【日本史】GHQに焚書された書籍 (533レス)
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173: 日本@名無史さん [sage] 2024/09/28(土) 22:46:55.17 p142(2)指導要領 外交にしても、文化にしても、ともかく一つの発展経路を辿っている。それをこの教材から汲みとらせなければならない。 攘夷と開港はその論者の立場やその動機がよってくるところを明らかにし、尊皇攘夷・尊皇開港・佐幕攘夷・佐幕開港というように意見が分かれるから、それらを十分に批判していかなければならない。 要は海外関係を巧みに処置しながら、倒幕目的が達せられたならば最もよいのであるから、この方向に活動している人がよいというわけになる。 文化の方では西洋文明の長短を分からせると共に、日本文化のそれをも考えさせ、将来我が国の文化が向かうべきところを考察させるがよい。 この外交・文化共に現在に投影していることが甚だ多い。それらと連絡して、環境を整理し、学習を進めて、十分に判断を錬磨しなければならない。 こうした教材になると討議式学習は最も適当している。 なおこの教材と連絡して「国旗」についてやや詳細に学習し、国家的精神を深めておいた方がよいと思う。少し時間を余分に使って我が国古来の旗について、日章旗の由来、国旗の意味、日章旗の意味、国旗についての心得、世界国旗とそれに対する注意などを取り扱った方がよい。 我が国ではペリー来航によって大いに刺激される所があり、安政元年幕府は日章旗を国旗と定め、万延元年新見正興がアメリカに行った時に、はじめて堂々日章旗を翻して彼の国に行ったのであるが、彼の国人はその壮烈な意匠を見て驚嘆したというのである。 http://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1725662547/173
289: ブログ転載 [sage] 2024/10/10(木) 22:20:32.17 p197(二)いっぱんの政治思想進む 民選議院設立の建白書は採用するに至らなかったけれども、漸次その方向に展開していったことは事実である。 すなわち明治八年四月十四日には立憲政体を立てるという詔が出た。 朕は今誓文の意を拡充し、ここに元老院を設け立法の源を広め、大審員を置き審判の権をかたくし、また地方官を召集してもって民情を通じ公益を図り、漸次に国家立憲の政体を立て、なんじ多くの一般人と共にその慶びに頼ろうと欲する。なんじ多くの一般人はある者は旧にとどこおり、ゆえに慣れることなく、またある者は進むのに軽く、行うのに急なことはなく、そのよく朕の旨を心にとどめて守り翼賛するところあれ。 これには立法・司法・行政の三権分立を述べ、立憲政体という言葉が出ている。元老院はいわば一院制度の議院という観のものであった。これは国会開設まで続いたものである。 こうして明治八年には第一回地方官会議を東京に開いてこれを公開し、また、明治九年には天皇が元老院議長有栖川宮熾仁親王を宮中に召されて次のような詔を下された。 朕はここに建国の体に基づき広く海外各国の成法を斟酌し、もって国憲を定めようとする。なんじらはほどよくこれの草案を起草し聞かせよ。朕は後に選ぶとしよう。 これに続いて出た詔書は次のようである。 国憲創定は国家の重典千載の偉業である。なんじら励精事に従い、速やかに竣功を奏上せよ。 ここにおいて柳原前光・福羽美静・中島信行・細川潤二郎の四氏が委員に選ばれ、この時から十三年まで調査にかかった。民間では例えば尾崎行雄・犬養毅・大隈重信・小野梓・島田三郎・田口卯吉・福沢諭吉・矢野文雄・中上川彦次郎は熱心に研究し出した。 ※翼賛=天子の政治を補佐する http://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1725662547/289
405: ブログ転載 [sage] 2024/11/02(土) 12:45:09.17 そもそも国民を哀憐する事は、もっぱら君主の務めといえども、しかしながら 天子から預かり先祖から受け嗣ぐところの天下泰平を乱すのは、〔乱す長州にとって将軍の〕仁心はかえって不仁となるに違いない。つらつらただ今の日本形勢を考えるのにもはや、 天子の 叡慮を定め、次には非義である謀叛がある。貴国〔※日本〕の泰平に災いする者は他ではない、この二つの事柄にあるだろうからだ。どうしてかというと、始めから政府は 天子から国政を委任されたことであるから、世界の異変を見て時宜に従うゆえに、各国と交易を取り結んだのである。もともと条約を取り結ぶ事は日本においても 天子及び諸侯方も政府と同意ならない時は、かえって不慮の擾乱を醸すに違いない。すでに政府○(「に」落ちか)に背いて内乱を行う逆徒を、日本政府におかれては速やかに鎮静、まさに行き届かないならば、各国からその逆徒を撃とうと議定した。そうすると、その期に及んで貴政府〔※日本〕からどれほど制しなさっても、従うはずはない。 とりわけイギリス政府の処置を考えると、交易をもっぱらとし、自己の利益のみを第一とし、次第に疑念を生じ、あの心、 大君〔※将軍〕は最早誠意が無く、もっぱら鎖港のお考えであろうと思っている所に、薩州長州の大名がイギリスにひそかに使者を遣わせ、いつとなく二ヶ国において開港致すつもりだとの意向を顕しますゆえに、かえって諸大名と外国と睦まじく交際するところ、ドイツ政府のみ鎖港の志があると、イギリスの政府は深く疑っております。 右の事実は貴政府〔※日本〕においてもいまだ疑いなさるだろうか。右は某篤と見定めるところがあって、こう申しますゆえに、イギリス公使はこれらの疑念を晴らすつもりのために上阪して、右の実否を自ら弁明致すつもりの考えでありますので、過ぎさった月に某は熱海において山口駿河守栗本瀬兵衛を使って、大君殿下〔※将軍〕はいずれにも武威を振るいなさるようと閣老衆まで申し上げておきます。その頃イギリスの公使がしきりに上阪しようとするのを延日に致し、または前に述べるように、大名のその言葉に(この辺り本のまま)不都合であるに違いない。 ※仁心=深い愛情 ※推参=招かれていないのに訪問すること?? http://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1725662547/405
445: ブログ転載 [sage] 2024/11/11(月) 19:50:53.17 p280 (四)欧米諸国との親交が加わる 韓国併合によって東洋の平和は永遠に強固となったが、その前後に当たり、欧米諸国との交際も大いに進んで、三十八年十一月英国と互いに公使をのぼらせて大使としたのを始めとして、三十九年一月には米国・ドイツ・フランスと大使を交換し、四十年二月にはオーストリア=ハンガリー帝国及びイタリアと、四十一年五月にはロシア国といずれも大使を交換するに至った。 また東洋に属領を有して我が国と利害の関係が深い国々とは、さらに交渉を重ねることとし、駐英大使林薫に命じて英国政府と交渉させ、以前に結んだ日英同盟を改訂して、東亜及びインドに範囲を拡張し、今度は攻守同盟としたのである。時は明治三十八年八月十二日であった。 次いで明治四十年六月十日には、駐仏大使栗野慎一郎とフランス国外務大臣エスピションとの会商によって、日仏協約及び宣言を協定調印した。その目的は清国の領土を保全し、東洋の平和を維持することにあった。 明治四十年七月にはロシア国と協約を結んで、ポーツマス条約によって生じる一切の権利は互いに尊重し、清国の独立及び領土保全を約束し、清国における機会均等主義を承認し、各その執りうるべき平和手段によって現状の維持存続に務めることを約束した。これによって相互の誤解を除き親交を加えることができた。 日露戦争の後米国では我が国を誤解する者がいる。ある者はフィリピンを奪うのではないかと危ぶみ、ある者は我が国の労働者が全米の労働者にとって代わりはしないかなどと考えたので、明治三十九年十月には日本学童排斥問題を起こし、さらに我が国の労働者をも排斥したので、我が国は度々抗議を申し込み、米国政府もこれの解決につとめたが、容易に事は落ち着かなかった。しかし高平駐米大使と国務卿ルートとの間に交渉を重ねた結果、明治四十一年十一月には、日米覚書の交換が行われた。これは太平洋方面の現状維持と、各自の所領を尊重すること、清国の領土保全機会均等などを約束したものである。 それなのに四十三年一月には米国は突如として満洲における日露両国の鉄道を列国共営となすべきこと、いわゆる満洲中立問題を提議したが、日露両国協議の上、これを拒絶し、同年七月さらに日露新協約を結んだから、ロシア国との親交は戦前にも増すようになった。 http://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1725662547/445
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