【日本史】GHQに焚書された書籍 (536レス)
上下前次1-新
102: 09/20(金)11:23 AAS
>>101訂正
国は豊かで民は太平を楽しんだ。
103: 09/20(金)14:24 AAS
p89(八)江戸幕府の中興
吉宗は心を民政に注ぎ、勤倹尚武をすすめて悪習や弊害を正し、裁判を公正にさせ、産業を起した他に、なお見るべき善政は数多い。
あの諸大名の参勤交代を改めて、半年在府一年半在国とし、その代わり一万石につき百石の割合で毎年上米(アゲマイ)を行わせ、それによって幕府の財政を整え、十年間これを続けたのも吉宗である。
また足高(タシダカ)の制といって、職の高下によって役高(ヤクダカ)を定め、その職に任じられた者は、世襲の奉禄が役高より少ない時はその差額だけ、在職の間、増給する制度によって、人材の登用につとめたのも吉宗である。
こうして吉宗は在職三十一年、延享二年職を子家治に譲り、大御所と称してなお政務に関係していたが、宝暦元年六十八で薨じた。
総じてこれを顧みれば、徳川太平の流れは元禄に高潮し、元禄系統の世相が文化文政の時代に連絡しようとしていたのである。その大勢を挽回すべく吉宗が現れ、松平定信が立った。彼らは時代に欠けるところを補おうとして独特な政治を施行したところに大いなる意義を有する。吉宗の時代は実に江戸幕府中興の時代で世にこれをたたえて享保の治といっている。
学習参考
(1)挿絵解説
「寺子屋」は東京博物館旧蔵のものによったので、今はこの原画は焼けてない。挿絵は今習字の稽古で、お師匠様は字つきで手本文字の読み方を教えている。手習いの弟子の中には字を書いている者、手本を読んでいる者、よそ見をしている者、いろいろある。机間巡視をするのはお師匠様の助手である。
寺子屋は中世戦国の頃、寺の僧侶が子弟を教育したのに起源を有し、江戸時代には僧侶でなくとも郷里の物識りが自宅などで庶民の教育をした。これを寺子屋といい、学科は読・書・算を主とし、個人教育がその特徴である。明治初年までこの教育が続いた。
省3
104: 09/20(金)14:24 AAS
そしてこの教材では、完全に文化社会の姿を展望させるのである。元禄時代の文化においては何がすぐれて何が足りないのか。中興時代には何をもって補おうとしたのか。これらに注意して指導をしたならば、完全な文化生活の姿が浮かび出るはずである。
なお当代の業績で、今日に投影するものもかなりあるから、この点現代化する事を怠ってはならない。
※役高=家禄の他に支給される役職手当
105: 09/20(金)15:13 AAS
ここには書いてないけれど、綱吉の弊政は確かにそうだが、元禄文化が終了した原因は綱吉というより、元禄年間(1688〜1704)の後の1707年に起こった南海トラフといわれる宝永地震や、その49日後に起こった富士山の宝永噴火が原因で、その復興で幕府の財政も苦しくなったり、復興資金の使い込みもあったり大変だったのだと思う。
そして1716年に将軍吉宗が紀伊から江戸に来て、デフレだったのをリフレ政策で好景気にした。
106: 09/20(金)20:28 AAS
p91第四十 江戸幕府の衰運
吉宗が職を辞め、田沼の弊政、松平定信寛政の治、文化文政の文芸の隆盛と人心の退廃、そして水越天保の改革という風に、幕府は一張一弛、次第に衰亡の兆しが現れるに至る事実と次第を知らせ、学習者の政治的統制の生活その他の文化生活上に資するところとあるようにさせる。
学習事項
(一)中興の政治ゆるむ
延享二年吉宗は職をやめ、子家重は三十五歳で将軍に任ぜられる。この時から吉宗は大御所として後見すること六年、宝暦元年に薨じた。家重の代は、吉宗中興の後を受けて、天下はよく治まった方だが、しかし家重は大の吃音で上意を伝えることができず、「言葉代」という大岡忠通とか、御側衆田沼意次などが重く用いられ、自然と権勢をほしいままにするようになっていた。
家重在職十六年、五十の賀を機会に長子家治に譲って翌年薨じた。
家治は成長して癇癪が強く、人を受け容れる度量を欠き、便侫の田沼意次を寵用して、明和四年側用人に進め、安永元年老中に登らせ、天明三年には意次の子意如を若年寄にした。ここにおいて田沼氏ひとりが威権をほしいままにしたので、諸役人は彼の鼻息を伺い、賄賂・饗応は未曾有の盛行を見、「近年最も少ないものは御上洛・社参・鹿狩・敵討ち・金を使わずになった役人」とまで言われ、幕政大いに乱れ、士風は崩れ、風俗は乱れて、吉宗中興の政も再び乱れ出した。
くわえると宝暦十一年三月、大風雨大洪水、同十二年若州台風、明和二年近畿大風雨、同三年江戸大洪水、四年七月尾州山津浪、六年八月江戸大風雨、山城大洪水、七年大干ばつ、八年大風雨、近畿大洪水、明和九年(迷惑年)二月江戸大火その他に大風雨、安永二・三・四年近畿大洪水、六年奥羽地方大洪水、大島の三原山噴火、八年機内・関東・北国大洪水、桜島噴火、天明三年のち数年の飢饉、特に関東・奥羽で甚だしく、天災地変しきりに至ったので、人心は恐々として世は甚だしく穏やかでなくなり、明和元年暮れには武州秩父郡の農民が神奈川へ集まって富豪を襲うことがあり、天明七年五月には大阪において町人が数十人暴動を起こし打こわしをやった。江戸でもこの月から同様のことをやって三日三夜にわたった。
石の巻・和歌山・郡山をはじめとして騒がないところがなかったという。当時の暴動は、米屋・酒屋・質屋などを打ちこわしたようである。
107(1): 09/20(金)20:32 AAS
このような間に天明四年意如は佐野政言(トキ)に城中で刺され、意次はなおも威権をほしいままにしていたが、天明六年八月退けられ、将軍家治は騎射の催しに臨むとか、絵をもてあそぶとかして日をくらし、在職二十七年、天明六年九月ついに薨じる。
※便侫=口先は巧みだが心に誠実さのないこと。
田沼意如
外部リンク:ja.m.wikipedia.org
「父子ともに現役の幕閣であったため、意次と別居するために田沼家中屋敷または下屋敷へ移ったが、新たな屋敷を構えたのは暗殺の直前であった。江戸市民の間では、佐野を賞賛して田沼政治に対する批判が高まり、幕閣においても松平定信ら反田沼派が台頭することとなった。江戸に意知を嘲笑う落首が溢れている中、オランダ商館長イサーク・ティチングは「鉢植えて 梅か桜か咲く花を 誰れたきつけて 佐野に斬らせた」という落首を世界に伝え、「田沼意知の暗殺は幕府内の勢力争いから始まったものであり、井の中の蛙ぞろいの幕府首脳の中、田沼意知ただ一人が日本の将来を考えていた。彼の死により、近い将来起こるはずであった開国の道は、今や完全に閉ざされたのである」と書き残した。」
フリーメーソンのオランダ商館長イサーク・ティチング>>67
108: 09/20(金)21:06 AAS
イサーク・ティチング
外部リンク:ja.m.wikipedia.org
「一方、ティチングは当時の日本の機密を、11代将軍徳川家斉の岳父であった島津重豪を通して収集していたことが、フランスの博物学者で旅行家のシャルパンティエ・ド・コシニー(Joseph-Franois Charpentier de Cossigny)らによる「ベンガル航海記」に記載され、その本はオランダ東インド会社が解散した1799年にパリで出版された。
そこには、将軍の義父がティチングと始終文通を行い、ティチングの目的に必要なあらゆる知識と情報を好意的に与え、日本に関する彼のコレクションを増加させているとある」
109: 09/20(金)21:27 AAS
p93(二)松平定信勤倹貯蓄をすすめる
家治の薨後、家斉が職をつぐ。はじめ吉宗は家重の二人の弟宋武・宋尹を田安・一橋の門内に十万石を給して住まわせ、家格を三家に準じさせた。家重はまたその子重好を清水門内に住まわせた。八省の卿に任命されたから、世にこれを三家に対して三卿といった。家斉はこの一橋宋尹の子治斉(ハルマサ)の子である。
110(1): 09/20(金)21:38 AAS
AA省
111: 09/20(金)21:43 AAS
>>110
家斉が11代
112: 09/21(土)06:16 AAS
家治の息子が突然死んだのは一橋治斉か田沼意次の仕業じゃないかと言われているし、実際家斉は生涯墓参りを欠かさなかったり、本当は弟の一橋家ではなく兄の田安家の定信の方が順番的に将軍になる家なのに、事前に田沼意次が取り持って松平家の養子になったり、治斉は将軍の父となって豪奢を極めただけでなく、島津やバックのオランダと組んで開国工作に加担したんじゃないかという疑惑の過程を日本史近代板のフリーメーソンスレに書いた。
フリーメーソンのティチングから画策して、結局開国したのもフリーメーソンのペリーだったし、太平洋戦争でもルーズベルト、トルーマン、ハル、マッカーサーはフリーメーソンだし、フリーメーソンによって解体されてるのは欧州だけでなく日本もそう。
113: 09/21(土)08:12 AAS
p94
家斉は時に年十四であったから、田安宋武の第三子で奥州白川松平氏を継いでいる定信をあげて老中上座とし、大いに前代の弊政を改めようとした。
その頃は三都や国々で「打ちこわし」が盛んに行われた時である。定信が老中に就任するに当たっては、大いなる決心が必要であった。定信の決心は天明八年正月二日、江戸本所吉祥院の歓喜天に奉納した願文によっても知ることができる。
その願文には「越中守、一命はもちろんのこと、妻子の一命も奉納いたします。そして必死に奉心願います事柄は、右の一つ一つの箇条が相調わず下々は困窮しており、御威信御人徳が細部まで行き届かず、人々が崩壊いたしましてございますならば、ただ今のうちに私が死去いたしますように申し上げ願います」と言っている。
従って定信老中七年間というものは身をもって範を垂れる主義で政治を行った。
幕府の費用は一般には十分の五を節約し、大奥の費用は三分の二を減じ、大名にも三年間特別な倹約を令して、老中の招請・手紙・贈答などを禁じ、人民にも勤倹をすすめることが次第に厳しく、私の贈り物を禁じ、衣服調度の新製を停め、嫁娶、造営修繕はもっぱら倹約を旨とし、果ては櫛・かんざし・煙草入・羽子板の類いにまで干渉して華美に流れるのをとめた。
前代のインフレ政策に対する定信の緊縮政策だと言われる。このために定信は在職中に三十三万八千両という大金を余らせたという。従って定信は諸大名に対して、支那の常平倉の制にならって、備荒貯蓄をすすめ、寛政二年に令して今後五ヶ年収穫一万石ごとに、籾五十石づつを蓄えさせた。五ヶ年計画はここでも実施されている。
翌三年には江戸市中に令し、七分金といって町内費を節約して七分を積み立てさせ、貧民救済に充てさせた。この金が積もり積もって明治七年には一百七十万両となっていたので、東京都の共有金となって働いているという。
114(1): 09/21(土)08:12 AAS
※東京都の共有金となって学校や道路を整備した
※金1両=金4分なので、江戸中期1両4万円で計算すると金7分は7万円。しかし幕末にはインフレを起こして1両1万円以下の価値になったので、金1両=4千円で計算すると68億円
※定信があまらせたお金、1両4万円で計算すると135億2千万円
「なお、日本銀行金融研究所貨幣博物館のサイトによると、江戸時代の各時期における1両の価値は米量価で換算した場合、江戸初期で約10万円前後、中〜後期で4〜6万円、幕末で約4千円〜1万円ほどに相当する」
外部リンク:ja.m.wikipedia.org
115(1): 09/21(土)15:19 AAS
p95(三)文武の両道を励ます
定信はまた士気を振起しようとして、天明七年弓馬・剣術・槍術・柔術などに秀でた者を書き出させたことがある。また幕府の武器にも大修理を加え、市内四ヶ所に大的を設け、王子に砲術の練習所を開き、たびたび遠乗り・狩猟を催して武芸をすすめ、寛政三年からは、武士の免許を有する諸士の武芸を親閲することもはじめられた。こうして武芸の達人は江戸に集まって道場を開き、柔弱の風もやや改まった。
定信はまた風儀を正すという基は学問・教育の奨励にあるとし、天明七年旗本に文武を励むべきことを命令し、また老中列座で旗本の儒学の考試を行い、その成績によって抜擢することともした。柴野彦輔(栗山)岡田恕(寒泉)尾藤肇(二洲)は前後に召し出されて幕府の儒員となった。これを寛政の三輔といったり、寛政の三博士といったりする。
聖堂においては林大学頭信敬が時々出席して講釈をするほか、これらの儒員も定日に講釈を開いて、誰にでも随意に聴聞させた。ここにおいて聖堂は学校とかわったのである。
寛政二年当時朱子学は幕府の学問であってこれを正学、他の学を異学ということは徳川実紀にも見えている。これを寛政異学の禁というのであるが、これは朱子学の試業を経た者でなければ仕官しないことにしたので、他の学に対して絶対的な圧迫を加えたのではなかったから、古学や陽明学も行われ、塙保已一の和学講談所なども起こっている。
この頃諸大名においても学校を興し、学問教育を奨めた者は多く、その主なものを挙げると米沢の興譲館・鹿児島の造士館・佐賀の弘道館・仙台の養賢堂・萩の明倫館・熊本の時習館・金沢・名古屋の明倫堂などである。
定信はまたしきりに孝子・節婦を表彰して徳義をすすめたので、あんなにも乱れていた風俗も大いに改善された。当時の人は西に聖天子(光格天皇)がいらっしゃり、東に賢明が出る」と言って喜びあった。世にこれを当時の年号によって寛政の治といっている。
116: 09/21(土)20:40 AAS
p97(四)文化文政時代の文芸
いつの時代、いかなる政策にも反対者はいるもの
永久に このようなきびしい御代ならば 長生きしても楽しみはなし
白河の 清い流れに住みかねて 元の濁りの田沼恋しき
世の中に 彼(蚊)ほどうるさい者はない 文武(ブンブン)といって夜も眠れず
省10
117: 09/21(土)21:11 AAS
十返舎一九は滑稽小説をよくし東海道膝栗毛、江の島土産などこの種の著述は数十種、天保二年七月二十九日没した。
曲亭馬琴は滝沢馬琴のこと、和漢の学にくわしく、小説家であろうとして山東京伝に師事し、文化二年椿説弓張月を、十一年に至り南総里見八犬伝を著し二十年間にして成功した。終わりの頃は失明したので妻に口授して完成した。嘉永元年十一月六日、年八十二で没した人である。
この時代にはなお山東京伝や柳亭種彦の小説、加藤千蔭・村田春海・香川景樹の歌など、ほとんど文化に酔った形であった。
この時代の文化を概論すれば、階級的であって、上の方は保守的、下の方は進歩的であったが、野卑なところもある。伝統の執着が抜けないで、個性が十分に発揮されていない。勧善懲悪主義にとらわれている傾きがある。
※南総里見八犬伝の終わりの頃に曲亭馬琴はついに失明したのだが、妻ではなく息子の嫁に口述筆記をさせて完成させた。勧善懲悪の八犬伝が空前の大ブームになって、馬琴がどこに行っても八犬伝があったことを前書きとかで書いている。凧の図柄や腹巻きなどの八犬伝グッズも充実。それでその後の小説は馬琴のまねしてなのか勧善懲悪ものばかりになっていて、坪内逍遙が勧善懲悪ものにうんざりしてボロクソに批判している。その後は勧善懲悪の反動のような明治の文豪の作品になっていく。八犬伝の1巻の前書きに、この物語を通して婦女子や子供に勧善懲悪を教えるために作ったと動機を語っている。
118: 09/22(日)00:26 AAS
p99
絵画の方では吉宗・家重・家治・家斉の初期にかけて明清画派が出現した。祇南海・池大雅・与謝野蕪村のようなそれである。これは清の伊孚九等によって伝えられ、支那南宋画の一派で、水墨を主として風雅な趣を重く見るものが、文人の間で流行したから文人画ともいう。
この明清画派に刺激を受けて大成したものは写生画派である。円山応挙は丹波の人、諸家の画風から出て、ついに一格を成し、写生画派として円山派の祖となる。その技が最も熟したのは家斉の初期天明頃で、遺品としては鯉魚の絵の他が多い。挿絵には虎が出ている。寛政七年七月十七日卒した。
喜多川歌麿は宝暦三年江戸で生まれ、文化二年五月二日没した人。浮世絵師である。浮世絵は肉筆のほかに版画が発達して、まま版画の別名かのように見られる位である。版画は錦絵と版元の挿絵との二種ある。
浮世絵は前にも述べたが、歌麿をもって最も傑出したものとする。おおよそ鎖国中太平の続くままに、文化の消化創造が行われたもの、今日は世界的鑑賞の材料となっている。
119: 09/22(日)08:13 AAS
p99(五)文化文政時代の裏面
化政時代には見るべく誇るべき文化も十分にあるが、上下はただ安逸奢侈に耽って、士風はおのずからくずれ、武士にして女師匠の元へ歌や三味線の稽古に行く者もあり、遊情安逸に流れた結果、町人から借財をしてようやく体面をつくろうというように、経済的な現実暴露を庶民の前に展開したのであるから、早晩当代の社会構成が崩れなくてはならない形勢になってきた。
武士でなくても一般でも遊情安逸をむさぼったから、ひいては射幸心を助長し、富くじ大流行の世であった。
将軍家斉にしても大奥の女中一千人、上下あげて感傷的・享楽的な世相を構成し、弾力性に乏しい、いわゆるらん熟味に富んだ退廃味がみなぎり盛んになった時代であった。
こうして天保初年から再び凶作が続いて、米価は次第に騰貴し、四年には陸奥・出羽に飢饉が起こり、五年に至ってますます甚だしく、江戸では餓死する者が多く、七年はまた大風雨が続いて、諸国一般に凶作であったが、遊情で無能な官吏は、救念の方法をもとらないので、ついに暴力に訴えて窮民を救おうとする者が出てきた。大塩平八郎の乱はそれである。
大塩は大阪町奉行の与力であったが、陽明学者で実行をたっとび、文政の末から隠居して洗心洞書院において門人に教授していた。天保八年二月上書して官米を使って窮民救助のことを建白したが、町奉行はこれを取り上げなかったので大いに怒り、窮民を救うと称し、その徒党と共に乱を行い、火を大阪中に放った。城代・町奉行はこれを防ぎ、三日で鎮め、平八郎は自殺した。実に一葉落ちて天下の秋を知る。江戸幕府の衰運も次第に表面に表れてきた。
※与力=行政・司法・警察などの任に当たった職業
120: 09/22(日)12:15 AAS
p100(六)天保の改革
家斉は大塩の乱後まもなく西丸に隠退し、世に大御所と称したが、治世五十一年間であった。次第に幕政改革の必要を感じる時に当たって、天保八年四月、庶子家慶が職を継いだ。この時より以前天保五年水野越前守忠邦は老中であり、以前から経世の志がある。今や将軍の代替を見るに及んで、かねての抱負を実現しようとし、たびたび倹約の令をしき、武芸を奨励したのを世に水越天保の改革というが、その法令はあまりに細かく取り締まりも厳しかった。
天保十三年四月八日の令をあげて見ると次のようである。
一、野菜ものなど季節がいたらない内に売買いたしてはならない旨を前々からお触れいたします
うながすけれどもこれが有るところ
近来初物を好みます事柄が増長いたし(中略)もし背く者においてこれがあるならば吟味の上厳重に罪科を申し付けなければならないのでございます
この調子で髪を結うには藁を用いること、贅沢な下駄を履いた者は獄に投じること、衣服のこと、櫛かんざしのこと、煙管のことまで規定した。
これによって忠邦は怨みをうけ、天保十四年閏九月十三日「御勝手取り扱いの儀につき、不行き届きの儀、これがある 老中職御免云々」という理由で職を免じられることとなった。この日府内の人民数百人は忠邦の邸内に集まり、瓦礫を投じ、夜に至ってますます甚だしかったという程、険悪な世の中になっていた。
こうして忠邦の改革も失敗に終わり、幕政中興の業は全く破れ、幕府衰亡の兆しはすでにこの時に現れるに至った。
121: 09/22(日)14:06 AAS
p101 学習参考
(1)挿絵解説
「昌平校」は昌平誌所載のものによる。林道春が寛永年間上野に設けた孔子の廟を、元禄三年綱吉が湯島に移して規模を大きくし、綱吉自ら大成殿の扁額を書いた。この大成殿はその後何度も焼けたので、寛政十一年造営復旧したが、この図はその頃の光景である。
大成殿は今日の東京帝大・東京高師・東京女高師の前身で、この地は東京女高師の地である。殿社にはそれぞれ名がついているから拡大鏡を使って読むと便利である。
「円山応挙の画」は讃岐金刀比羅宮蔵襖絵によったもの。原図は応挙四十六歳の時の作で、彼の特徴が最もよく現れた大作である。応挙は諸家の画風を合わせ、ついに一格をなし、円山派を開いた人。その周到な写実を味あわせるがよい。諸家を合わせて一格を完成するところ、絵画も次第に日本的独自的なものになったことも注意しなければならない。
(2)指導要領
幕府の一張一弛、ついに衰運に傾くに至った次第を知らせるのであるが「江戸幕府が衰亡に傾かなければならなかったのはどこにあるか」というようなことが中心の問題となる。
それで政治のこと、経済のこと、風俗のこと、文化のことなどが取り扱われ、同時に各立場の人となって見て、各その処すべき道はどこにあったかを考察させるのがよいと思う。
次には「どんな社会ができたら最もよいのであるか」が問題となる。これは教材の批判から自然に出きることなので、例えば田沼時代の政治は悪いと言えば、どんなのがよいかと問いたくなるし、定信の政治がよかったとすれば、これよりもよい方法がないかと問いたくなる。文化文政の時代、天保改革の時代全てそれである。こうして学習者は、常に理想の社会はどんなものであるかを求めていかねばならない。
ちなみに考古的よりも考現的にということはこの教材でもまた真理である。
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