【日本史】GHQに焚書された書籍 (529レス)
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301: ブログ転載 10/13(日)05:32 AAS
こうして神・儒・仏・キリスト教がそれぞれ対立し、互いに競争をした代わりに、互いに発展もした。またいずれもいわゆる法難もあった。
それなのに明治二十二年憲法を発布されるや、儒教は宗教として公認されなかったが、神道・仏教・キリスト教は信教の自由となり、宗教上の争いはやんで、それぞれ円満な発達を見るに至った。
302: 10/13(日)06:32 AAS
>>160
著者の大松庄太郎はペリー来航のことを恩人とまで言っていてその後すぐにそれは違うと言ってバランスを取っているが、この人も欧米崇拝気質がある。
教科書で欧米崇拝を洗脳するのは国策なのか、やはり文部省にアメリカ人がいただけあってアメリカ礼賛があからさま。

廃仏毀釈は明治新政府が改元前にすでに行ったことからわかるように、何をおいても先にやらなけりゃいけない一大事案だった。
それは維新の志士のブレーンだったアメリカ宣教師フルベッキの方針だったのかもしれない。
江戸初期日本国民を仏教徒にしキリスト教を排除したことは、日本人は忘れてもあちらさんは忘れてないだろう。>>46
廃仏毀釈の評価は現在でも、国民の暴走で政府は関係ありませーん自己責任です、ってやり方が今の政府と変わらない。

日本史の一大汚点「廃仏毀釈」はいかにして行われたか?【書籍オンライン編集部セレクション】
2023年11月30日 3:46
外部リンク:diamond.jp
省4
303: 10/13(日)06:33 AAS
「廃仏毀釈」という仏教文化の破壊活動

そして、政権奪取に成功するや否や、日本史の一大汚点というべき「廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)」という徹底した仏教文化の破壊活動を繰り広げたのである。
仏教伝来から既に千四百年近く経っていた明治維新といわれるこの時点に於いて、仏教という宗教及びその影響を受けた文化的、精神的諸要素は、既にこの美しい島国の風土を創り上げている主たる要素といってもいいほど大地に、空間に、人びとの心に浸み込んでいる。
その意味では、薩長新政権が惹き起こした「廃仏毀釈」というムーブメントは、歴史上例をみない醜い日本文化の破壊活動であった。
これは、俗にいう明治維新の動乱の中で、明治元(1868)年に薩長新政権が打ち出した思想政策によって惹き起こされた、直接的には仏教施設への無差別な、また無分別(むふんべつ)な攻撃、破壊活動のことをいう。
これによって、日本全国で奈良朝以来の夥(おびただ)しい数の貴重な仏像、仏具、寺院が破壊され、僧侶は激しい弾圧を受け、還俗(げんぞく)を強制されたりした。
ひと言でいえば、薩摩、長州という新しい権力者による千年以上の永きに亘って創り上げられた我が国固有の伝統文化の破壊活動である。
現代のイスラム原理主義勢力タリバーンやイスラム国を思えば分かり易いであろう。
文化財の破壊という点のみでいえば、イスラム原理主義者による文化財の破壊より規模は遥かに大きかった。
発端は、新政権が出した太政官布告「神仏分離令」と明治三(1870)年に出された「大教宣布」にある。
省2
304: 10/13(日)06:34 AAS
私ども大和民族は、それまで千年以上の永きに亘って「神仏習合」というかたちで穏やかな宗教秩序を維持してきた。
平たくいえば、神社には仏様も祀(まつ)って別(わ)け隔てなく敬ってきたのである。
これは、極めて濃厚にアジア的多元主義を具現する習俗であったといえる。
それをいきなり廃止せよと命じ、神社から仏教的要素を徹底的に排斥することを推進し、ご神体に仏像を使用することも禁止したのである。
これが、全国的に大々的な廃仏運動を燃え盛らせたのだ(平成日本人は、「神仏習合」が大和的な、おおらかで自然な姿であったことも分からなくなっている)。
今、近代と呼ばれている私たちの世界は、一元主義によって行き詰まりを迎えているといえるだろう。
かつての東西冷戦も現代の西欧社会とイスラム社会の衝突も、一元主義と一元主義の対立である。
一元主義同士の戦いを一元主義によって収束させることは、残念ながら無理なのだ。
薩長権力が一転して狂ったようにかぶれた西欧文明はまもなく確実に終焉を迎えるであろうが、それは言葉を換えれば一元主義の破綻といっていい。
もともと大和民族は、多元主義的な生態を維持してきた故に、多少の混乱期を経験しながらも長期的には平穏な生存空間を、政治的な版図(はんと)を超越して維持してきたのである。
省4
305: 10/13(日)06:35 AAS
こういう現象は、時代の転換期には間々あることではある。
とはいえ、神聖政治を目指す、神道(しんとう)を国教とする、仏教はそもそも外来のものである、すべてを復古させるべきだというのだから、これはもう気狂い状態に陥ったというべきであろう。
では、一体どこへ復古させるのが正しいのか……当然、五世紀以前ということになってしまうのである。
そもそも薩摩長州は、徳川政権を倒すために天皇を道具として利用したに過ぎない。
そのために「尊皇攘夷」という大義名分が必要となった。
これは、どこまでも大義名分に過ぎない。
薩摩長州のリーダー層が純粋に尊皇精神をもっていたかとなると、幕末動乱期の行動、手法が明白に示す通り、そういう精神は微塵(みじん)ももち合わせていなかったとみるべきであろう。
「尊皇攘夷」を方便として喚き続けているうちに本当に気狂いを起こし、「王政復古」を唱え、何でもかでも「復古」「復古」となり、大和朝廷時代が本来のあるべき姿であるとなってしまったのだ。
その結果、寺を壊せ、仏像を壊せ、経典を焼け、坊主を成敗(せいばい)せよ、となってしまったのである。
この「廃仏毀釈」を単なる民衆の行き過ぎた一時的なムーブメントとし、新政権の方針とは全く無関係であると学者はいい続けてきたが、それは違う。
省4
306: 10/13(日)06:41 AAS
(中略)
「廃仏毀釈」とは、それほど醜い仏教文化の殲滅(せんめつ)運動であったのだ。
「復古」「復古」と喚いて、激しく「尊皇攘夷」を口先だけで主張し、幕府にその実行を迫ってテロを繰り広げた薩摩長州人は、このように古来の仏教文化でさえ「外来」であるとして排斥したのだが、政権を奪うや否や一転して極端な西欧崇拝に走った。
「尊皇攘夷」式にスローガンとしていうならば、今日からは「脱亜入欧(だつあにゅうおう)」だと豹変したのである(後に福澤諭吉が唱えた「脱亜入欧」は、経緯、主旨が異なる)。
これほど激しい豹変を、それも昨日と今日の価値観が逆転するといった具合に短期間に行った民族というものも珍しい。
どちらの態度も、己のアイデンティティを破壊することに益するだけであることに、彼ら自身が気づいていなかったのである。
日本人は、テンション民族だといわれる。
明治維新時に植え付けられたと思われるこの特性は、大東亜戦争敗戦時にも顕著に顕れた。
その悪しき性癖は、今もそのまま治癒することなく慢性病として日本社会を食いつぶすほど悪化していることに気づく人は少ない。
このことは、ほとんど近代政治家と官軍史観による教育の犯罪といってもいい過ぎではないだろう。
307: 10/13(日)06:43 AAS
奇兵隊を結成した高杉晋作は長崎のフルベッキのところに出入りしていた。

2017.08.29 07:00  SAPIO
明治維新・廃仏毀釈で日本の貴重な文化財が流出、もう戻らない
外部リンク:www.news-postseven.com
「長州では明治維新前夜から廃仏毀釈的な風潮があり、高杉晋作らが結成した奇兵隊の隊士に刀で首を切られた地蔵なども残っています。また『神罰』だといって殺された僧侶もいる。ただ、現代の視点から見れば『ひどい宗教弾圧だ』と感じるかもしれませんが、江戸時代の仏教は幕府権力と結びつきが強すぎたため、『廃仏毀釈は新時代建設のための反体制運動だった』という視点から見る必要もある」
308
(1): 10/13(日)06:59 AAS
2022.09.30
大隈重信、岩倉具視ら「幕末の獅子たち」を惹きつけた宣教師「フルベッキ」…その魅力の正体
外部リンク:gendai.media

長州藩士の高杉晋作は一八六二年(文久二年)長崎へやって来た。四月二九日上海へ出発するまでの間に、崇福寺在住のフルベッキを訪ね、アメリカの南北戦争や中国の太平天国の乱などについて質(ただ)した。太平天国の乱が洪秀全(こうしゅうぜん)(宗教家・革命家)らキリスト教系の宗教団体が起こしたものだったこともあり、高杉はキリスト教を敵視していた。
フルベッキと会談した際の様子を『長崎淹留雑録』に残している。
「彼(かの)二人日本語を学ばんと欲する、何とも怪し、耶蘇教を日本へ推し広めんことを欲るならん」(『高杉晋作全集』)
土佐藩士岩崎(いわさき)弥太郎(やたろう)も足繁く通った。岩崎はいわゆる土佐商会の主任として土佐藩の貿易業に従事した。後に三菱財閥の創業者となる岩崎は長崎時代、フルベッキの知己を得て、活動範囲を大いに広めたのである。
一八六八年(慶応四年)五月四日の書簡で、フルベッキは当時を振り返っている。
「一年あまり前に副島と大隈の二人の有望な生徒を教えましたが、これら二人は新約聖書の大部分と米国憲法の全部とをわたしと一緒に勉強しました」(『フルベッキ書簡集』)
明治の元勲大隈重信や「政体書」を起草した副島(そえじま)種臣は、フルベッキから直接、欧米世界の幅広い情報や知識を得ていたのである。
省2
309
(1): 10/13(日)07:33 AAS
>>308
これだと高杉晋作とフルベッキが対立したままだった。

高杉晋作Wikipedia
外部リンク:ja.m.wikipedia.org
「文久2年(1862年)には藩命で、長崎から中国(清)の上海へ渡航することになり、同年1月2日(旧暦)に長崎へ出発。到着した長崎では、崇福寺に滞在していた米国人宣教師のチャニング・ウィリアムズ(立教大学創設者)や、グイド・フルベッキから欧米の南北戦争や清国の内乱に関する世界情勢の最新情報を得るなど上海行きの準備を進めた。晋作の手記『遊清五録』の中の「長崎淹流雑録」に、ウィリアムズから大統領制などの政治制度についても学んだことが記されている。このことが、奇兵隊を創設する着想となったと言われる」

高杉晋作ミュージアムだと、伊藤博文と高杉晋作はグラバーとラウダーに渡英の世話になっている。
外部リンク:shinsaku-m.com
310: 10/13(日)07:34 AAS
高杉晋作Wikipediaスクショ
画像リンク[jpeg]:i.imgur.com
311: 10/13(日)07:36 AAS
>>148
アメリカ宣教師チャニング・ウィリアムズは来日当初、長崎の寺でフルベッキと一緒に住んでいた時期がある。
312: 10/13(日)12:11 AAS
だから反日NHKが徳川が嫌いなのはアメリカの意向かなと思っている。
やっぱり蔦屋では田沼すごい!幕府アホという構図になるのか?
313: 10/13(日)15:36 AAS
p212(三)教育の発達

明治五年八月には学制が定まった。中央集権的なところは仏国式、小・中・大学の階級的連絡は米国式によったもの、学風は一般に米国風であった。
明治十二年九月には、教育令が発揮され、大・中・小学区を廃し、町村に命じて小学校を設立させ、町村自治により、六歳から十四歳までが学齢で、就学義務期限は十六ヶ月ということになった。
十三年二月の改正教育令において、三ヶ年間毎年十六週以上の義務教育とし、十四年五月には小学校を初等三年、中等三年、高等二年とし、十八年に教育令改正があったが、これは実施しないで次の改正となったもので、このへんまでは学制の反省時代ともいうべく、学風はペスタロッチーやスペンサーが流行した。
十八年、官制に大改革があって、文部大臣森有礼は翌十九年学校令を発布した。小学校令は尋常と高等とに別け、小学簡易科をもって尋常に代用する。二十三年また改正小学校令が出て、尋常は三年または四年とし、高等は二年・三年または四年とした。
中学校は学制の中に上等・下等の二中学と、変則中学というものがあったが、十四年には初等・高等の二種とし、十九年には高等・尋常の二種とし、大学予備門を第一高等中学校とした。
こうして普通教育が行き渡ると共に、帝国大学及び各種の専門学校も設けられて、高等の教育もおいおいに進み、今まで世に顧みられなかった女子教育及び実業教育などもだんだん興って来た。
明治新政に入ってから後も、教育の制度は、なお江戸時代のものを、そのまま引き継いだもので、江戸幕府の開成所(蕃書調所とか洋書訓所とかいった)をもって学校となし、ここでもっぱら洋学を修めさせた。二年六月には昌平校を大学校と称して、開成校・医学校などを管理させた。次いで大学校を大学と改称し、開成校を大学南校と称し、医学校を東校と称し、四年には大学を改めて
文部省とした。
314: 10/13(日)16:42 AAS
ペスタロッチはイルミナティの支部の共同設立者
その後興味を失ったというけれど…

「1783年、啓蒙主義の先駆者たるペスタロッチはイルミナティ教団チューリッヒ支部の共同創設者となり(彼の教団名はアルフレッド)、1784年にはフロント組織であるチューリッヒの「善良なる人々の協会」(Gesellschaft zur Aufnahme des Guten)の共同創設者となった。しかし、彼は比較的短期間でこの関係に興味を失った。」
外部リンク:ja.m.wikipedia.org
スクショ
画像リンク[jpeg]:i.imgur.com
315
(1): 10/13(日)16:50 AAS
日本最初のフリーメーソンの一人西周は慶喜の側近か
やっぱりフリーメーソンが江戸幕府を倒したんだ
そしてまた消されるかもしれないのでスクショ
しかしimgerは公開期間が決まっているとか
画像リンク[png]:i.imgur.com

外部リンク:ja.m.wikipedia.org
文久2年(1862年)には幕命で津田真道・榎本武揚らとともにオランダに留学し、ライデン大学でシモン・フィッセリング(ドイツ語版)に法学を、またカント哲学・経済学・国際法などを学ぶ。なお、1864年にライデンでフリーメイソンリーの「ラ・ベルトゥ・ロッジ・ナンバー7」に入会したとの史料も発見されている[3]。

慶応元年12月28日(1865年2月13日)の帰国後、目付に就任[4]、徳川慶喜の側近として活動する。王政復古を経た慶応4年(1868年)、徳川家によって開設された沼津兵学校初代校長に就任。同年、『万国公法』を訳刊。

明治3年9月28日(1870年10月22日)、明治新政府に乞われ兵部省(のち陸軍省)に出仕、軍人勅諭・軍人訓戒の起草に関係するなど、軍政の整備とその精神の確立に努め、文部省・宮内省・元老院などの公務も兼任した(学制取調御用掛・宮内省侍讀・宮内省御用掛・文部省御用掛・東京師範学校校務嘱託・元老院議官)。

明治6年(1873年)には森有礼・福澤諭吉・加藤弘之・中村正直・西村茂樹・津田真道らと共に明六社を結成し、翌年から機関紙『明六雑誌』を発行。
316: 10/13(日)16:51 AAS
>>315
フリーメーソン西周のソース

\u003C研究ノート>オランダにある幕末維新史料 : とくに日本海軍留学生の記事

宮永, 孝
外部リンク:hosei.ecats-library.jp
317: 10/13(日)17:58 AAS
西周と一緒にオランダ留学した幕臣津田真道
//ja.m.wikipedia.org/wiki/%E6%B4%A5%E7%94%B0%E7%9C%9F%E9%81%93
「藩籍を脱して苦学したが、安政4年(1857年)蕃書調所に雇用されて、文久2年(1862年)には西周とオランダに留学しライデン大学のシモン・フィッセリング(ドイツ語版)に学ぶ。オランダ留学中の1864年(元治元年)にライデンのフリーメイソンリーの「ラ・ベルトゥ・ロッジ・ナンバー7」に入会している[1]。4年後に帰国する。その講義録を慶応2年(1866年)に『泰西国法論』と題して訳出する。これは日本初の西洋法学の紹介となる。その後、幕府陸軍の騎兵差図役頭取を経て、目付に就任。大政奉還に際しては徳川家中心の憲法案を構想した(『日本国総制度』[2])」
318: 10/13(日)17:58 AAS
ソース:外部リンク[php]:nipponlodge9.com

西周と津田真道この二人が日本人のフリーメーソン第一号というのは上のサイトに載っている。
日本のフリーメーソンリーWikipedia
外部リンク:ja.m.wikipedia.org
319: 10/13(日)19:58 AAS
p214
明治五年全国を八大学区としたことは前に述べたが、明治十年大学東南両校を合併して東京大学と称し、法・理・文・医の四学部を置いて、学術の蘊奥を究めるところとした。明治十九年の学制大改革の際、工部大学校をこれに併せて帝国大学と改めた。二十三年は農科大学もできて六分科となった。京都大学が置かれたのは三十年である。
学校にも官・公立の他に私立の学舎が設けられるものも少なくなかった。福沢諭吉は天保五年十二月生まれ、豊前の人、緒方洪庵について蘭学を修め、安政五年江戸に出て英語を研究し、翌年幕府の使節に随行してアメリカへ行き、後また欧米に漫遊し、さらに慶応三年アメリカに行ったことがあった。慶應義塾をたてたのは安政五年で、これは明治四年に三田に移った。
福沢は一方では旧思想破壊をふるい、一方では新思想・新文化の建設に努力した。主としてアメリカの思想を重んじ、天賦の人権を尊び、自由平等の理を説き、実用主義を可とし、独立自尊を宣伝した。「学問のすゝめ」「西洋事情」などの著書を見ると福沢が偲ばれる。福沢に対して中村敬守のイギリス思想を吹聴する者もあり、加藤弘之のドイツ思想があり、明治の文化も繚乱の様を呈した。
この福沢が戊辰の騒乱中にも、なお自若としてウェーラントの経済学を講じていたというが、それは慶應義塾が一橋辺りにあった頃である。
また大隈重信は天保九年の生まれ、新思想には割合に早く触れることの出来た人。それは佐賀藩が福岡藩と隔年交代で長崎警固の任務を司っていたからである。関直彦が大隈重信の偉勳を三つ数えたことがある。その一は維新の功勳である。その二は憲政に対する偉勳である。その三は教育上の功勳である。
彼は明治十五年に私財を投じて早稲田専門学校を創立した。明治十七、八年頃より早稲田出身の人々は政治に実業に、文学技芸にいずれも国家社会のため有用な活動をしている。
早稲田の他イギリス法律学校(中央大学)明治法律学校(明治大学)専修学校(専修大学)和仏法律学校(法政大学)あって、いずれも政治・経済の学を授け、東京の五大法律学校といった。
320: 10/13(日)19:59 AAS
p215
また明治六年に創立して、十八年に廃校となった中村正直の同人社、明治八年創立以来いよいよ盛んとなった新島襄の同志社など教育の設備はいよいよ備わった。
しかしややもすれば、西洋の文明に酔って、我が国古来の道徳を軽んじる傾向があって、教育の主義も動揺していたようである。ここにおいて明治二十三年十月三十日、天皇、教育に関する勅語を下して、国民道徳の大本を示しなさる。史家は明治二十年頃から二十七、八年頃までを、国粋保存の期だともいうが、我が国の教育勅語はこの時期に煥発されたものであるだけに、まことに全国史の結晶がここに表現された観があり、国民の向かうところは示された。明治天皇が「みなその徳を一つにするだろうことを請い願う」と結ばれた、いわゆる「一徳」の教えをもって、力強くその向かう所を示されたものである。これによって教育の方針が確定し、文化発展の理想が明瞭になった。
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