【日本史】GHQに焚書された書籍 (534レス)
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(1): 10/13(日)16:50 AAS
日本最初のフリーメーソンの一人西周は慶喜の側近か
やっぱりフリーメーソンが江戸幕府を倒したんだ
そしてまた消されるかもしれないのでスクショ
しかしimgerは公開期間が決まっているとか
画像リンク[png]:i.imgur.com

外部リンク:ja.m.wikipedia.org
文久2年(1862年)には幕命で津田真道・榎本武揚らとともにオランダに留学し、ライデン大学でシモン・フィッセリング(ドイツ語版)に法学を、またカント哲学・経済学・国際法などを学ぶ。なお、1864年にライデンでフリーメイソンリーの「ラ・ベルトゥ・ロッジ・ナンバー7」に入会したとの史料も発見されている[3]。

慶応元年12月28日(1865年2月13日)の帰国後、目付に就任[4]、徳川慶喜の側近として活動する。王政復古を経た慶応4年(1868年)、徳川家によって開設された沼津兵学校初代校長に就任。同年、『万国公法』を訳刊。

明治3年9月28日(1870年10月22日)、明治新政府に乞われ兵部省(のち陸軍省)に出仕、軍人勅諭・軍人訓戒の起草に関係するなど、軍政の整備とその精神の確立に努め、文部省・宮内省・元老院などの公務も兼任した(学制取調御用掛・宮内省侍讀・宮内省御用掛・文部省御用掛・東京師範学校校務嘱託・元老院議官)。

明治6年(1873年)には森有礼・福澤諭吉・加藤弘之・中村正直・西村茂樹・津田真道らと共に明六社を結成し、翌年から機関紙『明六雑誌』を発行。
316: 10/13(日)16:51 AAS
>>315
フリーメーソン西周のソース

\u003C研究ノート>オランダにある幕末維新史料 : とくに日本海軍留学生の記事

宮永, 孝
外部リンク:hosei.ecats-library.jp
317: 10/13(日)17:58 AAS
西周と一緒にオランダ留学した幕臣津田真道
//ja.m.wikipedia.org/wiki/%E6%B4%A5%E7%94%B0%E7%9C%9F%E9%81%93
「藩籍を脱して苦学したが、安政4年(1857年)蕃書調所に雇用されて、文久2年(1862年)には西周とオランダに留学しライデン大学のシモン・フィッセリング(ドイツ語版)に学ぶ。オランダ留学中の1864年(元治元年)にライデンのフリーメイソンリーの「ラ・ベルトゥ・ロッジ・ナンバー7」に入会している[1]。4年後に帰国する。その講義録を慶応2年(1866年)に『泰西国法論』と題して訳出する。これは日本初の西洋法学の紹介となる。その後、幕府陸軍の騎兵差図役頭取を経て、目付に就任。大政奉還に際しては徳川家中心の憲法案を構想した(『日本国総制度』[2])」
318: 10/13(日)17:58 AAS
ソース:外部リンク[php]:nipponlodge9.com

西周と津田真道この二人が日本人のフリーメーソン第一号というのは上のサイトに載っている。
日本のフリーメーソンリーWikipedia
外部リンク:ja.m.wikipedia.org
319: 10/13(日)19:58 AAS
p214
明治五年全国を八大学区としたことは前に述べたが、明治十年大学東南両校を合併して東京大学と称し、法・理・文・医の四学部を置いて、学術の蘊奥を究めるところとした。明治十九年の学制大改革の際、工部大学校をこれに併せて帝国大学と改めた。二十三年は農科大学もできて六分科となった。京都大学が置かれたのは三十年である。
学校にも官・公立の他に私立の学舎が設けられるものも少なくなかった。福沢諭吉は天保五年十二月生まれ、豊前の人、緒方洪庵について蘭学を修め、安政五年江戸に出て英語を研究し、翌年幕府の使節に随行してアメリカへ行き、後また欧米に漫遊し、さらに慶応三年アメリカに行ったことがあった。慶應義塾をたてたのは安政五年で、これは明治四年に三田に移った。
福沢は一方では旧思想破壊をふるい、一方では新思想・新文化の建設に努力した。主としてアメリカの思想を重んじ、天賦の人権を尊び、自由平等の理を説き、実用主義を可とし、独立自尊を宣伝した。「学問のすゝめ」「西洋事情」などの著書を見ると福沢が偲ばれる。福沢に対して中村敬守のイギリス思想を吹聴する者もあり、加藤弘之のドイツ思想があり、明治の文化も繚乱の様を呈した。
この福沢が戊辰の騒乱中にも、なお自若としてウェーラントの経済学を講じていたというが、それは慶應義塾が一橋辺りにあった頃である。
また大隈重信は天保九年の生まれ、新思想には割合に早く触れることの出来た人。それは佐賀藩が福岡藩と隔年交代で長崎警固の任務を司っていたからである。関直彦が大隈重信の偉勳を三つ数えたことがある。その一は維新の功勳である。その二は憲政に対する偉勳である。その三は教育上の功勳である。
彼は明治十五年に私財を投じて早稲田専門学校を創立した。明治十七、八年頃より早稲田出身の人々は政治に実業に、文学技芸にいずれも国家社会のため有用な活動をしている。
早稲田の他イギリス法律学校(中央大学)明治法律学校(明治大学)専修学校(専修大学)和仏法律学校(法政大学)あって、いずれも政治・経済の学を授け、東京の五大法律学校といった。
320: 10/13(日)19:59 AAS
p215
また明治六年に創立して、十八年に廃校となった中村正直の同人社、明治八年創立以来いよいよ盛んとなった新島襄の同志社など教育の設備はいよいよ備わった。
しかしややもすれば、西洋の文明に酔って、我が国古来の道徳を軽んじる傾向があって、教育の主義も動揺していたようである。ここにおいて明治二十三年十月三十日、天皇、教育に関する勅語を下して、国民道徳の大本を示しなさる。史家は明治二十年頃から二十七、八年頃までを、国粋保存の期だともいうが、我が国の教育勅語はこの時期に煥発されたものであるだけに、まことに全国史の結晶がここに表現された観があり、国民の向かうところは示された。明治天皇が「みなその徳を一つにするだろうことを請い願う」と結ばれた、いわゆる「一徳」の教えをもって、力強くその向かう所を示されたものである。これによって教育の方針が確定し、文化発展の理想が明瞭になった。
321
(1): 10/14(月)11:17 AAS
p216(四)新しい文学・芸術起こる

明治初年の文学はただ江戸時代の余勢を保っただけで、いまだ新興文学を見ることは出来なかった。仮名垣魯文の「西洋膝栗毛」はやや有名ではあるが、これは構想を東海道中膝栗毛にとって、弥次郎兵衛・喜多八の両人が、横浜の豪商大腹屋に伴われてロンドンで遊ぶ途中、様々な滑稽を演じるという筋で、その文の手法は三馬や一九を模したくらいで、文学としての価値はほとんどいうに足りない。戯文狂詩の成鳥柳北にしても漢文学を引いたら後に残るものはなかろう。ただ一人脚本界に河竹黙阿弥がいて、ひとり黙って、芸術的独創の一路を拓いていたようだが、これとても案外思想的背景は乏しく、勧善懲悪にとらわれがちなのはやはり江戸時代の継承と見られるようである。
西洋文学の翻訳は、明治初年から相当に出たが論じるほどのものでもない。福沢諭吉が平明な独特の文章で、チェンバーの修身書を訳して童蒙牧草を出すなど、洋書の翻訳が盛んであったが、文学として論じることはできない。やはり新趣の見るべきものは明治十年代を待たねばならなかった。
十年代においてもっとも著しい事実は、翻訳文学と政治小説である。前者は欧化思想、後者は自由民権、共に時代を背景として出て来たもの。前者には数十種もあるがいちいち挙げない。後者においては十九年公にされた末広鉄腸の「雪中梅」、二十年に出た柴四郎(東海散士)の「佳人の奇遇」須藤南翠の「新装の佳人」などあらわれ、当時青年の心をとらえたものであるが、文学価値としては問題にならない。この時に当たって特に大書すべきものは、十八年に著された坪内逍遙の「小説神髄」である。これによって今までの小説を支配した勧善懲悪主義・誇大虚妄主義を排して写実主義を唱え、小説作者に指針を示している。次いで逍遙は「小説神髄」の思想を実現するために、自ら「当世書生気質」を書いた。これは逍遙の理想は完全に体現しているとはいえないが、この二書はたしかに暗黒の中に新曙光を点したものといえる。
322
(1): 10/14(月)11:54 AAS
坪内逍遙は江戸時代の代表的作家の曲亭馬琴を潰した西洋の手先という印象。
だからたいした作品も残せてないのに教科書にまで名前が載っている。
欲のない八犬士が人間じゃないなら、欲のない悟空も操り人形だろと言いたい。でも操り人形ではない。
ユダヤ人は作家を使って社会的思想をコントロールするのが得意技という話題に関連して。
2chスレ:history2

坪内逍遙『小説真髄』訳

小説の主眼

小説の主眼は人情である、世態風俗はこれに次ぐ。人情とはどんなものをいうのか。曰く、人情とは人間の、情慾で所謂百八煩悩(ぼんのう)これである。そもそも人間は情慾の動物であるから、どんな賢人、善者であるといって、いまだ情慾を有(も)たないものは稀である。賢不祥の弁別なく、必ず情慾を抱いたので、賢人が小人物と異なる所以、善人が悪人と異なる所以は、一に道理の力をもって、もしくは良心の力によって、情慾を抑え制(とど)め、煩悩(ぼんのう)の犬を攘(はら)うことにとりわけ起因する。
しかし智力が大いに進んで、気格(きぐらい)が高尚な人に在っては、常に劣情を包み、隠してその人の外面に顕(あらわ)さないので、さながらその人は煩悩を完全に脱したかのようであるけれども、彼も同様に有情の人とあるからには、どうして情慾がないことがないだろう。たとえ哀れんでも乱れることがなく、楽しんでも荒(すさ)むことなく、上手にひたすらその節(ぐあい)を守っているのか。忿(いか)らなければならない者をも敢(あ)えて忿(いか)らない、怨まなければならない者をも怨まないのは、もともと情慾が薄いのではなくて、その人の道理力が強いがゆえである。こういうことだから外面(おもて)に現れて、行う所はあくまで純正純良であるといっても、その行いを実行するに先だちどれほど多く劣情が心の中に勃発することはなくはないのでは。
323: 10/14(月)11:56 AAS
その劣情と道理の力とが心の中で互いに闘い、道理が劣情が勝つに及んで、はじめて善行を実行することができるのである。彼が神聖ではない以上は、水が低い方に就くように善を修める者はいるだろうか。いくらか迷う心があるのを、上手に道理をもって抑(おさ)えるからこそ賢人とも君子とも言われるのである。初めから迷いがないならば、善を実行するとしても珍しくはない。君子、賢人などというような者は、かえっておろかであるに違いない。
だから人間という動物には、外に現れる外部の行為(おこない)と、内に蔵(かく)れている思想と、二件の現象があるに違いない筈である。それから内外双(ふた)つながらその現象は駁雑(さまざま)で、顔のように異なるものの、この世に歴史があって伝記があって、たとえば外に見えている行為などは概(おおむ)ね是(これ)を書き写すといっても、たとえば内部に包んだ思想などはくどく及ぶのをもって、書き写すことができている物はいまだかつて稀である。この人情の奥を穿(うが)って、賢人、君子はいうまでもなく、老若男女、善悪正邪の心の中の内幕を、洩らす所なく描き出して、周密精倒、人情を際立って明らかとして見させることを我が小説の務めとするのである。
たとえ人情を書き写すならといって、その皮相だけを写しているものは、まだ之を真の小説といってはならない。その骨髄を穿(うが)つに及んで、はじめて小説が小説とあるのを見るのである。和漢に名がある稗官者流(はいかんしゃりゅう)は、ひたすら脚色(しくみ)が皮相にとどまるのを拙(つたな)いとして、深くその骨髄に入るようなことを力めていたけれども、主脳としなければならない人情を皮相を書き写して十分であるとした。なんと残念に思わなければならないことではないか。稗官者流は心理学者のようだ。心理学の道理に基づき、その人物を仮作(つく)ることがよい。苟(かり)にも自分の意匠を似って、強いて人情に悖戻(はいれい)する、いいえ、心理学に戻(そむ)いた人物などを仮作(つく)り出すなら、その人物は已に既に人間世界の者ではなくて、作者の想像の人物であるからその脚色は巧みであっても、その譚(ものがたり)は奇であるというとしても、これを小説といってはならない。
324: 10/14(月)11:58 AAS
物にたとえて之をいうなら、機関(あやつり)人形という者に似ている。軽はずみに之を見るなら、まるで夥(たくさん)の人が活動しているかのようであるけれども、再三熟視するにいたると、偶人師(にんぎょうつかい)の姿も見え、機関(しかけ)の工合(ぐあい)もとてもよくわかることができて、興味索然としないわけにはいかない。
小説も同様に之と同等で、作者が人物の背後(うしろ)にいて、度々糸を牽(ひ)く様子があらわに人物の挙動に見えてしまったならば、たちまち興味を失うに違いない、試みに一例を挙げて話そうか、たとえばあの曲亭の傑作であった『八犬伝』中の八士などは、仁義八行(はっこう)の化物で、決して人間とは言い難い。作者の本意も、もとから、あの八行を人に擬して小説を作り上げるつもりの取り計らいであるから、あくまで八士の行いを完全無欠の者と作り上げて、勧徴の意を寓したのである。
だから勧徴を主眼として『八犬伝』を評するときには、東西古今にその類いなき好稗史(こうはいし)であるといわなくてはならないけれど、他の人情を主脳としてこの物語を、論(あげつら)うならば、瑕(きず)なき玉とは称えがたい。そのわけをなぜとならば、あの八主公(はちしゅこう)の行いを見ろ、いいや、行為はともかくも、肚(はら)の裏(なか)で考えていることさえも徹顕徹尾道理によくあてはまって、かつて劣情を発したことはない。まして一時一瞬といえども、心猿(しんえん)狂い、意馬跳(おど)って、彼の道理力と肚の裏(なか)で闘っていた例もない、たとえ尭舜(ぎょうしゅん)の聖代(みよ)であるからといって、このような聖賢が八個(はちにん)までもそろって並びながら世間に出るだろうことは殆(ほとん)ど望みがたい事ではないか。大かた八犬士は曲亭馬琴の理想上(アイデアル)の人物で、現世の人間の写真ではないので、この不都合もあったのである。そうではあるが馬琴の凡ではない、十分に巧妙の意匠をもってして、その牽強(こじつけ)を掩(おお)ったので、読者は豪(ちっと)もこれがわからない、上手に人情をも穿(うが)っているとほめ称えるのは誤りではないか。
325: 10/14(月)11:58 AAS
このように話すからといって、『八犬伝』を小説ではないというのではないけれど、今証例に都合であろうが為に、しばらく人口に膾炙(かいしゃ)しているあの傑作をとりわけ引用した。曲亭翁の著作については、自分はおのずから別に論がある。その時を手に入れて説明する手だてがあるに違いない。
だから小説の作者とある者は専(もっぱ)らその意を心理に注いで、私が仮作(つく)った人物であっても、一度篇中に出た以上は、之を活世界の人と見做して、その感情を写し出すので、敢えて自分の意匠をもって善悪邪正の情感を作り設けることをしない、只傍観してありのままに模写する取り計らいであることがふさわしいのである。(中略)ただ小説の主人公は実録の主とおなじではなく、完全に作者の意匠で成立しているとりわけ虚空仮説の人である。
しかし一旦出現して小説中の人となるならば、作者といってもほしいままに之を進退を行ってはならない。恰(あたか)も他人のように思って、自然の様子をだけ写さなければならない。あの勧徴をもって主眼とする和漢の小説作者のように、このような情はこの人物にはふさわしくない、そのような情慾をいだかせてしまったならばこの人物の価を損するだろう、聖人君子に恥じない立派な人物にしておこうなど及ばない、作者が岡目(おかめ)の手細工をもって人の感情を折衷なし、勧懲という人為の模型へ造化の作用をはめこむときには、その人情と世態とは已(すで)に天然のものではない。作者が自ら製作(こしら)えたお誂(あつら)え向きの人情であるから、その人物を除く者の外には決して見がたい人情であるに違いない、それは小説の主人公はもとから仮作の者であるから、完美に作り上げるのも敢えて妨げないことであるけれども、ただ予め限界(かぎり)を設けて、人情の外に出ないよう工夫を凝らすことを肝要とする。
326: 10/14(月)12:06 AAS
多分江戸時代に八犬伝が大流行したから皆勧善懲悪を真似して勧善懲悪ばかりになるほど影響が強かったんだと思う。
勧善懲悪ものの本しかなくてつまらないというならわかる。
しかし、勧善懲悪小説と、人間の欲情ドロドロ小説は別ジャンルであり、逍遙が主張するように人情ものだけが勧善懲悪より優れているというわけではない。
どちらでもおもしろければそれでよい。
逍遙みたいのが一番つまらん。
327
(1): 10/14(月)12:38 AAS
どうでもいいことだけど、ドラゴンボールや流れ星銀とか80年代のアニメ見てると古語を多めに使ってる。
「カメハウス発見さる!」の題や「討ちとったり!」などの台詞。
今でも現役で古語を使ってるのは宮崎駿くらいか。
流れ星銀って犬を集めたり、メス犬がいたり、漢の物語で水滸伝みたいだ。
328: 10/14(月)12:57 AAS
逍遙つまんねーなと思っても、教科書に小説の指針を示した坪内逍遙とあったらそう解答しないと評価されないから、歴史教科書は事実を淡々と書き連ねるだけでよいと思う。
329: 10/14(月)13:08 AAS
>>327
「さる」は古語じゃなくて文語だった
330: ブログ転載 10/14(月)13:24 AAS
p217
洋楽も明治に至って起こった。その端緒は軍楽隊にあり、海軍は英式、陸軍は仏式によっていた。
明治十二年になると、東京と上野に音楽取調所(東京音楽学校)が設けられ、米国において洋学を研究した伊沢修二を所長とし、米人メーソンを招聘して洋楽を教授させ、次第に小学校にも西洋音楽が教えられるに至った。この年宮内省雅楽師林広守によって「君が代」の作曲もできた。
また明治のはじめ何事も新を競うあまり、みだりに旧来の名書宝器をいやしんだので、狩野派の天才狩野芳崖や橋本雅邦の絵画なども、ほとんど顧みられなかった。従って芳崖が窮乏のあまり、砲兵工廠の図案課の採用試験に応じ、用器書に落第したので、扇の絵を書き、また橋本雅邦が日給三十五銭で海軍の海図をかいて渡世せざるを得なかった。
洋画の方面を見ると、その端緒を幕末に開いている。欧州への留学の最初は川上清雄で、明治四年出て十四、五年頃までイタリアで学んだ。原直次郎・岡倉覚三・九鬼隆一皆西洋に学んだもの、国内では川上冬崖は洋画を吹聴するし、イタリア人フォンタネージが日本に招聘され、小山正太郎などがついて学び、小山正太郎などはまた門下生を指導し、そのうちに留学した者も帰ってきて、明治二十二年には明治美術会という洋画の団体がはじめてでき、当時の新知識を集めた団体であった。
こうした間に米人フェノロサが、明治十一年東京大学の招聘により来朝し、哲学・政治・経済を教えていたが、彼は日本固有の美術が貴重であることを説き、大いに国民に反省を促した。一方また仏国に学んだ岡倉覚三や九鬼隆一にしても日本美術には推賞おけないものがあると言い出した。この傾向に乗じて明治十五年にははじめて絵画共進会を上野の博物館で開き、次いで二十年に日本美術協会が設立され、二十一年には美術学校が創立され、岡倉覚三が校長となり、さきの芳崖や雅邦は教授となった。西洋画科が美術学校に置かれたのは明治二十九年であるが、しかしこの美術学校ができた頃には、日本画・西洋画各々その所を得て、存在の意義が見出だされてきた時である。

工廠=軍隊直属の軍需工場
用器画=製図器具を用いて幾何学的に正確に描く画
331: 10/14(月)14:04 AAS
幕末に日本の美術品を狙っていた欧米人が、欧米シンパの日本人を使って日本美術をいやしめる風潮をつくり、めぼしい作品が海外に流出したんじゃないかと邪推する。
あまりにできすぎ。
332: 10/14(月)14:07 AAS
ディズニー落ち目で日本のアニメも狙ってる。
金の匂いがすると飛んで来る。
333: ブログ転載 10/14(月)18:52 AAS
p218(五)洋風の輸入と国粋の保存

明治十年頃までは旧習一洗・現状打破の時代、十年頃から二十年頃までは自由民権・西洋心酔の時代であった。
政府において最も極端な保守思想家であった岩倉具視が逝去した翌月、すなわち十六年八月に伊藤博文が憲法調査を終えて欧州から帰朝した。その新知識を発揮し、新統治を行おうとするに当たって、主として模範としたのはドイツにおける政治組織の美であった。「かやつも、こやつも、ドイツでなければ夜が明けない」とまで悪口を言われる程であった。その主義ではじめて内閣制度をつくり、伊藤第一次内閣が出来たのは、明治十八年十二月であったが、この内閣が手をつけた条約改正問題を解決するためには、極端な欧化政策をとるのがよいということになって、外相井上馨は日本の家屋・衣服・飲食を欧米化し、日本人種改良まで唱えるに至り、鹿鳴館(今日の華族会館)において、長夜の宴を開き、欧風舞踏や、滑稽な仮装会に浮き身をやつした。外国使臣徒は、永田町の首相官邸で催された仮装舞踏会に参列して、当年の奇兵隊長に扮した山縣や、安宅の弁慶に扮した渋沢、ヴェニスの貴族に成り済ました伊藤、田舎武士に扮した大山などの仮装を見たものである。
思想界では中江兆民が「一年有半」において「民権これは至極の道理である。自由平等これは大義である。これら理義に反する者はついにこの罰を受けぬということはできない」といった。彼はフランス学者で、ルソーの心酔者であった。キリスト教思想の新島襄は海老名弾正・小崎弘道・浮田和民・市原盛宏・徳富猪一郎・宮川経輝・金森通倫など有為の人物を輩出したときである。加藤弘之はまたイギリスのポップスの思想とダーウィンの思想を結びつけて進化論を唱え、多く欧米における思想が入り込み、一般に洋風駿々として輸入される時代であった。
334: ブログ転載 10/14(月)18:57 AAS
p220
この風潮に対して、明治十一年一月、早くも藤井惟勉は明治新論を公にし「祭祀は孝を明らかにし、祖先につかえ、神明に通じるゆえんである」と論じ、十二年八月、吉岡徳明は「開化本論」を著して、物質文明を斥けて精神文明を説き、同年十月田中知邦は「大日本国教の要旨」を出して報本反始の道徳を高調し、十二月田中義廉は「古事記玄義」、同年神邑忠起は「通俗愛国問答」、十四年十月佐藤茂一は「日本憲法論」、千家尊福は「大道要義」十五年十一月岩崎実也は「国教一般」十六年八月三木整は「皇国政教論」、同年九月水原完梁は「古学通弁」、をそれぞれ著して、固有の思想を力説したが、明治十九年十二月には、西村茂樹が帝国大学において三日間に渡って「日本道徳論」という公開講演を行って一大衝動を世人に与えた。
その後西村は「日本弘道会」を率いて大いに旧道徳の吹聴を行い、これと互いに並んで三宅雄二郎・志賀重昴・杉浦重剛・井上円了などを中心とする政教社が起こり、機関雑誌「日本人」および「日本新聞」によって大いに国粋保存の思想を強調した。二十二年頃は最もその活躍した時である。こうして二十年頃から二十七、八年頃にかけて国粋保存時代があらわれる。二十一年には山岡鉄太郎などの「日本国教大道社」が起こり、機関誌「大道叢誌」が発行され、二十三年には惟神学舎の「隨在天神(カンナガラ)」二十五年に「神道」それぞれが発行され、二十二年の憲法発布、二十三年教育勅語の煥発に相応しい世態が出現したのである。
こうして旧来の事物を尊重する風が生じて来て、能楽は復興し謡曲も行われ、芝山内に能楽堂が出来るようになった。
芝居の方も欧化傾向に動かされて、明治十九年八月朝野の名士によって演劇改良会ができ、西洋劇のように写実的にさせることが相応しいと論じたこともあるので、だいぶん変わったものも出てきたが、この頃歌舞伎劇に九代目市川團十郎・尾上菊五郎のような名優があらわれて、改良運動をも斟酌して一際目立って一頭角をあらわしたので、團菊中心の演劇時代をあらわして来た。

※報本反始(もとにむくいはじめにかえる)=天地や祖先などの恩に報いること。人が天地や祖先など、存在の根本に感謝し報い、発生のはじめに思いを致すこと。
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