【日本史】GHQに焚書された書籍 (542レス)
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86: [sage] 2024/09/16(月) 05:53:15.52 p70(三)数多の漢学者現れる 道春と時を同じくして近江高島郡小川村に中江藤樹がいる。若いとき伊予の大洲藩に仕えたが、老母を一人郷里にとどめておくのに忍びず、寛永二年職をやめて帰り、母に孝養を尽くすかたわら、私塾を開いて門人を教えた。 藤樹の学は陽明学で知行合一を中心とした。徳行を使って感化を四方に及ぼし、近江聖人と称された。慶安元年四十一で没した。 門人のうち熊沢蕃山がもっとも著われる。蕃山は寛永十一年、備前の池田光政に仕えて国政に預かり、水利・産業に功があり、名声は天下に聞こえたが、明暦三年仕を辞して、京に出て学を講義した。陽明学を極め、経世済民の識はすぐれ、国典・和歌・音楽にも通じ、貞享四年上書して時事を論じ、幕府に関することで下総古河に幽閉された。元禄三年七十三で没した。 京都では寛文元年家綱の頃、伊藤仁斎は論孟二書によって古学を唱えた。門下二千人以上、寛永二年七十九で卒し、五子皆池学を受け、ことさらに長子の東涯は恭謙博学よく家学を大成した。 東涯と同時に江戸に荻生徂徠がいる。本姓は物部氏であったから、その一字を取り支那流に物徂徠とも物茂卿ともいった。 朱子学から古学に転じた人で、自ら「熊沢の知と、伊藤の行、それだけではなく私の学をもってするならば、すなわち東海から始めて一聖人が出るだろう。」と豪語した。門下に太宰春台や服部南郭などのような有名な人が多い。享保十三年六十三で没した。 木下順庵は京都の人、藤原惺窩の門人、松長昌三(尺五)の門から出て、後に将軍綱吉に登用された。程朱の学を固守し、学徳共に高く、詩に秀で、よく人材を養った。新井白石、室鳩巣、貝原益軒など木門の人は甚だ多い。 新井白石については尋小国史に出たのでここに略し、室鳩巣は江戸の人、幼くして加賀候に仕え、命令を受けて木門に学び、かえって金沢で学生を教授した。後に吉宗の侍読になった。駿河台にいたから駿台先生といい、赤穂義人録・六諭義は彼の著である。 ※東海=日本の異称 ※木門=木下順庵の門流 http://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1725662547/86
三数多の漢学者現れる 道春と時を同じくして近江高島郡小川村に中江藤樹がいる若いとき伊予の大洲藩に仕えたが老母を一人郷里にとどめておくのに忍びず寛永二年職をやめて帰り母に孝養を尽くすかたわら私塾を開いて門人を教えた 藤樹の学は陽明学で知行合一を中心とした徳行を使って感化を四方に及ぼし近江聖人と称された慶安元年四十一で没した 門人のうち熊沢蕃山がもっとも著われる蕃山は寛永十一年備前の池田光政に仕えて国政に預かり水利産業に功があり名声は天下に聞こえたが明暦三年仕を辞して京に出て学を講義した陽明学を極め経世済民の識はすぐれ国典和歌音楽にも通じ貞享四年上書して時事を論じ幕府に関することで下総古河に幽閉された元禄三年七十三で没した 京都では寛文元年家綱の頃伊藤仁斎は論孟二書によって古学を唱えた門下二千人以上寛永二年七十九で卒し五子皆池学を受けことさらに長子の東涯は恭謙博学よく家学を大成した 東涯と同時に江戸に荻生がいる本姓は物部氏であったからその一字を取り支那流に物とも物茂卿ともいった 朱子学から古学に転じた人で自ら熊沢の知と伊藤の行それだけではなく私の学をもってするならばすなわち東海から始めて一聖人が出るだろうと豪語した門下に太宰春台や服部南郭などのような有名な人が多い享保十三年六十三で没した 木下順庵は京都の人藤原の門人松長昌三尺五の門から出て後に将軍綱吉に登用された程朱の学を固守し学徳共に高く詩に秀でよく人材を養った新井白石室鳩巣貝原益軒など木門の人は甚だ多い 新井白石については尋小国史に出たのでここに略し室鳩巣は江戸の人幼くして加賀候に仕え命令を受けて木門に学びかえって金沢で学生を教授した後に吉宗の侍読になった駿河台にいたから駿台先生といい赤穂義人録六諭義は彼の著である 東海日本の異称 木門木下順庵の門流
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