【日本史】GHQに焚書された書籍 (536レス)
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265: 10/06(日)11:22 AAS
p180 学習参考

(1)挿絵解説

「琉球の使臣は上京の途につく」の絵は明治神宮外苑聖徳記念絵画館画題考証図五姓田芳柳筆からとったもの、琉球は江戸時代において、事実上は島津氏に属し、形式上は支那に属していたが、明治四年鹿児島県に属させた。明治五年九月琉球王尚泰は、王子尚健や使臣を遣わせて土産物を献上し、新政を賀するべく上京の途につかせた。図はこの時首里城の門を出るところである。使節一行は明治天皇に拝謁を賜り、詔して尚泰を藩主とし、華族に列せられ、邸宅を東京麹町九段に賜り、またかつて米・仏・蘭と結んだ条約は移して我が国の外務省の所管とされた。
明治八年には明治の元号を承らせ、それ以来清国への進貢を禁じ、封冊を受けることも厳禁した。十二年には藩を廃止して沖縄県を置き、尚泰に上京を命じ、県知事をおいて統治させた。清国は不平を抱いて紛議を起こしたが、ちょうどその時来朝中の米国前大統領グランド将軍の調停で事なきを得たが、しかし精神的には日清戦争後までは両属を続けていたようである。

(2)指導要領

古老の話も聞いた方がよい。地図による学習も大切である。現在と関係させて取り扱うことも必要である。「明治維新の発展生活はどのような態度で外に向かってはたらいたか」ということを中心として学習した方がよい。
この教材をよく吟味すると、国家的発展ということが、人道への貢献ということになっている。すなわち国家的発展と国際生活との発展が一致している。これが理想的な生活であることに注意する。
幕末外国に促されて開国した我が国の状態と、この教材に現れているかのように、外国を促す立場とは余程の非常な差がある。それだけ発展が早かったことにも注意したい。
この教材は外国と関係しているから、ロシア・支那・朝鮮などの事情をわからせ、これらが我が国にどんな態度をとったかということ、我が国はまたこれらにどんな態度をとったのかをわからせ、それぞれを批判的に学習しなければならない。
関係人物については簡潔にして要領を得るよう会得させ、それらを総合して流れている日本本位の発展ということを把促させる。
266: 10/06(日)13:10 AAS
p182 第四十七 外交の進歩と社会の変遷

学習目的

明治新政府の開国方針は欧米にまでも実施の歩を進め、岩倉大使などの派遣となり、同時に欧米文化の輸入となり、社会のあらゆる方面の状態は急に変遷し、新旧思想の衝突も多少あったが、最終的には国運の発展となり、外交も国家社会も文化も大いに進んだことを認知感得させる。

学習事項

(1)外交の方針を確立する
省4
267: 10/06(日)15:07 AAS
p183(二)岩倉大使ら欧米諸国に遣わさる

明治四年右大臣岩倉具視を特命全権大使とし、参議木戸孝允・大蔵卿大久保利通・工部大輔伊藤博文を副使とし、一行は各省から九名すなわち侍従長東久世通禧・司法卿江藤新平・文部大輔田中不二麿・司法大輔佐々木高行・大蔵少輔吉田清成・陸軍少将山田顕義・戸籍頭田中光顕・造船頭肥田浜五郎・東京府知事由利公正その他の随行者合わせてその数約五十人、欧米諸国を巡遊することとなった。
その目的はおおよそ三つあった。一つは安政元年の仮条約は百七十一ヵ月の後、双方協議の上改正する約束であったが、明治五年五月がその満期であったから、これの改正を図ることであり、一つは各国との親善をはかることであり、一つは文物制度の視察をしようというのである。
十月東京を発し、まず米国に至り、国務卿に条約改正のことを申し入れたが、意外にも国務卿にしても大統領グラント将軍にしても、むしろこの際改正を結了した方がよいという話であったが、新開国の悲しさには全権委任状も用意しておらず、改正条款も定めていない始末で、大久保・伊藤の両人は大急ぎで帰国して案をつくったが、廟議決定に至らず、ここにおいて今回はただ礼聘訪問にとどめることとし、大久保・伊藤は空しく米国に帰り、この時から一行は米国を出て、英・仏・ベルギー・蘭・プロセイン・露・デンマーク・スウェーデン・伊・オーストリア・スイスなどを巡視し、多くの赤毛布式を発揮して六月九日帰朝した。
条約改正の目的を達することはできなかったが、各国との親交を加え、かつ欧米諸国の文物が盛んな有り様を見て、我が国の文明が盛んに遅れていることを覚り、一日も早く国政を整えて文化の輸入につとめようとするに至ったことは、大に意義があったことというべきである。

※赤毛布(あかげっと)=旅行中の失策。幕末から明治の始めにかけて防寒用に毛布をまとい外出した風習が、田舎には永く残つていてその恰好で都会見物に来るので、時代おくれの意に転用されるようになつた。
268
(2): 10/06(日)17:07 AAS
>>248
大政奉還のことも荘村は予言してる荘村省三
外部リンク:ja.m.wikipedia.org
「1865年6月1日(慶應元年5月8日)の書簡でグラバーから薩摩が長州が協力関係を結ぼうとする極秘情報を得たことを伝えている。これは1866年(慶應2年1月)に薩長盟約として倒幕にむけ日本が大転換していく情報であった。グラバーは五代友厚とも親しく、薩摩藩と関係を深めていたが、両者と結びついた荘村だったからこそ、得ることができた情報であったと思われる。」

慶応二年1866正月探索書扣
(略)昨夜フルベッキより内話極密承取候段右二奉録上候
去る七日大軍艦薩州へ出船之期日アトミラール、ミニストルの両人より布累別幾(以下フルベッキ)へ書状を遣申越猿候趣者同人ハ日本へ年久敷罷在多分二日本士人江も相交り候事故当時之形勢二付承居候次第も可有之諸事承度との旨趣申越候由 フルベッキより返答致候趣者存寄之次第有之永々と事情相認直二英国女王殿下へ呈書相含候得共今暫時形勢観察之上と存差控居申候素時情見見聞之次第有之候間此方へ罷越し承候様返答二及候由同八日ミニストル、アトミラ−ル并領事館承候間フルベッキ演舌之大概左之通(略)
六月十一日
道家角左衛門様
??荘村助右衛門/肥後藩国事史料巻六
269
(1): 10/06(日)22:33 AAS
>>268
慶応二年1866正月探索書控え

(略)昨夜フルベッキより内話を極密に承け取りました。右の段に記し上げ差し上げます

去る七日、(英国の)大軍艦が薩州へ出航の期日は、アトミラール、ミニストルの二人からフルベッキへの書状を越猿がお知らせ申し上げるとのことで、前に述べた人(フルベッキ)は、来日後の年数は久しくあります。多分に日本士人へも互いに交際します。

事故当時の形勢に付き承って居ります。理由もこれは当然有るはず。諸事承りたいとの旨とのことで、話して寄越しますゆえ、フルベッキから返答致すとのことで、この人の意見は、理由が有ると。
ながながと事情を書き記し、ただちに英国女王殿下へ手紙で説明して納得させるとしても、今しばらく形勢を観察の上と存じ、差し控えて居り申します。もとより事情、これを見聞きされ、理由これが有ります間、こちらへ伺いご承諾されますよう返答に及びます。
よって同八日ミニストル、アトミラ−ルならびに領事館が承ります間、フルベッキが道理を説き明かすことの大概は左の通り(略)

六月十一日
道家角左衛門様
??荘村助右衛門/肥後藩国事史料巻六
省1
270: 10/07(月)22:48 AAS
ここに投稿すると、著作権が5chになるというのが気になっていて、次からは下のブログから転載したという形をとることにしました。
271: 10/07(月)22:53 AAS
外部リンク:kobuniroiro.
hatenablog.com/
272: 10/08(火)19:27 AAS
p184(三)もろもろの制度改革される

大使が欧米に派遣されるや、数多の留学生が伴われていき、数人の少女もこれに交じった。すなわち黒田清隆の主唱によって婦人の海外留学を見るに至り、この時に後の大山内大臣夫人捨松(当時十三歳で山川建次郎氏令妹)瓜生海軍大将夫人シゲ子(当時十二歳で益田孝氏令妹)吉益雄娘スゲ子(十六歳)津田仙弥娘梅子(九歳)上田峻娘悌(十八歳)の五人が留学を許されたのであった。
この後国民が海外諸国を視察し、かの地に留学する者も多く。知識を世界に求めて我が国の文化を補うという風は、維新の気運と相まって盛んになり、もろもろの制度が改革されたものは少なくなかった。

(1)学制
中でも国運の発展は、主として国民教育の力によるべきをもって、新たに学制を布(し)くこととした。維新後はしばらく従来のように各藩の教育を続けたのであるが、文部大輔大木喬任は明治四年七月文部大丞田中不二麿を理事官として欧米に派遣し、学事を視察して帰らせた。翌五年初めて学制を一定して義務教育の方針を明示するに至った。この時の学制に中央集権であるところは仏国制度に倣い、小中大学の連絡方面は米国制度によったものである。つまり全国を八題学区とし、一大学区を三十二中学区とし、一中学区を二百十小学区とした。尋常小学は下等小学が六歳から九歳、上等小学が十歳から十三歳とし、幼童の子弟男女の別なく小学に入れない者は、その父兄の落ち度であるべきことを宣示し、邑(むら)に不学の人を無くそうとすることを期したのである。
273: 10/08(火)19:28 AAS
p182
(2)徴兵令

三浦博士の兵制の六変と言われたのは、第一期が兵制という程のものがなかった時で、大判氏など親衛であり、必要があれば誰でも兵役に服したのである。第二期は大化改新以来いわゆる令の兵制で、令では二十歳から六十歳までの正丁三人ごとに一人を取る標準で、国民一般から徴兵された。第三期は令の徴兵が次第に修正されて、兵役は地方豪族に移っていった平安初期である。第四期は荘園からの兵士・国衙の兵士として知行国から一人、公卿から一人というように徴兵された時である。第五期は源平以来の御家人制度である。第六期は明治における徴兵令の実施である。
武家政治の終わりを機として大村益次郎は兵制を改革して様式になそうとし、かつ徴兵の意見を持っていたので、彼は守旧党から阻まれ、京都の木屋坊の旅宿で倒れた。山懸有朋はまた大村と志いを同じくし、明治四年五月二日兵部省を分けて陸軍・海軍の二省とし、有朋は陸軍大輔に、河村純義は海軍少輔になってその首脳となり、同年十一月徴兵の令を定め、翌年六月一日発令された。その精神は令の古制に復活するのにあった。この徴兵令は全国皆兵の原則により、旧士族の手中から兵権を奪って、四民の権利義務としたもので、男子二十歳に至れば皆兵籍に編入し、その中から徴兵して陸海両軍に充て、三年の常備軍、四年の後備軍前後七年の兵役に服させる制度であった。
274
(1): 10/09(水)14:50 AAS
p186(三)社会の面目一新す

維新のはじめは東京・大阪間毎月十八回の飛脚が往復したのであったが、明治三年十二月には東海道十二藩六県に郵便箱・切手売捌所を設け、四年になると新式郵便制度を始め出した。六年十一月から郵便はがきを発行し、八年一月から為替を取り扱い、その四月から郵便貯金をはじめ、十年三月には万国郵便同盟に加わったのである。
電信は二年八月横浜灯台寮から横浜裁判所まで七町ほど架けられたのがはじめで、次いで京浜間八里以上、漸次全国に及び、八年には長崎・上海間の海底電線を施設するに至った。
鉄道は五年九月に京浜間約十八里開通以来、七年十一月には大阪・神戸間、九年九月には京都まで延長したが、これらはほとんど外人によって完成されたのであったが、十一年八月起工した京都大津間の工事は、主として日本人によってなされたものである。逢坂山の難工事も成し遂げて開通式を挙げたのは十三年の七月であった。以来各要地に施設の計画をして、東海道全線の工事に着手することに決したのは十九年のことであった。二十二年には開通を見るに至った。
海運の方は明治二年三月東京・大阪に、回漕会社を設け、汽船で運送をはじめ、四年これが逓信局の管轄となったが、この年岩崎弥太郎が三菱会社を起こして競争したので、十五年政府保護の共同運輸会社が起こった。しかし三菱に押されたので、十八年には合同して日本郵船会社となった。
このように世態が変わると共に、御誓文にいわゆる旧来の悪い習慣を破ることは種々の形になってあらわれた。史家は明治のはじめから十年頃までを旧習一洗の時代とも言っている。
明治二年六月には公卿、諸候を華族と改称し、諸候の臣を士族とし、農工商に従事する者を平民といった。これによると、華族と士族と平民ができたわけであるが、もとのような隔たりはなかった。江戸時代には農工商賈を四民といったが、商とは歩いて物を売る方で、賈は家にとどまって物を売る方である。また、士農工商すなわち士庶を四民ということもある。そうしてこれらの階級は完全に固定的に上下はあったが、維新以来この階級制度が次第に崩壊の運を辿った。
275: ブログ転載 10/09(水)20:40 AAS
p188
三年二月には旧堂上の染歯掃眉を禁じ、九月には平民の名字を与えるのを許可し、四年四月には平民の乗馬を許し、五月には祠官の世襲叙爵を停止し、八月には散髪・脱刀を許し、華族平民の相婚嫁を許し、穢多非人の称を廃し、この時完全に四民は平等となり、十二月には華士族在官以外の者に農工商の職業を許し、明治五年礼服の制を定めて洋服を用い、今までの束帯などは祭服として存することとなり、五年四月には華士族の子弟に民籍編入を許し、僧侶にも氏を称させ、十一月には太陰暦を廃して太陽暦を頒布し、五年十二月三日をもって六年一月一日とし、五節句をやめて新たに祭日・祝日の制を立て、日曜日休日を定め、六年一月には華士族平民の養子取組を許し、二月には復讐を禁止し、外国人との婚姻を許し、七年八月には拷問法を禁じ、八年二月には平民に必ず名字を称させ、九月三日には一般の帯刀を禁止した。
その他衣食住に至るまで西洋の風を取り入れて、いったいに新しい気分にあふれるようになってきた。

(五)新旧思想の衝突

米人スコット氏は師範学校の教師となる。ダビッド・モーレーは文部省に教育制度を制定する。教科書は米国翻訳になる。
食物にしても牛肉を食うこととなる。豚肉は少し遅れて食われる。パンの食用は牛肉と相前後し西洋料理は行われる。
牛肉を食って滋養になると言う者がいるかと見れば、牛肉を食うのは深い罪障であり、けがらわしいことであると言う者もいる。
洋服は筒つぼ、だん袋といって幕末軍隊がはじめて着、明治五年礼服に採用され、洋服は便利だと言う者がいる代わりに、正月早々洋服で年賀に来られては縁起が悪いと言った者もいた。
家の方は特に明治五年東京大火の後は市区改正し、煉瓦造りを進めたというが、公共建築物は皆洋風になって来た。靴のまま室内に入るのは禽獣の類いだと言う者もあり、畳の上で寝起きするのは蛮風だと言う者もいた。
従って政見にしても互いに相異なり、争う者多く、いまだ旧習を慕って新制を喜ばない者もあり、国情は少々穏やかではなかった。
276
(1): ブログ転載 10/09(水)20:45 AAS
p189
たまたま朝鮮の問題により、明治六年十月二十四日隆盛は職を辞し、翌二十五日副島・後藤・板垣・江藤が辞職した。西郷がただちに国に帰ると、薩摩の桐野・篠原など職を辞して帰国する者は多く、朝野騒然たるものがあった。副島・後藤・板垣・江藤はしばらく東京にいて政治の改善をはかろうとし、民選議員の設立建議を太政官に上った。
やがて明治七年一月十四日には岩倉具視が刺客に傷つき、二月には江藤新平の乱が起こった。新平は征韓・民会の二議共に政府の受け容れるところとならず、憤って二千五百人の同士を得て佐賀において乱をなしたから、朝廷は大久保利通・野津鎮雄を遣わせてこれを討たせると、新平は破れて鹿児島に走って受け容れられず、土佐へ行って受け容れられず、ついに捕らわれて首を梟首された。
九年十月には熊本の太田里伴雄・加屋霽・上野謙吾ら新制を喜ばず、その徒百七十人以上を集めて熊本鎮台及び県庁を侵し、司令長官種田政明・県令安岡良亮などを殺して狼藉を極めたので、鎮台の兵を討って平らげた。これを神風連の乱という。その思想は尊皇攘夷ということであった。
この時旧秋月藩士宮崎車之助・今村百八郎など四百人以上、筑前の秋月に起こって神風連に応じたが、小倉分営の兵に破られて平定した。
十月二十八日には前兵部大輔前原一誠も政府の有志と意見が合わず、辞官して郷里山口にいたが、神風連の乱が起こるに及んで萩において乱を起こし、二百人以上を率いて県庁を襲おうとしたが、広島鎮台の兵に破られて、海路を山陰方面に逃れたが、程なく捕斬された。
その他茨城・三重・名古屋・岐阜・千葉などに田租に不平があって小乱が蜂起したが皆鎮定した。
これらを前提として最後に暴発した者は西南の大役であった。この時より以前隆盛は郷里鹿児島へ帰って、もとの部下であった桐野・篠原などと共に私学校を設け、文武の業を講じ、人材の陶治につとめ、遠く国家の将来をはかっていた。時に隆盛の威望を慕って集まって来る者はその数千人に及び、分校を十三ヶ所設けるに至った。
十年一月の末に至り、少壮血気の子弟らに主人といただかれ、やむなく官軍に抗することとなり、政府に問うところありと称し、兵を集めて二月十五日鹿児島を出発したが、兵一万五千人、長駆して二十二日から熊本城を囲んだ。
277: ブログ転載 10/09(水)20:48 AAS
p
朝廷は有栖川宮熾仁を討征総督としてこれを討たせなさり、三月四日から田原坂を攻めて、二十日に至りこれを占領し、各方面から熊本城救援に向かい、賊は包囲五十二日で三月十五日の夕方から退却し始めた。
隆盛は豊後を経て日向に退き、九月三日鹿児島の山城に拠る。官軍は四方からこれを囲み、九月二十四日総攻撃をなし、午前四時から午後八時に至ってやんだが、この間に隆盛・利秋など百六十人以上岩崎谷で自刃した。
隆盛が兵を起こしてここに八ヶ月、ここに至って完全に平定した。十月征討総督宮は東京に凱旋され、十一月論功行賞を行われた。この役は官軍の兵を出すこと六万以上、軍艦十一隻、賊軍前後四万以上、死傷総計二万以上、費用四千二百万円、この消費によって守旧派の不平分子は一丸として葬られた形となり、その向かう所は明らかとなり、政府の威権は確立されるに至り、この時から内治はいよいよ平和の内に進むこととなった。
隆盛は大度があって徳望一世に高く、参議にして陸軍大将である。その人が自刃した時は五十一歳、明治二十二年二月十一日には隆盛の維新の功業を嘉せられ、特に賊名を除かれて正三位を贈られた。例えば昭和二年十月二十四日彼の五十年祭が鹿児島で行われた時は、天下の名士が続々と集まって十万人の人出といわれ、全市を挙げて賑わったものである。
隆盛と一緒に三傑といわれた人に、木戸孝允・大久保通がいる。木戸孝允は長州の人、沈着で思慮深く、西南の役では天皇の股肱として征討の事務を取ったが、心神過労のため病を再発し、明治十年五月二十六日四十四歳で薨じた。明治三十四年五月二十二日従一位を贈られた。
これら維新の三傑は、いずれも至誠をもって国事に当たった人であるから、上下はその人の死を悼み、これを惜しまない者はいなかった。
278: 10/09(水)21:22 AAS
>>231
玉松操も、王政復古の勅を起草し、士気を鼓舞するための錦旗の意匠を考案するなど岩倉具視の活動を助けたが、明治二年に新政府の欧化政策を嫌悪し、同年10月に辞職する。

今まで攘夷と言ってた人たちが、アメリカ人に文部省のことまで決められるほど日本の内政に食い込まれたら、それは受け入れられないの当たり前だろう。
279: 10/09(水)21:25 AAS
>>276
民会は直接民主制
280: 10/09(水)22:59 AAS
鹿児島の高麗町出身の大久保利通が朝鮮征伐に反対した理由…祖先が朝鮮征伐で連れてこられた捕虜だからでは。

西郷隆盛も朝鮮征伐というよりは使節を送って解決したかった。
明治六年に朝鮮派遣が中止された。金銭的な理由か国際的な理由か、しかし、明治七年に台湾出兵はできるという矛盾。
張り切って出兵した西郷の弟は、朝鮮征伐は暴論と言い反対者の一人。
281: 10/09(水)22:59 AAS
//toyokeizai.net/articles/-/244522?page=4
西郷が太政大臣・三条実美に送った「朝鮮国御交際決定始末書」という意見書には、次のような内容が記されている。

「かの国(朝鮮)はわが国に対してしばしば無礼な行いをして、通商もうまくいかず、釜山に住む日本人も圧迫を受けています。とはいえ、こちらから兵士を派遣するのはよくありません。まずは一国を代表する使節を送るのが妥当だと思います。暴挙の可能性があるからといって、戦いの準備をして使節を送るのは礼儀に反します。そのため、わが国はあくまで友好親善に徹する必要がありますが、もしかの国が暴挙に及ぶのであれば、そのときはかの国の非道を訴え、罪に問うべきではないでしょうか」
282: 10/10(木)15:39 AAS
p192 学習参考

(1)挿絵解説

「岩倉大使ら欧米に派遣される」の絵は聖徳記念絵画館書題考証図五姓田芳卿筆によったもの。明治四年十月十二日岩倉大使一行五十四人が横浜を出る時の光景である。太平洋汽船会社の飛脚船アメリカ丸は国旗を掲げて海中で待っている。一行をのせたランチはアメリカ丸めざしてこいでいる。この日は駐日米公使デロングが同乗帰国するので、出港に際しては岩倉大使に対する十九発、米公使に対する十五発の祝砲を発したのである。
「天皇は京浜鉄道開業式に臨幸しなさる」絵は東京市史稿中にある英人シンドレー筆の絵画の写真によったもの。明治五年九月十二日京浜鉄道開通式を挙げられ、天皇は横浜停車場にて勅語があり、新橋停車場に還幸遊ばされた時の光景である。停車場前には大アーチが建てられ、御車寄の上には、今も鉄道で用いる工の字の旗が立っている。官吏が烏帽子直衣の服装で供奉しているのも、拝観者の中には結髪に大小を帯刀しているのも、よく当時の光景を表している。
蒸気力の応用として機関車の作成に成功したのは、英国人ジョージ・スチーブンソンで、これは西紀一八一四年のこと、汽車が初めて運転したのはリバプールとマンチェスター間で、それは一八三〇年のこと。日本ではじめて鉄道が開通したのはこれに遅れること四十二年、すなわち明治五年である。京浜間約十八哩の全通であったが、明治の末期に至れば全国の延長六千哩に垂れ下がろうとするまで発達した。
この図では当時における上下の努力と歓喜に想到し、学習者に新日本発展の喜びを共にさせなければならない。

※哩=マイル>>274も「京浜間約十八里開通以来」を十八哩(マイル)に訂正
283: ブログ転載 10/10(木)15:39 AAS
p194
(2)指導要領

この教材などは、古老に聞くと、よくその当時のことが分かり、学習の趣味を増し、確認感情を持たせることができる。
事物環境の他、読み物その他の形式環境を使う時は、委曲に当時のことを追想させることが可能である。
ここでは「明治新政府が外国と交際して我が国の発展をはかったのであるが、その態度はよかったかよくなかったか」ということを中心の問題として学習を進めるのがよい。
分けて考えれば、当時の外交はどうであったか、当時の社会ないし文化の行き方はどうであったのか、批判的学習をすればよいのである。
この教材では大体西洋文化の輸入ということと、そこに新旧思想の衝突があったことが強く響く。こうして明治の歴史は明治十年頃までは旧習一洗、明治二十年頃までは西洋心酔、二十七、八年頃までは国粋保存、三十七、八年頃までは国民自覚、末年までは道徳退廃、それ以後の建設ということになって、結局は西洋文明を自家薬籠中のものとして、やがて日本独自の文明をもって世界に貢献しようとするのである。この道程を歩き始めているのがこの教材であることに注意する。
こうして外来文化を摂取して自国文化をいかに建設するのが、もっとも適当なことかを展望させねばならない。従って現在ならびに将来を常に考慮に入れて学習させる。
この発展過程のモーテウィションとなる関係人物についても短評を加えていく。
284: ブログ転載 10/10(木)19:23 AAS
大政奉還を提唱した一人。中野方蔵。
江藤新平のWikipedia
「安政5年(1858年)に京都に遊学していた同藩の副島種臣が公家・大原重徳に王政復古を建言し、万延元年(1860年)に大橋訥庵の塾と江戸の昌平黌で学ぶ中野方蔵が江藤と大木に手紙で大政奉還を唱える等、幕末の尊王攘夷運動が活発となり文久2年(1862年)1月に坂下門事件で中野が獄中死すると、同年6月27日に同志の大木喬任が脱藩の旅費を工面し、京都へ脱藩[7]。長州藩邸で桂小五郎(後の木戸孝允)を訪ね、姉小路公知らの知遇を得た。」
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