【日本史】GHQに焚書された書籍 (542レス)
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69: 2024/09/13(金)20:56:09.18 AAS
During his first audience with Ieharu in Edo from 25 March 1780 until 5 April 1780, he met a lot of Japanese daimyo with whom he later established vivid letter correspondence. He became incredibly prominent within the elite society of Edo and became friends with several current and retired daimyo of the area.
18世紀には、オランダ商人の社会的地位が向上し、日本人に対するオランダ人の待遇も改善され、それ以前の数世紀に比べて日本人はオランダ人に対してより高い敬意と認識を示すようになった。[8] しかし、平均的な商人は日本人の習慣や文化に興味を持っていなかった。ティッチングは、出島の同僚たちと比べても、当時のヨーロッパ人としては信じられないほどの関心を示し、日本文明の注意深い観察者として際立っていた。[9] ティッチングは1779年8月15日に長崎に到着し、アーレンド・ウィレム・ファイトから工場を引き継いだ。彼は通訳と日本人の間に心のこもった友好的な関係を築いた。彼が到着する前は、貿易問題をめぐる争いが絶えず、日本人通訳は貿易問題でオランダ商人にとって腐敗しているように見えたため、彼らに対する強い敵意があった。 1780年3月25日から4月5日まで江戸で家治に初めて謁見した際、彼は多くの日本の大名と会い、後に彼らと活発な手紙のやり取りを交わした。彼は江戸のエリート社会で非常に目立つ存在となり、この地域の現役および引退した大名数人と友人になった[10]

After a short return to Batavia in 1780, Titsingh returned to Nagasaki on 12 August 1781, due to his successes with the Dutch-Japanese trade in Dejima.[11] There were no Dutch shipments from Batavia in 1782 due to the Fourth Anglo-Dutch War and thus the trading post in Dejima was cut off from communication with Java during this year. In this year Titsingh stayed in his position as opperhoofd and concerned himself with befriending Japanese scholars, deepening relations with Japanese friends and researching on all scopes of Japanese customs and culture. He also achieved, due to the absence of Dutch shipping that year, important trade talks and great concessions with the Japanese on a long-debated increase to copper exports from Japan to the Dutch traders.[12]
85: 2024/09/15(日)16:56:18.18 AAS
p69(二)文教復興する

天正十八年、豊臣秀吉にしたがって小田原を攻略した時、諸将士は争って金銀財宝を争奪していた時に、独り古書・古記録ならびに文書を数多蒐集したというのは家康である。
武家法度や公家法度において「左文右武古之法也」と定めたのは家康である。
家康は戦国以来の殺伐な気風をただして太平を至すには、文教の力によらなければならないと考えたもので、慶長六年には伏見に円光寺という学校を建て、僧の三要を教授とした。
慶長七年には江戸城内に富士見文庫を建てて、金沢文庫の書物をはじめ古書を四方から集めてこれを保存した。
寛永十六年家光はこれを城内紅葉山に移して紅葉山文庫と改め、今日は内閣文庫となっている。
家康はまた足利学校の蔵書などを元として、木製活字により孔子家語・周易・群書治要・六韜三略・武経七書などを上梓し、後に幕府において、銅の活字を用い、大蔵一覧集・吾妻鏡などを刊行した。世に幕府版というのはこれである。
家康が文禄の役で秀吉に従って名護屋にいた時、陣中に京都の儒者、藤原惺窩を召して書を講義させた。関ケ原の役の後、また招こうとしたが惺窩は辞退して出ない。よって慶長十三年惺窩の高弟、林羅山は駿府において家康の侍読となる。以後幕府の学者となり家綱に至る。子孫はこの職を相継いだ。林家の学は宗の朱子学である。
京都の学者はこれを非として、幕府に朱子学を中止するように願ったが、家康は、人倫の道は自由に講義するのが相応しいと言って、ついに朱子学を幕府の学としたのである。
五代将軍綱吉は、母桂昌院が何よりも学問を勧めたので、幼いときから、並々の人が及ばないほどであったという。将軍となった後も、自ら書を殿中で講義して、あるいは自ら大名の邸宅に至って開講するという熱心さで、おおよそ歴代将軍中、学を好んでいる点においては綱吉の右に出る者はいないであろう。
省4
209: 2024/10/01(火)15:56:46.18 AAS
p158
慶喜は賢明の聞こえ高く、天下の信望を一身に集めた人である。将軍になる時も決して好んだわけではなかった。また水戸学に養われた彼は、最初から大政奉還は覚悟の上のこと、ただ奉還後の政体に見当がつかなかったので、今まで逡巡していたが、広く公議を尽くし、聖断を仰ぐことになるという見極めもついたので、次第に奉還の準備に取りかかった。
彼は慶応三年十月十三日になると、加賀・薩摩・仙台・尾張・紀州など四十藩その他家臣を二条城に会して大政奉還の事を議論し、十四日いよいよ奉還の奏上を行った。
朝廷ではその翌日慶応三年(二五二七)十月十五日ただちに勅許がある。十二月九日王政復古令が出ることとなった。こうして十五代二百六十五年間にわたった江戸幕府は倒れ、武家政治も六百八十二年をもって王政復古に復(かえ)った。

(九)維新の戦乱鎮まる

十二月九日王政復古令が出ると共に、新政府の組織は定まり、かつ慶喜に対しては将軍職辞職が聞き入れられ、辞官・納地の二事を表沙汰にせず内々で知らせ、少しも新政には関与するところがなかったので、二条城中、会津・桑名の諸藩及び幕府の旧臣など大いに激昂した際、十二月二十二日江戸における薩摩浪士が、江戸西丸に放火したことなど伝わったので、彼らは薩・長二藩の態度を疑い、また徳川氏に対する処置は黙するべきではないとし、慶喜の命令を待たないで、倒薩の檄を諸藩に伝えて徴兵し、翌明治元年正月二日から進軍を開始し、伏見方面へは会津・新撰組兵、鳥羽方面へは桑名・大垣の兵が向かい戦ったが、六日になると幕軍はことごとく潰れ、大阪城を目指して走る。慶喜は形勢が非であるのを見て、六日ちょうど堺浦に来ていた幕艦海陽丸で海路で江戸にかえり、諸兵はそれぞれ領地へ逃げ帰った。征討大将軍小松宮彰仁親王は九日に大阪城へお入りになった。慶喜は二月十一日上野東叡山寛永寺の塔頭大慈院にこもり、ひたすら恭順の意を表した。
226: 2024/10/03(木)15:41:31.18 AAS
>>115>>132
塙保己一の創立した和学講談所で編纂されてきた「史料」は、「六国史」以降の歴史史料を年代順にまとめたもの。
外部リンク:ja.m.wikipedia.org

六国史(日本書紀、続日本紀、日本後紀、続日本後紀、日本文徳天皇実録、日本三代実録)は光孝天皇(887)までが収録されているが、それ以降国史が作られてこなかったのは、天皇一極体制の終焉による。
律令制の崩壊、朝廷の人材不足、藤原氏の摂関政治が栄え、武士に実権を握られると天皇の歴史編纂も完全に終わりを迎える。

「もっと大きな原因は政治の衰顔であろう。財政窮乏による政府事業の縮小、弥縫姑息の無気力の政治といったものが、必然的に律令政治の象徴の一つである国史撰修を挫折させたのである」(坂本太郎『六国史』吉川弘文館)

そして江戸時代になり塙保己一が史料の編纂を始めるも、子の塙忠宝が伊藤博文に勘違いで暗殺され中断。史料は宇多天皇から後一条天皇の約150年分がまとめられた。
その後は明治天皇が正史編集の詔を発するも一時中止、帝大に歴史編纂所が設けられ、保己一の史料の150年分は増補し、「大日本史料」として現在も刊行が続いている。
387: ブログ転載 2024/10/28(月)16:47:43.18 AAS
〔慶応二年丙寅年 尊攘録探求書〕

慶応二年八月六日、荘村長崎の報告

(前文は七月二十八日の条にあり)

ただ今港内に滞舶の幕船富士山・翔鶴丸・長崎丸・回天丸、二十間〔※23.6m〕ばかり小形の蒸気船順道丸など、皆々港内へ滞舶いたしております。
小笠原公は、五ケ所の寺院を借り受け宿衛になり、昨日まで兵士の炊き出し方は千人を超え、今日明日とも、なおまた多人数が参りました。手当ての事情は、炊き出し方御代官の高木作右衛門手で受け持ちますとうかがいます事。
領主直轄保護林はもっぱら警衛組などを召集し、大小炮器を備え、もっぱら激徒防御の覚悟でございますとの事を、笹山東吾大炮組教示方にて極密にと言い、話し聞きます事。(八月三日)
英人ガラバーは言う。小笠原壱岐守は、昨日ポルトガル国商船に乗り組み、御目付が同行、大阪へ発帆になりますと言う。ドイツ人キニフル(人名)が話し聞きます内容も同様でございます。(八月五日)
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