【日本史】GHQに焚書された書籍 (542レス)
上下前次1-新
457: ブログ転載 2024/11/14(木)10:45 AAS
p291
右表中生産力指数というのは、明治二十七年を一〇〇.〇として算出したものである。
ここには生糸・綿糸・織物・造船について記したが、その他製鉄業にしても、化学工業にしても、皆著しく発展を遂げ、電気を利用することは日露戦後急激に拡大し、個人企業を去って会社企業が普及し、漸次大資本による経営に移って今日に至った。
またこれら産業に関する行政事務を司っている農商務省は、大正十四年五月には農林・商工の二省となり、時勢の要求に応じることとした。時代は今経済の時代に動いているのである。精神的な人間の一面を忘れることがないことをひたすら望むのである。
458: ブログ転載 2024/11/14(木)13:12 AAS
p291
(3)貨幣の制度
明治十七年七月一日から施行した兌換券条例の第一条には「銀貨をもって兌換するものとす」と定めてある。すなわち銀貨本位性であった。
政府は日清戦後の経営に当たり、低利大資本金を外国に求めようとしたが、外国は多く金貨資本制であったから、多いに不便を感じた。そこで明治三十年十月、清国から受け取った償金があるのを幸いに金貨本位に戻ったのである。
銀は価値が常に高下して一様ではなく、本位貨幣としては適当なものではなかったから、これで世界の体勢に順応したわけである。
明治三十年三月二十九日交付の貨幣法には貨幣の種類を次のように定めてある。これがすなわち現行の貨幣法である。
金貨 二十円、十円、五円
銀貨 五十銭、二十銭、十銭
白銅貨 五銭
青銅貨 一銭、五厘
省2
459: ブログ転載 2024/11/14(木)13:14 AAS
(三)通信交通の機関が備わる
維新以来、通信交通が進歩したことは既に述べた。その後の発展はまた著しく、鉄道においては私設のものも各地に敷かれたが、明治三十九年に至り、その重なる鉄道を国有とするという制度をとり、後大正九年五月には特に鉄道省を新設して、これが管理に当たることとなった。今や延長一万マイルを突破し、昭和四年度における国有鉄道の機関車数は実に四千二百輌を越え、その収入は二億八千万円を数えている。
電車がはじめて我が国で経営されたのは、明治二十八年の京都市街電車、それから三十年名古屋市、三十二年横浜市と順次大都市から起こり、明治四十四年には三百六十九マイルとなったが、昭和元年には一千六十マイルに達し、その乗客数は十七億百六十万人を数える。
この他に地方鉄道に電化鉄道があり、昭和元年七百十一マイルに及んだ。
自動車は明治三十年頃、横浜在留の一外国人が米国からオリエント号という蒸気自動車を購入したのがはじめだというが、明治四十年になってもわずかに十一台に過ぎなかった。それが大正元年に五百二十台、三年に一千台、昭和元年には四万七十台、昭和七年七万台というように発達している。
また乗り合い自動車の営業マイル数は四万マイルを越え、ガソリン臭がすべての交通機関を圧倒しようとしている。
交通の発達と共に郵便も発達をなし、昭和二年内国通常郵便引き受け数は四十八億六千万通、人口一人あたり七十九通、一戸一日につき一通よりも少し多い程になっている。
電信は次第に多く用いられるようになったことは言うまでもないが、無線電信(明治三十六年実用の確信を得た)によって万里の外とたちまち音信を取り交わし、また無線電話は明治四十年頃から研究したが、大正五年から実用に提供し、今日の盛況を見て、飛行機も、ようやく実用に提供されるに至った。
実に科学の進歩ははかりしれないと共に、社会がこの時から受ける便益は限りないであろう。
460: ブログ転載 2024/11/14(木)16:01 AAS
p294
(四)学芸大いに興る
明治二十年頃までは、ただ欧米文化の輸入に没頭した。しかしこの間常に、国体の大義を培えとか、我に還れとかいう日本主義を説く者もいた。加えると明治二十二年憲法発布があり、二十三年教育勅語の御下賜があり、こうして二十年頃から二十七八年頃までは、むしろ国粋保存の色彩が強かったが、二十七八年戦役から三十七八年頃まではようやく自覚期に入り、洋学も国粋保存も、各その所を得て、文化は大いに興り、外国人が研究視察に来る者もまた少なくなかった。三十七八年日露戦後においては次第に自由に発展し、西洋文明の弊害も現れてきた時である。
こうした時代を背景として、学術も文芸も盛んになったわけであるが、学者の研究で欧米をしのぐものをあげてみるならば、二十七年コレラ血清療法を発表した北里柴三郎、大正十三年発疹チブス菌を発見した草間滋、その他青山胤通の医学、明治三十五年いわゆるZ項を発見した木村栄、その他平山信の天文学、明治三十六年原子構造論を発表し、大正十三年水銀から金を得た長岡半次郎、その他物理学の田中館愛橘、工業科学の高峯譲吉、地震学の大森房吉、東洋哲学の井上哲次郎、仏教哲学の井上円了、東洋史の那珂通世、国史の重野安釋など、碩学を多く排出して、もはや今日においては世界の学会に頭角を表し、受けることの多かった時代から、一転して与えることが多い文化国となりつつある。
文芸の方面では明治三十年頃の正岡子規をあげなければならない。子規は伊予松山の人、芭蕉の禅味ある雄大に加えるのに蕪村の豊艶の趣味をもって、独自の境地を開いて、俳句を改造した。
鶯の 湯殿覗くや 春の雨 子規
〔鶯が風呂を覗いているなあ春の雨の中で〕
雲の峯 水なき川を 渡りけり 同
〔山の峯のように高くそびえ立つ入道雲は暑くて水のない川を渡ったことよ〕
赤蜻蛉 筑波に雲も なかりけり 同
省5
461: ブログ転載 2024/11/14(木)16:20 AAS
p295
小説の方では明治十八年坪内逍遙の「小説神髄」によって写実を主とする小説が現れた。逍遙の「当世書生気質」はいうまでもなく、二十年に出した長谷川二葉亭の「浮雲」もそれである。二葉亭は言文一致の先祖といってもよい。
この新気運に乗って頭角を表した者に、尾崎紅葉・幸田露伴がいる。紅葉は東京の人、文章は西鶴に基づき、描写の態度は写実の脈を追ったものが多かった。二十六年の「伽羅枕」及び「心の闇」は代表作である。晩年には「金色夜叉」をも出した。露伴も東京の人、紅葉と同じく文章は西鶴に基づき、描写の態度も写実であったが、紅葉の客観的であったのに対してこれは主観的で、その構想の内には余程理想を加えたところがあったようである。明治二十五年に「五重塔」を出している。これらの人の態度には、固有のものに基づきながら新しいものを摂取し、己において融合して、独自の創作を出したところがあらわれている。明治における自覚期の作として相応しいものである。
462: ブログ転載 2024/11/14(木)16:21 AAS
次に西洋文学の翻訳紹介に功があったのは、坪内逍遙・森鴎外などであるが、逍遙は特にシェイクスピアを紹介し、鴎外は主としてドイツ文学を翻訳した。
夏目漱石は英文学から出て、独自の天分をもって巧妙に心理描写を行い、「吾輩は猫である」を出したのは三十八年であった。
この写実主義の文芸から、やがて三十一年頃から日露戦争の終わる頃までは、個人的自覚が主となって、センチメンタルな方向に赴いてロマンチシズムを宣伝する力となった。詩歌の方がロマンチシズムの思想を守るのに適していたのだろう。
次いで三十六年前後から動きかけていた自然主義的傾向の作品が日露戦争の終わり頃から盛んになり、小杉天外・永井荷風・国木田独歩・田山花袋・島崎藤村などの先駆者を出した。
463: ブログ転載 2024/11/14(木)16:21 AAS
活動写真は明治二十九年神戸や東京で、米国エジソンの発明に関係する覗き眼鏡キネトスコープの紹介があり、次第に盛んとなり、民衆娯楽には欠けてはならないものとなった。
こうして新旧は互いに交わって日本の文化は発展をしたものである。
※キネトスコープ=映画観賞装置
464: 2024/11/14(木)17:06 AAS
好色五人男などを著した井原西鶴は古い文壇を壊した新進気鋭の句風で「オランダ流」「オランダ西鶴」と陰口を叩かれたが、本人は気に入って自分でもオランダ流の言葉を使っていた。
西鶴の著作の登場人物は金が好きらしい。本人も金儲けを肯定しているようだ。
オランダ流とは新しいものという意味だけしかないのだろうか。
そのままオランダのやり方、みたいな意味で使われてはいないんだろうか。
大本教の出口王仁三郎は円山応挙の子孫という。円山応挙にはオランダ人の血が入っているという噂。
何が言いたいかというと、文学でも絵画でも江戸時代からの日本のものを否定し、西洋の写実主義をあがめて日本文化を捨てた明治時代。
坪内逍遙が八犬伝を人間じゃないと否定して、写実文学を書いた露伴や紅葉が、わざわざ西鶴風文体を用いたのには西洋との関わりがあるのか?
夏目漱石が千円札になったのは英文学の紹介に一役買ったからだろう。
465: 2024/11/14(木)18:54 AAS
ボストン美術館が“至宝の絵巻”を所蔵するワケ〈誰が「国宝」を流出させたか〉
2018年08月18日
外部リンク:www.dailyshincho.jp
466: 2024/11/14(木)20:07 AAS
うちの犬の名前をヒロヒコに改名するか…
467: ブログ転載 2024/11/14(木)20:07 AAS
p297
(五)美術工芸発達する
明治二十年頃ともなれば日本画も西洋画も各その所を得て発達するようになったことは前に述べた。
絵画は明治二十八九年頃から急速な進歩をなし、京都で開かれた第四回勧業博覧会には、画家は各大作を発表し、この時から日本画も西洋画も進歩して、日本画には日本画協会が起こり、西洋画には白馬会が起こった。しかも日本画が洋画の長所を参考して新しい画風を開く者もあり、西洋画が日本化する傾向も現れた。また明治四十年から政府の事業として文部省美術展覧会を毎年一回開き、大正七年まで都合十二回開かれた。翌年からは帝国美術院となり、大正十二年を除いては毎年開かれてきた。
民間の展覧会としては、日本画を主とした日本美術院、西洋画の二科会、春陽会・太平洋画会などがあり、日本画にして西洋画の傾向をもつ図画創作協会ができるなど、美術国として将来に期するところがある。
画家の方で芳崖や雅邦の復古的復旧は前に述べたが、文人画の直入、円山派の森寛斎・山本春挙、四條派の幸野楳嶺、その門人竹内栖鳳・上村松園なども有名である。雅邦の門人に寺崎広業・川合玉章の大家がいる。二十一年にできた美術学校では、雅邦や広業の指導によって第一期卒業生横山大観、第二期卒業生下村観山は出藍の誉れがあった。また西洋画家の方で、フランス国に留学していた黒田清輝、久米桂一郎の二人は帰朝した頃、明治二十九年に美術学校西洋画科が新たにおかれたから、二人は教授となった。二人は帰朝の後、日本美術にもよいところがあると言って感心したものであるが、清輝の画は挿絵にもあり、また「昔語り」は小督昔語りをあらわしたもので、清輝帰朝後の大作であると共に苦心の代表作であり、想においても深いものがある。次いで和田英作・岡田三郎助もフランス国から帰って美術学校で教鞭をとり新進を導いた。
この他川上冬崖の門に高橋由一・五姓田芳柳・山本芳翠・松岡寿があり、国沢新九郎の門に、浅井忠・本多錦吉郎・守住勇魚などあり、原直次郎の門に和田英作・三宅克己・木下藤次郎などあり、小山正太郎の門下に中村不折・満谷国四郎がいる。多士済々という様で、この時から美の本質を狙って新進大家がむらがり出て今日に至ったのである。
468(1): ブログ転載 2024/11/15(金)15:35 AAS
p298
彫刻の方は偶像彫刻も時代に合わないし、迷ったもののようであるが、唯一の活路は横浜開港であった。横浜が開港されると、欧米人が好奇心から、我が国の彫刻を求めるようになり、したがって我が国では各種の小彫刻があらわれた。明治十年頃まではこれ位のことで、大きな発展もなかった。明治十年の第一回勧業博覧会には象牙彫刻という新しいものが出て、十四年の第二回博覧会には、会場が雪が降ったように白く見える程であった。また我が国特有の木彫りも復興し、仏像彫刻その他に妙技をふるった高村光雲がいる。光雲の「鹿」が挿絵に出ているから、その解説において光雲を詳述する。光雲と共に竹村久一がいる。光雲の門下に米原雲海・山崎朝雲がいて名高い。
牙調家で木彫りを兼ねた人に石川光明がいた。明治三十年頃から西洋風の彫刻も行われ、材料としては大理石・銅・石膏を用いるようになり、朝倉文夫・北村四海などの名工が出ている。
建築方面では西洋建築がはじまったことは特筆すべきことであろう。明治三年龍の口に煉瓦造りが出来、五年に銀座改築、六年に工学寮ができた。この頃はまだ和洋折衷という方であったが、明治七年工部省が出来て、西洋建築の主なるものは外人の設計により、遊就館とか東大文学部本館とかが出来た。
その後ようやく日本建築家の手によって設計が出来るようになり、二十一年には東大工学部本館が辰野金吾博士によって設計された。博士は工科大学の前身である工部大学造家学科の第一回卒業生で明治十二年十一月に卒業した人である。博士の設計に関わるものはその他にも多数ある。同期の卒業生は片山博士と共に四名いたが、片山博士が二十七年設計されたものに奈良博物館がある。その後続いて邦人建築家が出て、主としてルネッサンス式の洋式建築が出来、近時丸の内ビルディングのように米国式四角な建物も出来るようになった。
この石材アーチ式の洋建築の中にあって、木造式の日本建築もまた失われないで二十五年工部大学卒業の伊東忠太を始めとし、塚本靖・関野貞その他によって古建築の真価をあきらかにし、これが修理を行うようになった。大正九年に出来た明治神宮は伊東博士の設計で千古不易の国民精神の表徴している。
その他染め織の術・陶器・漆器の製作など、いずれも洋風をいれて精妙を競うようになった。
469: 2024/11/15(金)15:54 AAS
>>468
明治維新・廃仏毀釈で日本の貴重な文化財が流出、もう戻らない
2017.08.29
外部リンク[html]:www.news-postseven.com
「流出した日本美術の至宝」書評 海外の評価加わり、より豊かに
外部リンク:book.asahi.com
「モース、フェロノサ、ビゲローの収集家3人は、ボストンを世界一の日本美術コレクションの拠点にするという明確な意図のもとに収集を始める。
流出には日本人も加担していた。山中定次郎と林忠正の2人の美術商。醜聞で野に下った岡倉天心もボストンに美術品を持ち出す。」
※この本の作者は美術品を海外流出させた方が知名度が上がるから得策という考え方の人間。アメリカ人とその手先になった日本人を擁護して、流出を功績として評価している風潮は今も続いている。
470: ブログ転載 2024/11/15(金)21:58 AAS
p300
(六)国費の膨張
こうして文化は短い月日の間に、驚くべき進歩をとげたが、近年、国費を必要とすることが多く、我が国の財政は年ごとに膨張し、明治二十三年予算は八千万円であったものが、明治三十八年は二億二千万円となり、国債もにわかに増して20億円を越えた。これは日露戦争に十七億も使って、戦争の結果償金は手に入らず、したがって大部分は国債として残ったからである。
しかも戦勝に誇った国民は、戦時から次第に起こった各種工業の好景気に煽られて、それが奢侈遊情におもむき、浮華の風は社会にみなぎろうとするというおそれがある。極端な現実主義、自然主義が風をなそうとしたので、天皇は深くこれを憂いなさって、四十一年十月十三日戊申詔書を下して、忠実に業〔※仕事〕に服し、勤勉倹約に産〔※仕事〕を治め、華を去り実に就き、荒怠はいさめて国運の発展につとめるべきことを諭しなさった。
471: 2024/11/15(金)22:00 AAS
賠償金がとれなくて日比谷で暴動まで起こったくせに国民には戦争に行けとか仕事をしろとかコキ使いまくり
472: ブログ転載 2024/11/16(土)07:53 AAS
p300
(七)博愛慈善事業起こる
日露戦争の後一方には生活難にくるしむ者もいたので、明治天皇はおそれ多くも貧民の施薬救済のたすけとして、御手許金百五十万円を下賜された。首相桂太郎は聖旨を奉じて、この御下賜をもととし、全国から二千三百万円以上の寄付金を集め、明治四十四年済生会を創立した。明治天皇の御救済を賜ったことは、この他にも度々あったが、昭憲皇太后もまた慈愛の御心は特に深くおありになり、常に救護事業を保護しなさった。
このために民間にも博愛慈善の事業が多く起こり、明治十年元老院議官佐竹常民・大給恒(おぎゅうゆずる)などによって赤十字事業は開始され、十九年ゼネバ条約に加入して日本赤十字社の基礎を固め、その後三十四年に至り、奥村五百子などは愛国婦人会を組織して、戦病死者の遺族の救護などに尽くした。
その他明治五年創立の東京市養育院・東京府巣鴨病院・福田会育児院・東京慈恵会医院・東京感化院・岡山孤児院・帝国水難救済会・滝の川学園・慰廃院・日本救世軍・熊本回春病院・東京育成園・出獄人保護所・家庭学校・東京養老院・三井慈善院・東京市施療病院・東京市職業紹介所など著名なものであり、明治四十四年十二月末調査によれば慈善事業数五四八、被救済人員二八五七二七八人である。今や失業救済のための職業紹介所、無料宿泊所、無料療養所などの施設は多くなり、不幸な同胞を救済するという道は次第に備わって来た。
473: ブログ転載 2024/11/16(土)12:36 AAS
p301
学習参考
(1)挿絵解説
「黒田清輝の画」は前田侯爵家所蔵の「夜業」という油絵である。色彩がないのは実に遺憾である。清輝は明治十七年にフランス国に留学し、二十六年に帰朝した。久米桂一郎と共に美術界に新鮮味を見せたものである。明治二十九年東京美術学校に洋画科が新設されるや、二人は教授になった。
「高村光雲の作」は宮内省の蔵品で、御依頼によって献じたものである。光雲は明治の初年、世をあげて旧習打破にかかった時、仏師東雲の店でこつこつ仕事をしている一職人に過ぎなかった。当時は有名な本所さざえ堂の観音像が、その金箔の地金として売り払われるという時で、光雲がかけつけて、その中の逸品五体を一円八十銭で買い取ったことがある。このような不遇の間にも、彼は辛抱強く、好きな道に精進したのが後年世に現れるに至った基となったもので、彼は竹村久一と共に日本彫刻の代表的作家であった。彼は仏像彫刻にその技を発揮したが、それだけでは時代に合わないので、取材の範囲を極めて広くした。彼は写真を取り入れて、ついに一家をなしたのである。挿絵によって日本彫刻を知らせるばかりでなく、西洋の写実主義による彫刻との調和も味あわせる。年輪を利用して毛に見せ、その形といい気品といい、たしかに逸品である。
「皇后東京慈恵医院に行啓しなさる」絵は、聖徳記念絵画館画題考証図五姓田芳柳筆によったもの、この病院は明治十五年高木兼寛はこれを建て、皇室恩賜金及び有志の寄付金をもって維持し、貧困病者の施療を行ったが、その開業式に行啓された時の写真がもとになっている。今看護婦に抱き起こされた子供が、女官から皇后のお見舞い品玩具を受け取ろうとしているところ、皇后の側にいるのは院長高木兼寛である。皇后はこの時色々と見舞いの言葉を賜り、かつ見舞いの品まで賜った。皇后の御仁恵・御高徳を景仰し申し上げなければならない。
474: ブログ転載 2024/11/16(土)13:04 AAS
p303
(2)指導要領
この教材などは高等科独自のもので、少し時間を余計にかけても、詳しく取り扱っておきたいものと思う。
各種文化の内容、その発展経路をわからせるばかりでなく、その奥底を流れる思想の体勢を掴ませ、これを善導して、将来の児童を導かなければならないと考える。結局は「世界文化に貢献できる日本独自文化の創造」ということを展望させたいものである。
国防と平和、物質と精神、自然科学と精神科学、現実主義と理想主義、写実主義と観念主義、個人主義と協調主義、洋と和、外来と固有、これら相対する生活を一元に繋ぐ新しい生活を発見させるところに、この教材取り扱いの要点があるように思う。
取り扱いとしてはまず郷土の文化現象に着眼させる。その他の環境の力をも使って現生文化史的考察に遡ればそれでよい。この考えで指導していけば、現在及び将来とかけ離れることはなかろう。労作的に取り扱う部分も甚だ多い。いつも児童自ら何をなすかに注意を払うことが極めて大切である。
475: 2024/11/16(土)15:33 AAS
p304
第五十六 明治天皇の崩御 大正天皇の即位
学習目的
明治天皇及び昭憲皇太后の崩御につきわからせ、御霊徳を偲び申し上げ、皇室に対する国民意識を喚起し、大正天皇の践祚と即位を学習して国体観念を強め、国運の無窮と国民の幸福を認識させる。
学習事項
(一)明治天皇崩じなさる
省6
476: ブログ転載 2024/11/16(土)16:10 AAS
p305
(三)明治天皇の御大葬
八月二十四日先帝に御追号を奉って明治天皇と申す。ついで九月十三日御大葬の儀を行わせ、午後七時三十分、天皇の御霊柩は宮城をおいでなさり、青山練兵場に設けた葬場殿に安置、列国の元首から遣わされた名代の皇族または特派使節も参列して、ここに荘厳な祭典が行われ、天皇は御霊前に進んで御誄詞を奏上させなさった。その翌十四日午前二時霊柩は列車移御、青山仮停車場を出発し、同日午後五時十分桃山仮停車場に着き御遊ばせ、十五日午前九時十五分悲雨降りしきるうちに、御斂葬のことは完全に終わった。御陵は伏見桃山の陵と申し上げる。
我が国は神武天皇から孝元天皇までは陵制といって定まってはいなかったが、開化天皇から敏達天皇までは前方後円の陵制であった。用明天皇以後はいわゆる円墳であったが、持統天皇より御火葬の儀がはじまり、平安時代に入って盛んとなり、陵制はもとのようではなかった。明治天皇が孝明天皇の陵を営まれるのに当たり、円墳に復古しなさった。後月輪東山陵はこれである。今度の明治天皇御陵は上円三段下方三段であるから、いわば上代の前方後円を上下に、すなわち立体的に組み合わせた意味にもなるから、古制に則って、新味を付せられたように拝される。ちなみに大正天皇多摩陵もこの式である。
伏見桃山陵の上円部表面は全部礫石でふかれ、これは瀬戸内海小豆島海岸より採集した光輝がある黒花崗石で、崇高森厳はいうばかりでもない。
(四)昭憲皇太后崩じなさる
国民は明治天皇崩御後一年間の喪に服した。この期間を諒闇というが、その間左胸に蝶形の黒布の喪章をつけて謹慎した。
そのうち先帝哀慕の涙がいまだ乾かないのに、大正三年四月十一日昭憲皇太后がまた崩御におなりになった。皇太后はかねて慢性気管支カタル及び腎臓炎の御疾患があったが、大正三年三月二十六日午後二時、沼津御用邸において、俄然強度の狭心症を発症され、以来御静養におありになられたが、四月九日再び激烈な狭心症を起こされなさり、十日東京に還啓、十一日午後二時十分心臓麻痺で赤坂御所に崩御におなりになられたのである。御年六十五でいらっしゃった。
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