【日本史】GHQに焚書された書籍 (529レス)
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(1): 10/14(月)11:17 AAS
p216(四)新しい文学・芸術起こる

明治初年の文学はただ江戸時代の余勢を保っただけで、いまだ新興文学を見ることは出来なかった。仮名垣魯文の「西洋膝栗毛」はやや有名ではあるが、これは構想を東海道中膝栗毛にとって、弥次郎兵衛・喜多八の両人が、横浜の豪商大腹屋に伴われてロンドンで遊ぶ途中、様々な滑稽を演じるという筋で、その文の手法は三馬や一九を模したくらいで、文学としての価値はほとんどいうに足りない。戯文狂詩の成鳥柳北にしても漢文学を引いたら後に残るものはなかろう。ただ一人脚本界に河竹黙阿弥がいて、ひとり黙って、芸術的独創の一路を拓いていたようだが、これとても案外思想的背景は乏しく、勧善懲悪にとらわれがちなのはやはり江戸時代の継承と見られるようである。
西洋文学の翻訳は、明治初年から相当に出たが論じるほどのものでもない。福沢諭吉が平明な独特の文章で、チェンバーの修身書を訳して童蒙牧草を出すなど、洋書の翻訳が盛んであったが、文学として論じることはできない。やはり新趣の見るべきものは明治十年代を待たねばならなかった。
十年代においてもっとも著しい事実は、翻訳文学と政治小説である。前者は欧化思想、後者は自由民権、共に時代を背景として出て来たもの。前者には数十種もあるがいちいち挙げない。後者においては十九年公にされた末広鉄腸の「雪中梅」、二十年に出た柴四郎(東海散士)の「佳人の奇遇」須藤南翠の「新装の佳人」などあらわれ、当時青年の心をとらえたものであるが、文学価値としては問題にならない。この時に当たって特に大書すべきものは、十八年に著された坪内逍遙の「小説神髄」である。これによって今までの小説を支配した勧善懲悪主義・誇大虚妄主義を排して写実主義を唱え、小説作者に指針を示している。次いで逍遙は「小説神髄」の思想を実現するために、自ら「当世書生気質」を書いた。これは逍遙の理想は完全に体現しているとはいえないが、この二書はたしかに暗黒の中に新曙光を点したものといえる。
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