【日本史】GHQに焚書された書籍 (539レス)
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143: 09/25(水)07:33 AAS
p119(二)ロシアはじめて通商を求む

さて子平の先見はあやまたず、寛政四年という時、ロシアの女帝カザリン二世がピョートル大帝の遺志をつぎ、我が日本に使節ラックスマンを遣わし、我が国の漂流民で伊勢の人、幸太夫・磯吉などを伴い、根室に来て、通商を願う。これが鎖国後において外国の使節が来朝した始めであった。
この時より以前、我が国の漂流民が始めてロシア人に接したのは、綱吉頃の元禄十二年であり、黒船の出没が幕府の注意に上り始めたのはロシアのスパンケンベルクの率いた探検船が陸奥・安房の沿岸においてその船影を示した吉宗頃の天文三年であった。そして家治時代の明和・安永頃には、千島列島の得撫(ウルップ)島以北は、もはやロシアの勢力範囲になっていた。
ラックスマンが来た時は松平定信はこの人を拒絶しようとし、翌年これを松前に回航させて漂流民を受け取り、信牌(手形)を与えて長崎へ回航させた。
ところがラックスマンは長崎へいかないでひとまず本国へ帰ったが、この形勢では早晩また来るべく、国内は多いに不安を感じるようになってきた。
ここにおいて定信は大いに海防の必要をさとり、定信自ら股引・草履がけで勘定奉行や目付などを率い約二十日間、幾多の困難を重ねて、伊豆・相模・安房・上総・下総の沿岸を巡視した。

(三)蝦夷地の警備開拓を計画する

幕府はまた近藤重蔵に命じてたびたび蝦夷地を探検させた。重蔵は名は守重、寛政十年幕府の命令によって、高田屋嘉兵衛を案内者とし、多量の米・塩などを船に積み込み、遠く択捉島に渡って、これを島民に分け与え、漁場を開きなどして土民をなつかせ、さらにロシア人の建てた標木を抜き、新たに「大日本恵登呂府」と大書した国標を建てた。
次いで重蔵は辺要分界図をつくり、北辺警備の策を建言したので、これに基づいて寛政十一年には蝦夷地を幕府の直轄地とし、南部・津軽二藩の兵を函館に置いてこれを守らせ、また堀田二助に命じて江戸と根室間の直通航路をも開かせた。重蔵はその後三回もこの地に探検したことがある。
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