【日本史】GHQに焚書された書籍 (542レス)
上下前次1-新
66: 2024/09/13(金)20:31 AAS
ブレスケンス号とその姉妹船カストリクム号(マールテン・ゲリッツ・フリース指揮)は、オランダ領東インド総督アントニオ・ファン・ディーメンの命令で、日本沖の北東のどこかにあると言われていた金銀諸島の探索に派遣された。また、北アジアへの航路の調査も予定されていた。1643年6月、嵐でカストリクム号から引き離されたブレスケンス号は、本州北東部の南部領山田湾に入った。新鮮な水と食料を探している間、シェープ船長率いる10人の船員が捕らえられ、藩都の盛岡に連行された。彼らは後に江戸に送られた。ブレスケンス船員にとって不幸なことに、日本に侵入しようとしていた4人のイエズス会士のグループが、ほぼ同じ時期に日本の別の場所で捕らえられていた。その結果、幕府は海岸防衛の問題を非常に心配していた。しかし、船員がカトリック教徒ではなくオランダ人であることが判明した後、幕府の不安は和らぎ、解決すべき問題は、どのような手順でオランダ人を解放するかを決定することとなった。[7]
Coyett's superiors in Batavia considered his service as Opperhoofd satisfactory. He was able to maintain an optimal diplomatic stance vis--vis the bakufu in the face of several difficulties and provocations. His status was also enhanced when he and his brother Peter Julius were ennobled by Queen Christina of Sweden in 1649.[8]
バタヴィアのコイエットの上官たちは、彼の幕府守護者としての働きを満足のいくものとみなしていた。彼は、数々の困難や挑発に直面しながらも、幕府に対して最適な外交的立場を維持することができた。1649年に彼と弟のピーター・ユリウスがスウェーデン女王クリスティーナによって貴族に叙せられたことで、彼の地位も向上した。[8
67(1): 2024/09/13(金)20:54 AAS
初代〜四代目の順番は違っていて、代表的なオランダ商館長を記載していた。
イサーク・ティチング
外部リンク:en.m.wikipedia.org
Japan, 17791784
Titsingh was the commercial opperhoofd, or chief factor, in Japan from 1779 to 1780, from 1781 to 1783, and again in 1784. The singular importance of the head of the VOC in Japan during this period was enhanced by the Japanese policy of Sakoku, the self-imposed isolation of Japan that lasted from 1633 to 1853.[5] Because of religious proselytizing by Europeans during the 16th century, the Tokugawa shogunate introduced a policy in the early 17th century that no European or Japanese could enter or leave the Japanese archipelago on penalty of death. The sole exception to this \"closed door\" was the VOC \"factory\" (trading post) on the island of Dejima in Nagasaki Bay, on the southern Japanese island of Ky??sh??. During this period of seclusion, Titsingh is believed to have been the first Freemason in Japan.[6]
ティツィン氏は1779年から1780年、1781年から1783年、そして1784年に日本における商業の責任者、つまり最高責任者であった。この時期の日本における東インド会社の長の並外れた重要性は、1633年から1853年まで続いた日本の鎖国政策、すなわち日本が自ら課した鎖国政策によってさらに高まった。[5] 16世紀のヨーロッパ人による宗教的布教のため、徳川幕府は17世紀初頭に、ヨーロッパ人や日本人が日本列島に出入りすることに違反すれば死刑に処するという政策を導入した。この「鎖国」の唯一の例外は日本南部の九州にある長崎湾の出島にあった東インド会社の工場(交易所)であった。この鎖国時代にティチングは日本で最初のフリーメイソンであったと考えられている。
68: 2024/09/13(金)20:55 AAS
In this highly controlled context, the traders became the sole official conduit for trade and for scientific-cultural exchanges between Europe and Japan. The VOC opperhoofd was accorded the status of a tributary of the shogun; Titsingh twice had to pay an obligatory annual visit of homage to the shogun in Edo. Given the scarcity of such opportunities, Titsingh's informal contacts with bakufu officials of Rangaku scholars in Edo may have been as important as his formal audiences with the shogun, Tokugawa Ieharu.[7]
この厳重に管理された状況下で、貿易商はヨーロッパと日本の間の貿易と科学文化交流の唯一の公式な仲介者となった。東方貿易商は将軍の貢物という地位を与えられ、ティチングは江戸の将軍に2度、義務的な年次訪問をしなければならなかった。そのような機会がほとんどなかったことを考えると、ティチングが江戸で幕府の役人や蘭学者と非公式に接触したことは、将軍徳川家治との正式な謁見と同じくらい重要だったかもしれない。[7]
During the 18th century there was an improvement of the social position of the Dutch merchants and the treatment of the Dutch vis--vis the Japanese, who showed a higher degree of respect and recognition than in the centuries before.[8] Nevertheless, the average opperhoofd was not interested in the customs or culture of the Japanese. Titsingh showed an almost incredible interest and distinguished himself as an attentive observer of Japanese civilization for a European of his time when compared to his colleagues in Dejima.[9] Titsingh arrived in Nagasaki on 15 August 1779, where he took over the factory from Arend Willem Feith. He established cordial and amicable relations between the interpreters and Japanese; before his arrival there had been constant fights over trade issues and a deep hostility towards the Japanese interpreter, who seemed in trade issues corrupt to the Dutch traders.
69: 2024/09/13(金)20:56 AAS
During his first audience with Ieharu in Edo from 25 March 1780 until 5 April 1780, he met a lot of Japanese daimyo with whom he later established vivid letter correspondence. He became incredibly prominent within the elite society of Edo and became friends with several current and retired daimyo of the area.
18世紀には、オランダ商人の社会的地位が向上し、日本人に対するオランダ人の待遇も改善され、それ以前の数世紀に比べて日本人はオランダ人に対してより高い敬意と認識を示すようになった。[8] しかし、平均的な商人は日本人の習慣や文化に興味を持っていなかった。ティッチングは、出島の同僚たちと比べても、当時のヨーロッパ人としては信じられないほどの関心を示し、日本文明の注意深い観察者として際立っていた。[9] ティッチングは1779年8月15日に長崎に到着し、アーレンド・ウィレム・ファイトから工場を引き継いだ。彼は通訳と日本人の間に心のこもった友好的な関係を築いた。彼が到着する前は、貿易問題をめぐる争いが絶えず、日本人通訳は貿易問題でオランダ商人にとって腐敗しているように見えたため、彼らに対する強い敵意があった。 1780年3月25日から4月5日まで江戸で家治に初めて謁見した際、彼は多くの日本の大名と会い、後に彼らと活発な手紙のやり取りを交わした。彼は江戸のエリート社会で非常に目立つ存在となり、この地域の現役および引退した大名数人と友人になった[10]
After a short return to Batavia in 1780, Titsingh returned to Nagasaki on 12 August 1781, due to his successes with the Dutch-Japanese trade in Dejima.[11] There were no Dutch shipments from Batavia in 1782 due to the Fourth Anglo-Dutch War and thus the trading post in Dejima was cut off from communication with Java during this year. In this year Titsingh stayed in his position as opperhoofd and concerned himself with befriending Japanese scholars, deepening relations with Japanese friends and researching on all scopes of Japanese customs and culture. He also achieved, due to the absence of Dutch shipping that year, important trade talks and great concessions with the Japanese on a long-debated increase to copper exports from Japan to the Dutch traders.[12]
70: 2024/09/13(金)20:56 AAS
1780 年にバタビアに短期間戻った後、ティッチングは出島でのオランダと日本の貿易で成功を収め、1781 年 8 月 12 日に長崎に戻った。[11] 1782 年には第四次英蘭戦争のためバタビアからのオランダ船の輸送がなく、この年は出島の商館とジャワとの連絡が途絶えた。この年、ティッチングは商館長の地位に留まり、日本の学者と親交を深め、日本の友人との関係を深め、日本の習慣や文化のあらゆる側面を研究した。また、この年はオランダ船が来なかったため、重要な貿易交渉が成立し、日本からオランダ商人への銅輸出量の増加について日本との大きな譲歩も果たした。
Titsingh stayed a total of three years and eight months in Japan before finally leaving Nagasaki at the end of November 1784 to return to Batavia, where he arrived on 3 January 1785.[13]
ティチングは合計3年8ヶ月間日本に滞在し、1784年11月末に長崎を離れ、1785年1月3日にバタビアに到着した。
71: 2024/09/13(金)21:06 AAS
近代日本史板のフリーメーソンスレにも書いたけれど、このオランダ商館長フリーメーソンのイサーク・ティチングが、島津重豪と文通して幕府の機密を聞き出していたスパイで、田沼意次の息子がしようとしていた?日本開国計画も知っていた。
この時代に世界貿易を賭けてヨーロッパは戦っていてイギリスはオランダに負けたけれども、バテレンが日本占領しようとしてたという密告をしたオランダ人は、ただ単に日本での権益や支配権をポルトガル・スペインから奪い取りたくて自演したのかと疑っている個人的感想。
72: 2024/09/13(金)21:11 AAS
幕府は銅の海外流出に悩んでいて、吉宗や松平定信も規制していたのにティチングめ
73: 2024/09/13(金)22:03 AAS
>>47
銀子が丁銀だというので、丁銀1つ43匁。
100枚で4300匁。江戸初期、金一両=銀50匁なので、金86両と同じ。
金一両=10万円として換算すると860万円!?
74(1): 2024/09/14(土)06:42 AAS
p62(五)洋書の輸入途絶える
幕府はまた、寛永七年以来洋書の輸入をも禁じている。このためにキリスト教関係だけではなく天文・地理・歴数など、西洋学術に関する書籍の入る道が全く途絶え、国民は西洋の文明に遠ざかるようになった。
しかしオランダの船が長崎に来るや、その船長(当時外国船の船長を甲比丹(カピタン)といった)が江戸に赴き、将軍に謁見して欧州の大勢を報告した。オランダの使節は初めは毎年江戸に赴いたが、後には五年に一度となった。ただオランダ聞書というものは毎年幕府に奉った。
これらによって、ほそぼそながら外国文明の一部を輸入し、世界の事情の一端をも知ることができたことを考えなければならない。
(六)海外発展の気勢くじく
こうして我が国は戦国時代以来、海外に雄飛しようとした国民の進取の気象は大いにくじけ、ひいては我が国運の発展を害し、世界の進歩におくれたことは事実であろうが、一方では鎖国によって国内の統一を固くし、二百年にわたる太平を保ち、その間に土地を開き、産業を発達させ、学問技術を進め、教育を普及させ、日本的成長をなし、我が国民の実力を養うことができたとも見られるようである。
※オランダ商館長=カピタン
省4
75: 2024/09/14(土)07:41 AAS
日蘭交流の始まりはウィリアム・アダムス達が漂着した時に朱印状を渡したのが始まりで、朱印状を受けて東インド会社がやって来た。
外部リンク[html]:www.ndl.go.jp
76: 2024/09/14(土)09:00 AAS
>>59
オランダハーグの国立文書館に収蔵されている朱印状の訳
外部リンク[html]:www.osaka-c.ed.jp
77: 2024/09/14(土)09:10 AAS
江戸初期主な輸出品銀
後にオランダのみ輸出禁止に
中国とは継続
78: 2024/09/14(土)17:27 AAS
p63学習参考
(1)挿絵解説
「踏絵」は東京帝室博物館所蔵のひとつ、もとは長崎奉行所で使ったものによったのである。踏絵は寛永の初めに、長崎奉行水野守信が考え出したもので、初めは絵画であったが、後には木製となり銅製となった。木製は銅製よりも二、三寸大きいのが多い。
また木製板の中央に耶蘇関係を示した小図の銅板を嵌(は)め込んだのも多い。銅製には長方形のと楕円形のとあり、図面は聖母の他、キリストが十字架に刑された状など一様ではない。
挿絵の踏絵は真鍮製で、長さ六寸二分、幅四寸五分、厚さ七分七厘のもので、だいぶん使用したと見えて摩滅したところがある。
「長崎港の出島」は東京美術学校所蔵の当代の古い油絵によったもの、出島は、寛永十一年長崎の商人二十五人に命じて、海岸を埋め立てて扇形四千坪ばかりの土地に、四十四件の家を建てさせ、十三年に出来たので、南蛮人をここに置き、家賃をとって25名で分配した。寛永十八年には、南蛮人を追い払って、オランダ人を平戸の商館からここに移した。
石橋によって長崎の町と連絡しているが、番所があって奉行所の許可がなければ通行はできない。
79: 2024/09/15(日)07:38 AAS
p64
蘭館は二階建て洋館で、青・赤・白の横の三色旗が高くひるがえっていたが、この図には旗竿が見える。 港内の船はオランダや支那の船であろう。今日でも長崎市の出島町といってほぼ扇形をうかがうことができる。
「オランダ人将軍に謁す」の絵は、ケンベルの日本史からとったもの、ケンベルは元禄三年オランダの使節随行をした医師である。この図はオランダの使節が江戸城御三之間において謁見しているところをオランダ人が書いたものである。
オランダ人がいる間は、廊下より低い板の間で、立って舞っているのはケンベル、裃をつけて御簾の前に座っているのは大通詞横山三右衛門、その後がオランダ使節オートホルン、その後が使節の随員二人、大通詞の正面一段高いところに都合六人いて、手前の三人は若年寄、向こうの三人は老中である。廊下側には重臣その他大名が居並んでいて綱吉と御台所は御簾の中にいる。
(2)指導要領
キリスト教を厳禁したことから、キリスト教はよくないものだと考えさせてはならない。宗教は人間の追求止まない価値生活のひとつであることを知らせる。この頃のキリスト教も、このような試練を経て、日本的に発達したことを考えさせ、今日における我が国宗教のことを理解させるのがよい。また学習者の縁辺における宗教のことを了解させる。
よい悪いは別として島原の乱においてあれだけ強い力を信徒が発揮したところや、あらゆる血と生命を捧げて布教した宣教師の熱意などから、宗教の力というようなことも考えさせておきたい。
仏教が盛んになるに違いない非常によい環境にあったが、しかし盛んにもならなかった。宗教は自らの心が求める強い要求によって生じるものであることも注意する。
鎖国については十分な批判をさせるのがよい。国家と国際と文化との関係のようなものは、その批判から自ら解決されなければならない。結局は国際的国家の独自文化、それを展望させるのである。
批判的国史学者は常に真理である。
80(2): 2024/09/15(日)08:00 AAS
三跪九叩頭の礼にあるように銀獲得のために、おいおい相手国を支配するためならなんだってやる欧州人は、好意を持ってそうに見えても真意が見えないから信用できないのにやすやすとオランダ人を信用した幕府。
しかも互いの国を誹謗して他国を追い落とすけれど、開国時に各国と次々条約締結したようにいざとなれば連携バッチリなのは各国にユダヤ人がいるからなのか。
例えば、シーボルトの長男はオランダ人で、ロシア海軍の通訳になろうとして、結局在日英国公使館の通訳になり、不平等条約の最たるものとして知られる日墺修好通商航海条約協力の功によりオーストリア=ハンガリー帝国の男爵となり、維新後はお雇い外国人として40年明治政府に雇用されて井上馨の秘書として条約改正の任にあたって、不平等条約改正できた明治政府有能!みたいなプロバガンダになってるけどシーボルトが原因じゃんっていう。
「1522年(明の嘉靖元年)寧波に来舶して貿易を開いたポルトガル人は僅か二十年を経ずして居留地を追われ、逃れた厦門からも放逐された。以来ヨーロッパ人たちは武力による脅しの手段で中国との貿易を開こうと試みたが、幾度かの経験すべてが失敗に終わったため、中国皇帝の命令を甘受する方法に変更し目的を果たそうとした。1544年(明の嘉靖23年)以後、中国に来舶する欧州人たちは貿易による利益を求めて自国の名誉を棄て去り、ただ命令に従うに至った。彼らは互いに他国を誹謗して貶め、自国とだけ貿易を行うよう皇帝に懇願した[1]。その姿は、元来外国人を蛮夷視する習慣があった中国人をして、西洋人に対する傲慢心を益々増長させる原因ともなった。」
81(1): 2024/09/15(日)08:46 AAS
開国後を想定したオランダの通商条約草案は最後のカピタンのクルティウスやシーボルトが起草したもので、シーボルトって日本地図を国外持ち出してしょっぴかれたようにただの医者や植物学者ではない。間宮林蔵は有能。
外部リンク:ch.kanagawa-museum.jp
「当時、アメリカをはじめ日本との通商を望んだ国々が想定した貿易形態は、官による制限がない、民間人である商人の意思にもとづいて行われる自由貿易でした。しかし、この草案は、「鎖国」を始める関係以前に幕府がおこなっていた糸割符制度を彷彿とさせるような内容となっています【図1、図2、釈文】。この記載は資料の「第四、第六」ケ条を確認してみてください。実はこの草案の原文は、日本に滞在した経験があり、日本研究の第一人者として知られていたフランツ・フォン・シーボルトが起草したものでした。それを、商館長・クルティウスが修正を加え、草案としたのです。したがって、日本の法律に背かないことを前提としているのです。」
82(1): 2024/09/15(日)11:53 AAS
シーボルトは日本研究の第一人者とあるけれど、シーボルトが居ながらにして日本研究ができたのは、日本人の弟子にオランダ語で日本文化のレポートを提出をさせていたからで、この日本人の善意?を利用して情報を集める手法は現代でも受け継がれていて、5chでもくだらない雑談ニュース記事のスレで本音を出させてまだ家計に余裕ありそうだからと増税の目安になったり、大喜利とか言ってアイデア出させてパクっていったりしてると思う。
83: 2024/09/15(日)13:01 AAS
p65 第三十八 産業・学問の発達 元禄時代の文芸
学習目的
江戸時代の初期、綱吉頃に至るまでの産業ならびに学問の発達について本末式に学習し、併せて元禄時代の文芸を知らせ、当代文化の発展状態を会得させる。
学習事項
(一)交通・産業の発達
省10
84: 2024/09/15(日)15:16 AAS
p67
中山道は中仙道とも書き、江戸から京に至る別路で、約百三十七里十一町、草津で東海道に合し、六十九駅をおいた。
奥州街道は江戸から青森まで六十九次、日光街道は江戸から日光まで二十四次(江戸から宇都宮までは奥州街道と同じ)、甲州街道は江戸から甲府まで三十四次である。
水路は慶長中は角倉了似がいる。性格は工役を好み、家康に用いられて、丹波の保津川・駿河の富士川・信濃の天竜川・京都の加茂川を分流させた高瀬川などに水運の便を開き、さらに琵琶湖の疏水を計画したが果たせず没した。
また四代将軍家綱の頃、河村瑞賢が出て、治水や運輸航海の術に長じ、幕府の命を受けて大阪淀川の末流で常に氾濫して市民が害を蒙ったのを、川底にたまった土砂をすくいだして、名を安治川と改めてその害を除き、また寛文中は瑞賢が奥羽の官米輸送の命を受け、船と人を選び、見張りを厳かにし、難所には水先案内人や烽火を設け、奥州の米は荒浜から東海道を通って江戸へ送り、出羽の米は酒田を出て北海路により下関に出て、さらに瀬戸内海を通り、大阪に寄って江戸に着かせて以降、この両海路の発達が著しくなった。
なんでも従来は一年以上も費やした奥羽海路が、瑞賢の功績によって三ヶ月に短縮されたということである。
陸上水上の交通が開け、商業もようやく盛んになり、遠方と通信するという必要が起こってから、飛脚を業とする者が出てきた。飛脚にも色々と種類があって、幕府の公用に継飛脚というのがある。これは各駅で人馬を継ぎ代えて順送りにしたのである。
大名飛脚というのは、大名が江戸と国との間に設けたもので、尾・紀両家の七里飛脚がもっとも有名である。
町飛脚は、元和元年大阪城定番の諸士は、東海道の各駅長と相談し、その家隷をもって飛脚とし、毎月八の日をもって東海道を往復した三度飛脚にならって、大阪の商人が始めたもので、寛文三年には飛脚組合の創立を見、この時から各地に定飛脚を生じた。
寛文十一年大阪飛脚商などは江戸同業者と相談し、初めて両地商売の金銀順送りを行う。これを金飛脚というので、商取引の便を大にしたものである。
省2
85: 2024/09/15(日)16:56 AAS
p69(二)文教復興する
天正十八年、豊臣秀吉にしたがって小田原を攻略した時、諸将士は争って金銀財宝を争奪していた時に、独り古書・古記録ならびに文書を数多蒐集したというのは家康である。
武家法度や公家法度において「左文右武古之法也」と定めたのは家康である。
家康は戦国以来の殺伐な気風をただして太平を至すには、文教の力によらなければならないと考えたもので、慶長六年には伏見に円光寺という学校を建て、僧の三要を教授とした。
慶長七年には江戸城内に富士見文庫を建てて、金沢文庫の書物をはじめ古書を四方から集めてこれを保存した。
寛永十六年家光はこれを城内紅葉山に移して紅葉山文庫と改め、今日は内閣文庫となっている。
家康はまた足利学校の蔵書などを元として、木製活字により孔子家語・周易・群書治要・六韜三略・武経七書などを上梓し、後に幕府において、銅の活字を用い、大蔵一覧集・吾妻鏡などを刊行した。世に幕府版というのはこれである。
家康が文禄の役で秀吉に従って名護屋にいた時、陣中に京都の儒者、藤原惺窩を召して書を講義させた。関ケ原の役の後、また招こうとしたが惺窩は辞退して出ない。よって慶長十三年惺窩の高弟、林羅山は駿府において家康の侍読となる。以後幕府の学者となり家綱に至る。子孫はこの職を相継いだ。林家の学は宗の朱子学である。
京都の学者はこれを非として、幕府に朱子学を中止するように願ったが、家康は、人倫の道は自由に講義するのが相応しいと言って、ついに朱子学を幕府の学としたのである。
五代将軍綱吉は、母桂昌院が何よりも学問を勧めたので、幼いときから、並々の人が及ばないほどであったという。将軍となった後も、自ら書を殿中で講義して、あるいは自ら大名の邸宅に至って開講するという熱心さで、おおよそ歴代将軍中、学を好んでいる点においては綱吉の右に出る者はいないであろう。
省4
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