前の関西でもニッポンジンでなくニホンジンと言っていたのかな?
41: 2024/09/12(木)12:11 AAS
江戸時代の商人の墓がベトナムに?2つの国をつなぐ歴史とは
外部リンク[html]:www3.nhk.or.jp
42: 2024/09/12(木)15:42 AAS
p53学習参考

(1)挿絵解説

「朱印船」の図は京都清水寺の扁額によっている。原額図は縦八尺七寸七分・横一丈一尺八寸である。京都の角倉氏の東京丸が航海を無事に終えて帰った報賽として奉納したものである。
船の実物は長さ二十間(36.4m)、幅九間(16.38m)、その中では能楽が行われている。外人も交ざっている。上に書いてある文字は、「奉掛御奉前 諸願成就 東京 角倉本客中 寛永十一年九月吉日」とある。邦人の進取的精神を味あわせたいものである。
「海外に日本町を建てる」の絵は名古屋市中島健二郎氏蔵「茶屋道晴交趾貿易図」にある日本町の光景で、道晴は茶屋四郎次郎清次(号道晴)と称し、慶長十七年正月朱印状を得、貿易のために交趾に渡航した人で、図はつまり当時の実情を示したものである。
日本船が今ツーロン港に入ったところ、原図にはこの右に御朱印船があって、ここにあらわれている三艘の小船を曳(ひ)いている。河のこちらが支那人町で、あちらが日本人町、日本人町には入母屋の家屋もあり、夕顔棚も見える。また日傘の下には店が出ているようである。原図ではこの左に茶屋が国王に献上物をしている。
今日は図の日本町は官衙やホテルのあるフランスの紳士街となり、支那人町は川向こうに漁村として僅かに残っている。これによっても日本人がかつて、この地の最もよい地点を占めて、活動していたことがわかる。

(2)指導要領

舞台が広いだけによく地図を見るとか、書くとかして、場所に関する的確な観念を与えながら、そこに展開した史実を感得させねばならない。教科書ではさかのぼって十二・三頁の地図を利用させることとなっている。
この教材は当時における発展的な気分を体験せねばならない。国際日本建設への資料である。
省3
43: 2024/09/12(木)20:55 AAS
p55 第三十七 島原の乱と鎖国

学習目的

キリスト教禁断のことから島原の乱を見るに至り、ついに鎖国の令を発するに至った事情を知らせ、宗教と国家、国家と国際、鎖国と文化などの関係について認識するようにさせる。

学習事項

(1)キリスト教を厳禁する
省12
44: 2024/09/12(木)21:44 AAS
日本を占領しようとしてたなんて…驚き桃の木山椒の木
45: 2024/09/12(木)23:48 AAS
p57(二)島原の乱

慶長十六年以来キリスト教の禁圧が年々厳しくなったが、九州はその教が最も早く伝わった地で、その宗徒は甚だ多く、中でも肥前の島原半島がその巣窟であったから、家康は島原城主有馬直純を日向に転封し、その跡へ元和元年松倉重政を封じた。
重政は大和二見城主であったが、武略があり、キリスト教を禁圧し、かつその根元を絶とうとするため、自力でルソンを略取しようとくわだてた程である。
その子勝家はまたキリスト教に迫害を加えることは酷烈、普通人にも暴政を施したので、島原あたりは暗雲低迷という形であった。
それなのに小西行長の遺臣でキリスト教を信じる者数人が、肥後の天草、肥前の島原の間を往来してキリスト教復興の気運が向かったと言って、奇怪な風説を説いて、愚民を扇動していた。
そのうちに寛永十四年十月二十五日、島原の有馬村の宗徒が、近郷の民衆を誘って蜂起し、これを鎮めようとする松倉の兵に手強く抵抗した。
天草の宗徒はこれを聞いて、これも嘯起し、やがて島原・天草の一揆は合一して、男女合わせて三万七千人、小西行長従臣の子天草の益田四郎時貞という十六才の少年を擁して首領とし、原の古城を修理して立て籠った。
幕府は板倉重昌を総大将として馳せ下らせた。重昌は鍋島・細川など九州の諸大名に兵を出させて、十二月八日島原に着き、これを攻めたが容易に陥らなかった。
ここにおいて幕命により松平信綱が十二月二十八日島原に着き、糧道を絶って敵が苦しみ困るのを待つこととした。
重昌は信綱らの下着以前に決着しようと焦ったが果たさず、十五年正月一日、挺身敵に迫って戦死をとげた。
省3
46
(1): 2024/09/13(金)13:08 AAS
p58(三)仏教全国に行き渡る

この時から幕府はいよいよキリスト教を嫌悪し、全くこれを絶やそうとし、日本誓詞といって、自らキリシタンでないことを日本の神々に誓わせたり、南蛮誓詞といって、キリシタンでないことをキリスト教の神に誓わせたり、また少しでもキリシタンの疑いがある者は踏み絵をさせたりした。踏み絵については挿絵解説で述べる。
このようにして宗門改をさせ、ことごとく仏教に転ばせようとしたのである。
仏教を信じる者にはそれぞれその人が属する寺院をも定めさせたから、仏教はあまねく全国に行き渡った。幕府は寺院の等級・位階の高下、法衣法服に至るまで上下の秩序を明らかにし、皇室あるいは公家と密接な関係がある門跡・院家・院室など東叡山、浄土の増上寺などは最も威勢が高かった。ここにも中央集権を適用して、仏教を整理したのである。こうして僧侶はかえって安逸になれて活気を失うようになった。

※キリスト教を禁じた後、檀家制度になる。
47
(1): 2024/09/13(金)13:09 AAS
p59(四)鎖国

島原の乱後、幕府は寛永十五年五月に、五百石積以上の大船の製造を禁じている。またこの年から制礼というものが始まった。

※原文漢文
一バテレン門徒は累年御禁制をなすといえども断絶は無い。
今度九州において悪逆をくわだて終わる。
これによってあまねく諸国はこれを相改める。
あの宗門はこれである。つまり訴え出る一門は、たとえ同宗であっても、その罪科を許される。
公儀から御褒美を下される事になっている旨、これを御命令なさる。
この内容を在国大名へ
老中奉書に従う
省11
48: 2024/09/13(金)16:17 AAS
AA省
49: 2024/09/13(金)16:42 AAS
1年前くらいに最後のオランダ商館長ヤン・ドンケル・クルティウスのオランダのWikipediaに、オランダの植民地大臣が日本の貿易を管轄していたと書いてあったのに今は消されてるので、初代オランダ商館長が東インド会社の取締役であり、日本も東インド会社の所有物といわれ対等な国交ではなく、他の植民地と同じ扱われ方をしていることを留めておく。

初代オランダ商館長Hendrik Brouwer
外部リンク:nl.m.wikipedia.org

Hendri(c)k Brouwer (circa 18 juli 1581, Republiek der Verenigde Nederlanden 7 augustus 1643, Chilo??, Chili), was een Nederlands ontdekkingsreiziger, opperhoofd in Hirado, bewindhebber van de Vereenigde Oostindische Compagnie (VOC) en gouverneur-generaal van alle VOC-bezittingen van de Kaap de Goede Hoop tot in Japan.
ヘンドリ(c)k ブラウワー(Hendri(c)k Brouwer、1581年7月18日頃、オランダ連合共和国 - 1643年8月7日、チリ、チロエ)は、オランダの探検家、平戸の首長、オランダ東インド会社(VOC)の取締役、知事であった。 -喜望峰から日本までのすべてのVOC所有物の総括。
画像リンク[jpeg]:i.imgur.com
50: 2024/09/13(金)16:58 AAS
外部リンク:nl.m.wikipedia.org
Hendrik Brouwer
Brouwer in Japan
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Via Ambon, Banda, Makassar en weer de noordkust van Java voer Brouwer, nog steeds op de Rode Leeuw met Pijlen, en nu in de rang van opperkoopman, naar Japan. Hij had een brief van prins Maurits bij zich en een lading specerijen en Kamerijks linnen om te ruilen tegen zilver. Onderweg in Soerabaya deed hij de vorst een kanon kado waar deze al vaak om gevraagd had en dat de Portugezen hem niet wilden geven. In augustus 1612 kwam hij aan in Hirado. De Compagnie had er de beschikking over een stuk grond waarop 22 woningen en een groot pakhuis stonden. Op 13 februari nam hij er de leiding over van Specx. Hij maakte de gebruikelijke hofreis naar Edo om de shogun Tokugawa Ieyasu te bezoeken. Hij gaf hem de brief van prins Maurits en een van Pieter Both, beide in het Spaans vertaald, en er werden geschenken uitgewisseld.[1]

Voor de zijdehandel tussen China en Japan zou volgens Brouwer een factorij op Formosa moeten worden opgericht. Het Fort Zeelandia (Formosa) is pas in 1624 gerealiseerd. Brouwer werkte ook mee aan de handelsbetrekkingen met Ayutthaya in het kader van de inter-Aziatische handel. Het sappanhout en de hertenvellen uit Siam waren in Japan uitermate geliefd. Ondertussen hadden William Adams en Jan Joosten van Lodensteyn vanuit Uraga een handel op Siam en Tonquin opgezet. Brouwer wees een verhuizing naar de basis van Adams, in de baai van Edo, af.
51: 2024/09/13(金)17:01 AAS
In augustus 1614 werd Brouwer weer vervangen door Specx, die door Both voor nog vier jaar was aangenomen omdat hij volgens hem 'aldaer bovenmaten is bemint', en Brouwer maar matig. Bovendien had Brouwer Both laten weten 'dat hij preciselijck op sijnen tijdt verlost wil wesen'.[3] Brouwer en Specx verschilden erg van inzicht wat betreft de handel in Japan en konden het niet goed met elkaar vinden.[4] Toen Brouwer vertrok nam hij achtenzestig ingehuurde Japanners mee, waarvoor hij toestemming had gekregen van de shogun. Veertien ambachtslieden, zeelieden om een snelle Japanse bark te bemannen en een aantal samoerai. Both had om 300 gevraagd, maar daar was geen ruimte voor op de twee schepen, de Rode Leeuw met Pijlen en de Hazewind.
Wel had men de gedemonteerde bark aan boord. Het rekruteren van samoerai was een idee van opperkoopman Jan Pieterszoon Coen, die hen, zoals hij in 1614 in zijn Discoers schreef, onder meer wilde inzetten bij het verdedigen van forten en bij aanvallen op de Spaanse en Portugese machtscentra Manilla en Macau. Veel samoerai waren in Japan werkloos geworden na het einde van de Japanse burgeroorlogen in de Sengokuperiode en waren op zoek naar nieuwe werkgevers. De praktijk viel echter tegen. Uiteindelijk zouden er niet meer dan enkele honderden samoerai gerecruteerd worden.[5] Ze werden beschouwd als erg dapper maar moeilijk te disciplineren.[6] Bovendien werd het in 1621 verboden door de shogun, volgens Specx omdat hij bang was dat Japan betrokken zou worden bij buitenlandse conflicten.
日本の醸造家
処理する
ブラウワー氏はまだアローズ号のレッド・ライオン号に乗船しており、現在は主任商人の地位にあり、アンボン、バンダ、マカッサルを経由し、再びジャワ島の北海岸を経由して日本に向かった
52: 2024/09/13(金)17:02 AAS
彼はマウリッツ王子からの手紙と、銀と交換するための大量のスパイスとカンブレのリネンを持っていました。スラバヤへ向かう途中、彼は君主に大砲を贈り物として贈ったが、君主はそれを頻繁に求めていたが、ポルトガル人はそれを与えたがらなかった。慶長17年(1612年)8月、平戸に到着。同社は、22 戸の家と大きな倉庫がある土地を利用できました。同氏は2月13日にスペックスから経営を引き継いだ。
彼は将軍・徳川家康を訪ねるためにいつものように江戸へ宮中旅行をした。彼はマウリッツ王子からの手紙とピーター・ボトからの手紙をスペイン語に翻訳して渡し、贈り物が交換された[1]。ブラウワー氏によると、中国と日本の間の絹貿易のためにフォルモサ島に工場を設立すべきだという。ゼーランディア要塞 (フォルモサ) は 1624 年まで完成しませんでした。ブラウワー氏はまた、アジア間貿易の文脈におけるアユタヤとの貿易関係にも貢献した。シャム産のサッパン材や鹿革は日本でも非常に人気がありました。
その間、ウィリアム・アダムスとヤン・ヨーステン・ファン・ローデンシュタインは浦賀のサイアムとトンキンとのトレードを設定していた。ブラウワー氏は江戸湾のアダムズ基地への移転を拒否した。1614年8月、ブラウワーの代わりにスペックスが再び4年間雇用されたが、彼によると彼は「計り知れないほど彼を愛していた」ため、ブラウワーは中程度に過ぎなかった。さらに、ブラウワー・ボースは「自分の好きな時間に出産したいと特に望んでいる」ことを明らかにしていた[3]。ブラウワーとスペックスは日本の貿易に関して全く異なる意見を持っており、仲良くはなかった[4]。
ブラウワーは出発の際、得将軍の許可を得た雇われ日本人68名を連れて行った。 14 人の職人、速い和船を操る船員、そして多数の武士。どちらも 300 ドルを要求していましたが、Arrows を備えた Red Lion と Hazewind の 2 隻の船にはその余地がありませんでした。しかし、解体されたバークが乗っていた。武士の採用は商人頭ヤン・ピータースゾーン・コーエンの発案であった。彼は1614年に『ディスコエール』に書いているように、とりわけ砦の防衛や、スペインとポルトガルのマニラとポルトガルの権力の中心地への攻撃に彼らを利用したいと考えていた。マカオ。
53: 2024/09/13(金)17:02 AAS
戦国時代の内乱が終わった後、多くの武士が日本で失業し、新たな雇用主を探していました。しかし、練習は期待外れでした。最終的に採用される武士はせいぜい数百人にとどまる [5] 。彼らは非常に勇敢だが、しつけが難しいと考えられていた[6]。さらにスペックスによれば、日本が外国の紛争に巻き込まれることを恐れた将軍によって1621年に禁止されたという。
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