【日本史】GHQに焚書された書籍 (542レス)
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477: ブログ転載 2024/11/16(土)17:25 AAS
p305
国民は再び悲嘆の涙に暮れ、喪に服することは前と同じであった。やがて五月二十六日午前五時半、先帝御陵の東に葬り奉る。御陵は明治天皇の三分の二の御構である。伏見桃山東陵と申す。ちなみに陵(ミササギ)とは天皇及び皇后の御冢墓に言うのみである。

(五)国民の追慕

先帝及び皇太后のかぎりない御徳は申しても尽きないけれども、「おおよそ世界の文明史上この帝国の発展進歩ほど驚嘆すべき事実があることはない」とロンドンタイムスが報じ、「木造の帆前船と弓矢とをもって唯一の武器とした日本は明治天皇によって一躍鋼鉄の武装を施すに至る」とモスクワの新聞が言ったように、驚異的な発展を遂げた明治の盛世を創り出しなさったのが明治天皇である。今や明治の歴史を回顧すれば、いよいよ感慨にたえないものがある。特に天皇は日夕大御心を万民の上に寄せなさって、

とこしえに 民やすかれと 祈るなる 我が世を守れ 伊勢の大神(二十四年)
〔※永遠に国民が安寧であれと祈るのである我が世を守りたまえ伊勢神宮の神よ〕

千早ふる 神ぞ知るらむ 民のため 世を安かれと 祈る心は(二十四年)
〔※神はきっと知っているだろう、民のためにこの世を安寧にと祈る心は〕

照るにつけ 曇るにつけて 思うかな わが民草の 上はいかにと(三十七年)
〔※太陽が照っていても曇っていても考えるなあ、我が国の国民の身の上はどうかと〕

とお詠みなさる。

皇太后は左大臣一条忠香の三女でいらっしゃり、明治元年皇后に立ちなさり、終始明治天皇内助の御功を重ねなさり、わけて御仁慈の御心は深くおありになり、慈恵病院・赤十字病院に行啓になることは度々、またかつてワシントンで開かれた万国赤十字大会に十万円御寄付のことがあるなど、慈善の事業を進めなさることが多かった。皇太后はまた特に女学をすすめなさり、学校へ行啓になることは度々、明治九年二月次の詠歌を東京女子高等師範学校に下し賜る。
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